読書 その2 | 悠志のブログ

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ぷくぷくぷくぷくぷくぷく。

 

 10月23日。「人情裏長屋」がまだ途中です。

 山本周五郎「秋の駕籠」読了。

 江戸の駕籠かき、六助と中次の、諺に云う〈正直者が馬鹿を見る〉の、逆を行った話。居酒屋で知り合った、「いそ」と名乗る恰幅のいい商人風の男を、江戸から箱根まで通し駕籠で乗せての旅。駄賃が五両と法外で、驚いた二人だが、それで六助から怪しむ意見も出た。だが中次は乗り気で結局六助も折れ、話に乗ることになった。ところが道中の途中で、同心風の役人に呼び止められた。このいそという男、江戸の商人をペテンにかけ、大金をもって逃走。その金にものを云わせて二人を巻き込んだのだった。男はお縄になったが金は見つからない。江戸へすごすごと帰る途上、駕籠が妙に重たいのに気づいた。よく見ると、金四百五十両がそのまま残っていた。これを持ったまま逃げることもできたが、引き返し、江戸の商人の手代というひとにこの金をそっくり返しに行った。お礼に十両という大金をもらった二人だった。

 この話、1952年12月に講談雑誌に載った話だが、もう後年の周五郎作品のムード・作風が十二分に表れている。居酒屋の娘・お梅の描写とか、六助と中次のただ仲がいいだけじゃない、ちょっとしたことですぐ喧嘩になるくだりとか、人物の描き方が単純ではなく、入り組んでいて奥が深い処とか見どころはたくさんある。一番特徴的なのは勿論、大金を馬鹿正直に全額手代に返しに行くくだり。前半中盤の生活描写があけすけ・ざっくばらんで、そのためもあって、このくだりの六助・中次の迷いの無さが胸を打ったのだった。二人はなぜ迷いなく金を返しに行ったのだろうか、ということを考える。人様のお金に手を付けようと思わなかったのには、大金をみて慌ててしまったこともあろう。早く返さなきゃと思ったのかもしれない。それにこの金が見つかる前は、騙される方にも落度はあったのだと、帰り道、持ち金なしにどうやって帰ろうと思っていた。かといって自分たちは客の旅の金を盗み取る雲助とはちがう。堅気の駕籠かきとしての誇りがある、そういう記述があった。冒頭からちょっと過ぎたあたりに、「金持ちと成上り者は客にとらなかった。威張っている人間や気障なやつも客にしなかった」という記述もあった。これが伏線になっていたのに今気がついた。そういうふたりだったゆえに、こんないい目にあえた。それが後味の佳さを醸し出している。爽やかな話である。

 10月24日。

 「豹」読了。

 周五郎には珍しい現代小説。神戸が舞台。主人公・正三と、兄嫁・純子の危うい一夜のニアミス的な出来事が、須磨寺で飼っていた豹が逃げ出した話と絡まって、ある種のスリルを生んだ。昭和8年9月作というから、1933年のごく初期の短篇である。話と言えばこれだけであるが、若き日の周五郎の文才も、捨てたものではないと思いました。あと、この作、内田百閒に、「神楽坂の虎」という短篇があるのを想起しました。怖さで言えば百閒のほうがずっと優りますが、周五郎もいい。エンディングに若干工夫が足りない気はしますが、もう少し色味をつけたほうが面白くなると思う。

 あ、いま急に思いだした。内田百閒の処女作「冥途」に、「豹」という短篇があるのを、ころっころ忘れていた。この百閒作は、小鳥屋で飼っている、檻の豹が逃げ出して、人を襲いはじめる話だが、情景描写が驚くほど具体的で緻密で、恐怖演出も生半可なものではないが、ユーモアもあって、最後はそこにいたものみな、豹までいっしょにわらって終わるという、一種の狂気さえ感じさせる短篇だった。芸術性という点では、百閒作はものすごくおもしろい。周五郎作の「豹」とは扱い方がまるで違うので、比較するわけにはゆかないが、周五郎作より百閒作のほうが読み物としておもしろいと思う。

 「麦藁帽子」読了。

 或る海辺で出会った老人のむかしの恋話。けれども語られたその話は切なく哀しい物語で、主人公・斧田は胸を打たれた。けれどもこれ、作者は感動しているかも知れないが、その感動が、読者である自分には伝わってこない。これは作品としては失敗作。これも現代小説で、1934年11月作。おそらく周五郎が現代小説から足を洗い、歴史小説に身を転じたのはこういう小説の出来に嫌気がさしたのではないのかといらぬ邪推までしてしまった。

 これにて「人情裏長屋」すべて読了。次は何を読むか、思案中です。

 

 よし、次は堀江敏幸「戸惑う窓」を読みます。

 

 きょうは2023年11月13日。

 堀江敏幸「戸惑う窓」、まだ100頁近辺をうろうろしています。このひと、文章は調っていますけれど、読者を惹きつけてやまないような引力・求心力に乏しいものを感じます。読みすすめるうちに面白くなって来てはいますが、どこが魅力かというと、知的なところ。かなり博識で、読書量も相当な人のようです。

 

 あと山本周五郎「季節のない街」も同時進行で読み進めています。周五郎の現代小説の中でも傑作、と事前に聞きましたが、時代小説における周五郎の長屋ものと同じ流れを感じます。これはまだ70頁近辺をうろうろしています。黒澤明の「どですかでん」の原作。

