見た感じ、西憲彦の手がけそうなドラマだと思った。西憲彦は昇進したのだろうか。名前が無い。スタッフの中にドラマ「anone」の面々が混じっているようだ。あれも坂元裕二の脚本だった。演出に水田伸生の名があるし、鈴木勇馬、塚本連平の