 

 きょうは11月24日。

 堀江敏幸「戸惑う窓」読了。

 読みやすい本でもなかったけれど、読みづらい本でもなかったです。読めば読むほど惹きつけられてゆくものを感じました。このひとはきっと固定ファンがいるだろうな。好きなひとはむちゃくちゃ好きになれちゃうひと。この作品では全編を通じて、窓というものの考察を行っています。万葉集における古人たちにとっての窓。フランス窓についての考察。マチスの画における窓。梶井基次郎のえがいた窓。レオン・ウェルトの窓、サン・テグジュペリの窓、ボナールの窓。シムノンの窓。ヒッチコックの「裏窓」における窓。安部公房の「箱男」における窓の在り方。芥川龍之介作品における窓。レイモンド・チャンドラーによる、フィリップ・マーロウの訳者による存在感の違いと窓の在り方。立原道造のソネットにおける窓の扱い方。アンドレイ・タルコフスキー、粗悪なタイプライターの思い出。尾形亀之助とその詩における窓。これらを、ロジカルに描きだしてゆく。書かれているのは主に窓のことだけなので、単調になりがちだが、冷静で淡々としていながら、文章にある種の緊張感があり、それが読者を惹きつける。ただこういうたった一つのことをテーマにエッセイを描くというのは、難易度も高いし、それにあまり面白そうな読み物にはならないことは最初から予期できたことだし、実際そうなった気がしなくもない。不毛な仕事とは思わないが、絶賛に値する仕事でもない。他にやるべきことはあるんじゃないのかと思ったのが正直なところです。

 

 11月はじめに買ってきた、谷川俊太郎「はるかな国からやってきた」の、75頁あたりをうろちょろしています。これも読み終えたら感想書きます。山本周五郎「樅ノ木は残った」と、森鴎外「阿部一族・舞姫」が待機中。来月も面白そうな本を探しに、書店をちょろちょろしてきます。もっと現代の小説が読みたいです。

 

 きょうは2023年12月22日。
 山本周五郎「季節のない街」読了。
 東京の街外れの、時代の流れから取り残されたような場所。彼ら住人から「街」と呼ばれた貧民街を舞台にした、様々な人々のものがたり。
 15篇の物語でできているけれども、ひとつびとつの話が完全に独立しており、15篇の短篇小説のように読める読み物で、登場人物の描きこみが緻密かつ複雑で、話そのものも一言では到底表現できない、重層的というのか乱麻のような話が縺れて何処からもほどけないものになっているものもあり、しかも、人情噺の得意な周五郎にしては、渇いた、人情や情愛の感じられない殺伐としたものがあったり、業の深い女の妄執のようなものを感じさせる話があったり、虚栄心と嘘だけで出来上がっている、似非インテリの話があったり。人情というよりは、ユーモアをより感じられるような印象を強く受けました。
 ひとつひとつの作が独立していると書きましたが、登場人物が別の話の登場人物と交わる場面があまりなく、15の話がてんでに時や住む家をたがえただけで、どの話もこの「街」を一歩も出ず、このなかで繰り広げられてゆきます。そのあたり、周五郎のどの時代小説よりも、入り組んでいて面白く感じました。
 この物語の「あとがき」、昭和37年(1962年)12月と明記されています。周五郎は1967年に他界していますから、この作品は彼のかなり晩年の作で、まさに円熟期に書かれたもの。酸いも甘いも噛み分けた大人の文学がここにあります。

 おなじく12月22日。
 きょうから宇佐見りん「推し、燃ゆ」を読みます。もう40頁あたりをうろうろしています。

 

 12月27日。

 「推し、燃ゆ」。まだ65頁あたりをうろうろしています。

 この小説、現実感が凄いです。殊にバイトの場面。実際に経験しないと絶対に書けない小説。それがひしひしと伝わってくる。いまのところ、そこがまず着眼したところです。

 

 

 2024年1月1日。

 明けましておめでとうございます。

 宇佐見りん「推し、燃ゆ」読了。

 推しが燃ゆるというんだから、最後に推しが焼身自殺でもするのか、ファンに焼き殺されるのかと思って読んでいたが、結婚・引退するだけで何も起こらなかった。あっけない幕切れ。

 生活の描写はリアルで、実体験が元になっているようだから嘘の匂いはしないが、推しのファンとしての行動はもうちょっと掘り下げないとつまらない。宇佐見りんさんはアイドルの推しなどやったことがないのだろうと思った。それと、コンサート会場で売られるグッズを一通り全部買ってしまうファン心理は、鹿せんべいに群がる奈良公園の鹿のようでもあり、パン屑に群がる公園の鳩のようでもあり、ある種の下等動物のようにも感じたのが正直なところ。

 この小説、現実と虚構の落差を明確に描きこんでいる処が評価されたんじゃないかと思うので、面白いとは思うけれども、芥川賞?を獲れるほどのレベルではないような気もする。少なくとも後世に語り継がれる名作とは言えないんじゃないかと僕は思う。

 

 昨年末からギュンター・グラス「ブリキの太鼓(第一部)」を読みはじめていますが、文字が小さくて、難儀しております。僕も早や老眼だ。老眼鏡買わなきゃ。よって遅々として読書は進まず、まだ20頁近辺をうろうろとしております。僕はこれの映画化された作品が大好きで、人類史上、映画の最高傑作は「ブリキの太鼓」ではないのかと思っております。

 

 同じく、1月1日。

 谷川俊太郎「はるかな国からやってきた」読了。

 例によって、谷川さんの過去の多くの名作からのアンソロジーで、2003年に初版刊行とあります。

 大変な名作で、佳い詩がたくさんありました。これはと思ったところには付箋を貼ってみましたが、それが数えきれないほどになっています。全体的にバランスが取れていて粒がそろっており、つまらないと思った作が一篇もありません。昨年感想を書かせていただいた「すてきなひとりぼっち」の対になる作品集で、「すてきな……」でこれはいいと思った、「ほほえみのわけ」や「私が歌う理由」のような、ガツンと胸を打たれるような詩はないものの、あの「生きる」という詩があり、「みみをすます」があります。

 谷川さんの詩には、駄作がありません。早熟な詩人が長生きしてこうなったのです。女性にもてたと言います。これだけ魅力的なことばをあやつれれば、そりゃあ女性にももてたでしょう。ですが永い生涯のなかで、言葉遊びに終始した時期もあったようですが、それも空虚な遊びにはしなかった。何か手応えを感じたからやったのでしょうし、実際得るものも多かった。あのまど・みちおさんも言葉遊びを単なるお戯れにはしなかった。谷川さんもまどさんからは多くのことを学んだのかも知れません。

 谷川さんは、虚構というものを巧妙に扱ったという印象があります。現実を虚構のように描き、虚構を現実のように描いた。そんな風にとれる詩が、ままあります。ファンタジー。夢幻。泥臭く、人間の、労働者の詩みたいなものはあまりなく、地面から1センチメートル浮いているような詩。そんな印象を感じます。ほんのわずかですが翔んでいるのです。現実の生臭さ。たとえば、土砂降りの日の泥流が醸し出す匂い。たとえばごみ収集車の酸っぱい悪臭。そんな臭いは谷川さんの詩には似つかわしくないし、実際そんなものはない。日本の社会派の詩人が好んで描いたのは、そういう生々しい詩だと思いますが、谷川さんはそういうものから離れていた。谷川さんの詩の行間からは、風に乗ってなにかいい匂いがしてくるようです。いい匂いと言っても香水とか花の香りじゃなく、滝や清流の匂い。枯野に吹く風の匂い。そんな気がします。違うでしょうか。僕にはそんな気がしてならないのです。

 

 1月2日。

 安部公房「カンガルー・ノート」読みはじめています。

 一筋縄ではいかない作家なので、用心深く読み進めています。

 

 1月10日。
 安部公房「カンガルー・ノート」読了。
 向う脛にかいわれ大根が生えてきてしまった男の、奇談である。
 と、これだけを書くと、題材としては前衛演劇によくある話のように思えるが、この後の展開の目まぐるしさには恐れ入る。皮膚科を受信した彼は、病院の手術室にゆくが、そこからベッドは走りだし、街路を滑走し、運河をゆく小舟に乗り、賽の河原へ行き、という、いちいち書いていたらきりがないが、その一つ一つの話が、世相への風刺であり、ブラックユーモアであり、読者をおちょくっているようでもある。
 以前、ぼくの友だちとも話していたことだが、安部公房というひとは、小説から読んで察するに、精神のおかしなひと、統合失調症のひととか、そういうひとではなく、普通の人に見える。普通のひとだけれど、いつも現実のおかしなところに気づき、そこをヒントに、おもしろい小説を書く人なのだ。相当に頭の回転が早く、切れ者、つまり才人で、人の思いの及ばぬところにまで目が行くひと。そのように感じられる。彼にとって自分の周りに起きていることは、創作のヒントに満ちあふれていて、どこを切りとっても切り口が鮮やかなせいで、おもしろいものができてしまう。そういう羨ましい才能を持った人だとおもう。それゆえ彼の小説を読んでいると、常識でお話を書いていないから、おもしろくておもしろくてしかたがない。ずっと前、彼はノーベル文学賞の選考に毎年落ちつづけていた、井上靖氏の小説について、「あの程度の小説でノーベル賞を狙えると考えるのは、やはり無理がある」というようなことを言っていた記憶があります(うろ覚えなので、もうちょっとニュアンスの違う言い方をしていたかもしれませんが)。

 ひとつ言えるのは、安部公房の小説は、同じものでも幾度読んでも新鮮で、茶目っ気とブラックユーモアと、示唆に富んだ含蓄のある文章表現を感じます。けっこう文体がドライで、殺伐とした表現が出てくる時もありますが、つねに冷静で滅多なことでは感情的にならない、エモーショナルな文章を書かない点からは、彼の作家としての潔いスタンスの取り方が感じられます。湿気がまったくないので、爽やかなのです。クールとも言えますが、村上龍氏のようなクールさではなく、あんなにワイルドではなく、スカッと晴れた空ではないのに、やたらと気持ちのいい筆致がつづく。それも彼の魅力かもしれません。

 

 1月11日。

 「新版・万葉集(第1巻)」読みはじめています。

 いま54頁あたりにいますが、中身の濃い歌集です。百人一首に入っている歌もあり、基本的に詠み方がストレートで、歌人の意図が読み取りやすく、また、現代にも通ずる普遍性もあります。古今和歌集や新古今和歌集のような衒いはなく、技巧に溺れるような浅はかな歌はいまのところ、一首もありません。

 

 このあと、安部公房「R62号の発明/鉛の卵」を読もうか、どうしようか考慮中です。その前に「ブリキの太鼓」を読まねばなりません。いま、40頁あたりをうろうろしています。頑張って読みます。

 

 1月14日。

 八木重吉詩集「秋の瞳」と「貧しき信徒」について書きます。

 八木重吉は大正14年8月、「秋の瞳」という処女詩集を出版した。生前に発表したのはこれ一作である。そして、死後3ヶ月のちに(昭和3年2月)「貧しき信徒」が出版されている。

 僕が八木重吉の詩に出会ったのは1996年頃だったと思う。小沢書店から出ていた「八木重吉詩集」によってだった。その翌年僕は「定本八木重吉詩集」に出会えた。この詩集は彼のオリジナル詩集2作収録の詩の総てを、完全な形で(現代仮名遣いではあるが)、網羅した詩集であった。

 この「秋の瞳」と「貧しき信徒」を僕は本が擦りきれるほど読んだが、この2つの詩集はどちらも甲乙つけがたい、面白い詩集になっている。特にこの「秋の瞳」は後年出た「貧しき信徒」に比べて、言葉遣いはこなれておらず、無骨にも受け取れるけれど、一篇一篇には相当な力がこもっており、その想いの強さがこの詩集の最大の魅力にもなっている。

 八木重吉詩集の著作権はもうとうの昔に失効している。だからここに代表的な詩を列記できると思うので、やってみようと思う。

 

 

白い枝

 

 

白い 枝

ほそく 痛い 枝

 

わたしのこころに

白い えだ

 

 

 この詩は重吉の繊細な感性を十二分に表した作で、詩集の冒頭にあったので、僕はこの詩を目にした時、頭をガツーンとやられた気がしたのだった。

 まず、この詩は、「白い 枝」と来る。読者は白樺か何かかなと考える。だがこの詩の緊迫感は、その直後の「ほそく 痛い 枝」に表われる。あまりに細すぎる枝のそのすがたに、つよいシンパシー、共感を覚えるのだ。さらに、「わたしのこころに/白い えだ」と来る。重吉は共感を飛びこえ、細い枝と同化しているのだ。

 

 

悩ましき 外景

 

 

すとーぶを みつめてあれば

すとーぶを たたき切ってみたくなる

 

がらがらとたぎる

この すとーぶの 怪! 寂!

 

 

 この詩の凄いところは、「すとーぶを たたき切ってみたくなる」という措辞だろう。重吉には、ストーブとは猛々しいような、禍々しいような、怖いような、そんなイメージなのだろう。重吉の詩は短すぎて、何処がどういいととても言いにくいのだが、いいものはいいのだから仕方がないのだ。どんどん行こう。

 

 

草に すわる

 

 

わたしのまちがいだった

わたしの まちがいだった

こうして 草にすわれば それがわかる

 

 

 草と相対する重吉。自分も自分なりに正直に生きているつもりだのに、草をみていると、草の方がはるかに正直に生きている。草に座ればそれがわかるのだ、

 

 一方、「貧しき信徒」の方は、病床にあって相当に推敲を重ねた形跡があり、その所為もあってか、余計な力の入っていない、よく作りこまれた詩集になっている。個人的に好きな詩、共感できる詩も多い。

 まずはこの詩から行こう。

 

 

 

 

こころがたかぶってくる

わたしが花のそばへいって咲けといえば

花がひらくとおもわれてくる

 

 

 詩人の、最も詩人らしい感性。それがここに表れている。秋になると、花のそばに行って「咲け」と言えば、花が咲くというのだ。その断定の烈しさに打たれる。

 

 

 

 

夜になると

からだも心もしずまってくる

花のようなものをみつめて無造作にすわっている

 

 

 いつの季節だろう。花の季節だというのだったら、たぶん春だろう。重吉の家には大正のこの時代、ラジオもない家で(東京でラジオ放送が始まったのが大正14年だが、キリスト教信者の彼が家に高価で俗なラジオを置くとは思えない)、夜になるときっと静かだったのだろう。重吉はそんな時、ココアを一杯飲んで、2階の書斎の机に向い、作詩に励んだという。野中の一軒家ではないが、物音一つしない。そういう処にじっとしていると、体も心も静まって来るのを感ずる。「花のようなもの」とは何なのか、わからないが、神のようなものか、それとも重吉の心のうちの〈花のようなもの〉であろうか。それを見つめ、〈無造作に〉坐っている。〈無造作〉ということばを、詩人は意図的に遣っている。正座しているのでもなく、だらしなく寝そべっているのでもなく、〈無造作にすわっている〉。何にもしていなくても見えてくる、花。その花の尊さをいちばんわかっているのは重吉自身なのだ。

 

 

 

 

木に眼が生って人を見ている

 

 

 この一行詩は、まず題が〈冬〉であるところに目が行く。冬ともなれば、落葉樹は葉を落とし、枯木になってしまっている。その木をみつめていると、木のほうでも自分を見ているような気がしてくるのだ。木のどこかに、〈眼〉があるのではないのかと思うのも当然だろうと思われる。

 

 

大山とんぼ

 

 

大山とんぼを 知ってるか

くろくて 巨きくて すごいようだ

きょう

昼 ひなか

くやしいことをきいたので

赤んぼを抱いてでたらば

大山とんぼが 路にうかんでた

みし みし とあっちへゆくので

わたしもぐんぐんくっついていった

 

 

 大山とんぼとは何であろう。〈くろくて 巨きくて〉というから、たぶんオニヤンマのことだと思われる。どんな〈くやしいこと〉をきいたのか、しらないが、詩人にとって大山とんぼは、彼の救いになってくれたのだろう。それにしても〈みし みし〉というオノマトペがあまりにも見事で、この言葉が掲詩を胸を打つ詩にする最大要因になっている気がする。そのあとの〈わたしもぐんぐんくっついていった〉も詩人のわくわくするような胸躍るきもちを反映させる措辞になっている。

 

 

 

 

虫が鳴いてる

いま ないておかなければ

もう駄目だというふうに鳴いてる

しぜんと

涙をさそわれる

 

 

 これは彼の病気が、結核であると分かってしまった時に、重吉が詠んだ詩である。当時結核は不治の病で、これと言った治療法が無かった。何をみても、何を聴いても、自分の命というものが思われたのであろう。〈いま ないておかなければ/もう駄目だ〉という措辞に、詩人の絶望が感じられて、たまらないものがある。

 

 

 

 

原へねころがり

なんにもない空を見ていた

 

 

 いまもありありと憶えているが、僕が初めて八木重吉の詩を、書店で見たとき、パッと開いた頁にあったのが、この詩であった。こんなものが詩なのだろうか、と思った。だが、つらつら思うに、重吉の詩を読んでいて、いちばん胸を打たれるのは、こういう詩なのである。ここには捨て身になりきって、自分の心を野へ抛りだした重吉のすがたがある。〈なんにもない空〉という措辞に、空というもの、天然自然のものに自分自身を解放し、自ら自然と同化し呼吸している、彼自身の存在をつよく感じずにはいられない。

 

 

 

 

窓をあけて雨をみていると

なんにも要らないから

こうしておだやかなきもちでいたいとおもう

 

 

 重吉には数篇、雨の詩があるが、彼は雨が好きだったようで、殊に雨を見ることに特別な思いがあったことが察せられる。〈なんにも要らないから〉という言葉には、死病にとりつかれた自分ゆえに、もう何にも望まない。病気が治らなくてもいいから、この雨を平安な気持ちで観ていたいという、彼のつらく、深い想いが行間を読めば読むほどにつよく察せられてくる。

 

 

素朴な琴

 

 

この明るさのなかへ

ひとつの素朴な琴をおけば

秋の美しさに耐えかね

琴はしずかに鳴りいだすだろう

 

 

 重吉の多くの作品のなかで、最も完成された詩であり、これがいちばん好きというひとも多い。重吉の最高傑作であると誰もが認める詩である。秋という季節を愛した重吉。秋の〈この明るさのなかへ〉という措辞に、誰もが想いうかべるのは、太陽の光に照らされ、錦、この場合は紅や黄色や黄緑に輝くもみじだろう。そこに〈素朴な〉琴をおけば、その美しさに耐えかね、〈琴〉は、ひとりでに鳴りいだすというのだ。この中で〈素朴な〉は、意図的な措辞である。この形容詞がここにおかれているのには、大きな意味がある。〈秋の美しさ〉と相殺し合わぬよう、ひきたてるためにもっとも相応しい言葉を重吉は選んだのだ。ここには無駄な言葉は一つもない。足りない言葉も一つもない。完璧な詩である。そこには重吉詩の奥ゆかしさと、詩人の恥じらいのような心も感じられるし、控えめながら微笑みのような感情が横溢するのを感ずる。

 

 

 

 

あの 雲は くも

あのまつばやしも くも

 

あすこいらの

ひとびとも

雲であればいいなあ

 

 

 〈あの雲〉も〈あのまつばやし〉も雲。〈あすこいらの/ひとびと〉も雲であればいい。そこに確かに在るものであり、儚いものでもある。重吉のこの作は、自らの命の短さを自覚したひとの描き上げた詩であり、どんな命もみなやがて死ぬことを思えば、限られた命の尊さが胸に迫ってくることを、ここに描いているように思われる。美しい詩である。

 

 

 2024年4月12日。

 安部公房「R62号の発明・鉛の卵」読了。

 安部公房が30代にさしかかったころの、ごく初期の短篇ばかりをあつめた小説集。

 巻末の、「鉛の卵」を興味深く読みました。

 設定がおもしろいです。

 1957年11月「群像」に掲載された小説ですが、1987年に埋められ、2087年に掘り出されるはずだったのに、何故か80万年後に発掘された〈鉛の卵〉。

 そしてその鉛の卵から現れたのは古代人(つまり私たちであるところの現代人)。だが80万年後の地球では人間は〈どれい族〉になってしまっており、ほかの人間はみな葉緑素を血液の代わりに体内に入れ替えた〈植物人間〉になってしまっていたという、荒唐無稽な話。

 このものがたり。視点・立場が変わるとこうまでものの見方が変わってしまうのか、という見本のような話であって、ラストでは大どんでん返しが起こります。

 当時の安部公房の文章はすでに完成されていて、破綻がなく、未熟さも感じません。作品のなかには中国大陸を舞台にした短篇もありましたが、情景描写が的確で、強い理性によって制御されているのを感じます。描写が密すぎて、読みづらいといえばそうなのですが、でも題材が面白いのでまた読みたくなります。

 

 あと、ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」は第1部の120頁あたりをうろうろしています。字が小さいので読みにくいのですが、映画がこの原作を忠実に映画作品に仕上げたものなので、ストーリィは追いやすいです。

 

 あと幸田文「木」を読みはじめました。

 今村夏子「むらさきのスカートの女」も読みます。

 

 きょうは2024年5月12日。

 幸田文「木」読了。

 樹木全般にわたる随筆集。

 殊に「灰」に関する随筆を興味深く読んだ。

 樹木に関する内容ではなく、火山灰に関する記述がほとんどを占めている。桜島と有珠山の火山灰には違いがある。同じ活火山でも、始終火山灰を降らせている桜島と、噴火した時だけ灰がふる、有珠山とでは火山灰に対する思いがまるで違う。桜島の住人は有珠山のふもとに住む住人を羨ましいと言った。幸田文の文章は、実に良く書けていて無駄がない。気品があり、風格すら感ずる。女性を文豪と言っていいのかわからないが、文豪と言っていいひとだ。この「灰」も自分の文才だけに頼るでなく、綿密に取材を行い、資料が十分整った末に執筆にかかっている。他の随筆にも同じことが言え、どの作品も痒い所に手が届くような豊かな表現であり、記述である。名文であり、優れた作家の為せる業という外はない。

 あと、「杉」が興味深かった。屋久島の、言わずと知れた縄文杉に関する記述だ。屋久杉とは、樹齢千年を超えた杉しかそう呼ばないということをはじめて知った。縄文杉は樹齢7200年。その杉に圧倒される思い、畏敬の念を感ずるほかはなかった筆者。その率直な、正直な文章に胸を打たれる。

 

 

 きょうは、5月30日。

 今村夏子「むらさきのスカートの女」読了。

 街に現れて永い、人目を惹く、むらさきのスカートの女についてだけ描いたものがたり。

 ミステリアスだった彼女を観察しているうち、どんどん彼女がつまらない女になってゆくのがおもしろいが、何が彼女を変えてしまったのか、神秘の女がただの俗物に過ぎなかったことまでを、たたみかけるような文章で描き切った。殊に、後半、街の有名ホテルの掃除係になってから、所長の不倫相手に成り下がってゆくあたりからの、怒濤の展開は痛快なほど。芥川賞受賞作だが、同じ芥川賞でも「推し、燃ゆ」なんぞよりはるかにおもしろい小説だった。傑作だと思う。

 

 次は、千早茜の「透明な夜の香り」と、山本周五郎の「樅ノ木は残った」を読みます。

 

 

 きょうは6月27日。

 千早茜「透明な夜の香り」読了。

 何というか、読み心地のいい小説でした。

 薫り、匂い、臭い。嗅覚だけをテーマに、一篇の小説を書いた。けれどもそこに描かれた世界はとても繊細で、デリカシーがあり、行間に馥郁たる香りが漂っている。

 主人公・若宮一香。彼女の目に見える情景は、見る対象・小川朔の醸し出す薫りによって描写される。何も言わなくとも、薫りでわかる。そういう小説。

 この作品、それだけの小説ではないんだけれども、そこだけに焦点を当てて読んでゆくと、快い読み心地がやがて訪れる。それがとてもよかった。

 

 山本周五郎「樅ノ木は残った(第一部)」読了。

 江戸初期の、伊達藩で起きたお家騒動を描いた歴史小説。

 渦中の人物・伊達兵部はほとんど前面には出て来ず、水面下で得体の知れないものが蠢いているのが察せられるだけ。そのことが非常な不気味さを伴って描かれている。僕は昔、こどもの頃大河ドラマでこの作品のドラマ化されたものを総集編で見た覚えががあるのだけれど、確か主人公の原田甲斐は斬殺されるはず。そのことだけを憶えている。ともに殺される伊達安芸が今わの際、「甲~斐~っ!」と呻く声を聴いたことを鮮明な記憶として忘れないでいる。たしか原田甲斐を平幹二朗が演じていたような気がするのだけれど、記憶違いだろうか。

 中巻・下巻は来月買いに行きます。スリリングで、緊張感あふれる傑作との印象。いまから読むのが愉しみ。

 

 ルーシー・モード・モンゴメリー「赤毛のアン(村岡花子訳)」、読みはじめました。

 前にも、そう、30年以上前に読んで忘れてしまった作品です。と、言いながら、意外にも憶えていることばかりです。

 もう70頁あたりを読んでいます。アンが薔薇の名前について語っている場面を読んでいます。

 いま、思ったのだけれど、アンが実在したなら、日本語ではRoseという言葉が、〈薔薇〉という漢字をあてられることを、すごく気に入ってくれたと思います。薔薇という字は、とても美しい漢字だと思う。俳句を習うようになって、薔薇の字も書けるようにならないと話にならないのだけれど、いまは辞書を見なくても書ける。そのことをとてもうれしく思います。

 小説を読んでいて、長い、改行のない文章を読んでいると、息苦しくなったり、煩わしさを感じたりするのが常なんだけれど、この小説における、アンの長い長い改行のない話は、息苦しいどころか、想像力に富んでいて、まるでおとぎ話。もっともっと読んでいたくなる。そういう語りです。これは原作の良さでもあるし、村岡花子さんの訳のお蔭でもあると思います(ですが、村岡さん、日本語の文法を間違えて訳している箇所があります。

 そのようすでは物質的、精神的、宗教的な、どんな困難でもきたらばきたれ、即座に解決してみせる、と言わないばかりの勢いだった。

 という一節が文中にあります。〈言わないばかり〉はおかしいです。ここは〈言わんばかり〉を丁寧に言おうとしたのだと思いますが、〈言わんばかり〉は〈言わないばかり〉という意味ではありません。文語で書けば、ここは〈言わむばかり〉。この〈む〉は否定の助動詞ではなく、意志や推量をあらわす助動詞になります。この場合は意志。訳せば〈言おうとするばかり〉。意味が正反対です)。

 

 

 きょうは2024年7月7日。

 アルベール・カミュ「異邦人」読了。

 友人とトラブルが起きていたアラビア人の一人を、ピストルで射殺した男・ムルソーのものがたり。

 彼には、被害者を殺すに足る、これといった動機がない。

 彼は母親の死に際して、一滴の涙も流さなかったし、母の年齢すら知らなかった。

 葬儀の後、アルジェに帰ったムルソーは、恋人マリイと海に泳ぎに行き、喜劇映画を観(マリイが見たいと言ったからだ)、一夜をともに過ごした。

 けれど彼は、マリイを愛してはいない。

 それでもマリイに求婚されると、結婚すると言った。

 他の誰のことも愛してはいない。

 ひょっとすると、母親のことも愛していなかったのかも知れないし、自分のことをも愛していなかったかも知れない。

 友人レエモンとアラビア人たちにごたごたがあることは知っていたし、その喧嘩に巻き込まれたこともあったが、彼らに殺意を抱いたことはないし、ピストルさえ持たなければ、彼は殺人を犯すことはなかったろう。

 この、アルジェの夏の、絶望的な暑さと太陽。

 それが彼を気だるい気持ちにさせたし、アラビア人が向かってこなければどうなっていたか。

 ムルソーは、一発の弾丸を撃った後、さらに四発撃ち込んだ。何故そんなことをしたか。

 「強いて言えば、太陽の所為だ」と彼は裁判で言った。

 彼は太陽に、黙れ、と言いたかったのかも知れない。

 

 裁判では、彼が母の葬儀で泣かなかったこと。母の年齢を知らなかったことを取りざたされた。

 そして、葬儀から帰ってすぐ情婦と喜劇映画を観、帰ってこの女と一夜を過ごした(検事はマリイのことを終始〈情婦〉呼ばわりしていた)。このことを考慮に入れても、ムルソーが尋常ならざる人物であると決めつけた。だから死刑を求刑するに値すると断じた。

 判決が下されて、独房に司祭がやってきた。

 ムルソーは神を信じてはいないし、神などと言うものを存在するとも思っていない。

 給与の貰える分の仕事をし、友人とも角が立たない程度に付きあい、恋人に情欲を抱きセックスを行い、愛せはしないが、共に暮らすこと、結婚は可能だから彼女と生きてゆく。これのどこに神が立ち入る隙があるか。

 判決が下された時、恩赦が出ることを願ったが、司祭が来て気が変わった。

 このあと、ラスト近く、ムルソーが司祭に対して切れる場面がある。

 司祭に殺意を感じ、胸ぐらをつかんで罵った。何を勝ち誇っているのだ。神などという雲をつかむような漠然としたものを信じて何になるのだ。確かなのは神ではなく、近いうちに確実に自分が死ぬということだけだ。この真理は揺るがず、神などというばかげた概念より強い。私は正しいのだ。

 この司祭を罵る場面。2頁あまりつづき、司祭は看守に守られながら消え去った。ここ。はっきり「消え去った」と記述がある。帰っていったのではない。消えたのだ。悪魔が消えるかのように。

 誰でもみんな死ぬのだ。ママンも死んだ。ムルソーは己の死に際して、初めてしあわせを感じたという。

 強い説得力は感じなかったが、それはカミュがまだ若かったせいだろう。あの傑作「転落」での畳みかけるような展開は、この時点ではまだ感じられない。

 

 いまはルーシー・モード・モンゴメリー「赤毛のアン」と、

 柳田國男「遠野物語」、

 島本理生「ファースト・ラヴ」と同時進行で読んでいます。

 あと、森 絵都「みかづき」を読みます。

 

 きょうは7月13日。

 「赤毛のアン」はいま、488頁まで読みすすめました。

 もうすぐ終わります。

 これは誤訳の指摘ではないけれど、村岡花子さんへの〈訳者としてのデリカシーへの疑問〉。

 〈美しい皮膚〉は、……いくらなんでもないんじゃないですか。

 これでは、美貌を讃えているのではなく、蔑んでいるようにさえとれてしまう。

 やはりここは、〈美しい肌〉ではないですか。

 

 柳田國男「遠野物語」もいま、64頁あたりをうろうろしています。

 全部で87頁しかない本なので、もうすぐ終わるところです。

 文語で書かれた本なので、読みづらいといえばそうなのですが、声に出して音読してみると、話の意味がすんなり自分の心に入ってくるのを感じます。柳田氏の文章家としての面目躍如たる由縁が十二分に感じられる筆致です。

 

 島本理生「ファースト・ラヴ」は222頁あたりをうろうろしています。

 文庫ではなく、詩仲間から寄贈された単行本なのですが、あと70頁ちょっとで終わります。

 ここまで来て思っているのは、これだけの文章の表現力なら、直木賞を獲るのも納得だなと思えたのと、これの映画版のシナリオを小説化しただけの作品だったなら、決して直木賞は獲れなかっただろうな、ということ。やはり島本理生の文章のもつ底力のようなものを感じつつ、読み進めております。

 

 

 きょうは7月14日。

 ルーシー・モード・モンゴメリー「赤毛のアン(村岡花子訳)」読了。

 この「赤毛のアン Anne of Green Gables」は、よく知られているように、モンゴメリーが長編小説を書きはじめた初期の作品で、出版社に原稿を持っていったところ、どこからも断られたのでやむなく自宅の屋根裏部屋に片づけ、それきり忘れてしまっていたもの。それから歳月が過ぎ、彼女が再び屋根裏を覘く機会があって、そのときこの原稿に気づき、読みかえしてみたら意外にも面白いので、出版社に持ち込んだところ、出版の運びとなったと聞いている。

 この小説のどこが魅力かと言えば、アン・シャーリーの際限の無い想像の翼ともいうべき空想力である。それに、ブレーキをかけるマリラのひと言がなかったら、空想は果を知らず、きっとその空想のリアリティにアン本人が呑みこまれてしまっただろう。そしてその空想話をただ黙って聴き、相槌だけ打ってくれるマシュウの存在が、アンの救いになっていることが読むたび読者に〈理解されるしあわせ〉を。味わわせてくれる。

 僕が思うに、この「赤毛のアン」を読むたび幸せなきもちになれるのは、人間の空想力は多くの場合、そのひとの心をなぐさめ、不遇な境遇に於いてもひとの心を救ってくれるものであること。だからこそアンは幸せになれたのだし、そのお付き合いをさせてもらった読者の心にも、あったかい灯火をともしてくれるものであることを、物語っている気がする。

 青春小説と言うほど、物語の作りは複雑ではなく、平明なタッチで描かれる一人の少女の言葉。物語の半分か、いやもっと、それ以上かは、アンが語りかける独白的な言葉でつづられる。そのひとつびとつのことばたちの多くは大げさで、聴くに堪えないようなものでありそうなのに、読者が感ずるのは煩わしさではなく、快さ。そこにこのものがたりの最大の魅力があると言っていい。

 

 蛇足:

 僕は知らなかった。ルーシー・モード・モンゴメリーは自殺によって亡くなったひとであることを。

 

 同じく7月14日。島本理生「ファースト・ラヴ」読了。

 直木賞受賞作。

 描かれたのは、性の暴力(精神的暴力・肉体的暴力)、性的虐待。そして心。顕在意識と潜在意識。いわれなき罪の意識によってひた隠しにされた本心。肉親や他人の心ない言葉によって捻じ曲げられる純粋な感情。この小説のキーパーソン・聖山環菜の二転三転する供述。本心が何処にあるのかわからない五里霧中のなかから、やがて公判であらわにされる真実。裁判まではまるで真実が見とおせないが、この永い前半の記述と、いくつものトラウマに苦しむ主人公・真壁由紀と聖山環菜。このものがたり、示された心の傷が、由紀と環菜の二人の傷が重なって見える箇所がある。ある場面では庵野迦葉の傷ともダブる。こういう傷を抉って読者に見せつけるような展開は、読んでいて苦痛さえ感ずるが、発生した謎は一向に明らかにならず、謎のままなので、読者はそれを知りたくて、先を読み進めるほかはない。

 映画でもそうだったが、この小説、曖昧模糊としていながら、ものがたりは緻密な計算の下、執筆されていることに徐々に気づかされてくる。決して行き当たりばったりではこういう展開にはならない。人の、こうしてほしい、誰かを想うままに操縦したいという思惑。心理的に追いつめられてゆく者だけが感ずる苦悩。期待や希望が悉く実現しない失望。どうとでもなれ、何を言ったところで誰も自分のことを信じてはくれないのだという諦観。逃れたくても両親の束縛から逃れられない焦燥。それらすべてがひとりの人間の心の奥底から、ものすごい勢いで噴き出してくる悪夢のような感情の吐露。以前河瀨直美の映画「朝が来る」で感じた〈何処へも行き場のない女の子〉がここにもいることに気づかされた。自分の居場所さえ、確保され、そこが彼女にとって安全で揺るがない場所であったなら、環菜はこんなことにはならなかっただろう。

 このものがたりにとって救いは、被告人訊問において、環菜が自分のほんとうの想いを十二分に、法廷で述べることができ、それを多くの傍聴人が聴いてくれたことにある。自分の思いを信じてくれた人が其処に大勢いてくれたこと。そのことがどれだけ彼女の思いの落ち着きどころをくれたか。計り知れない気がする。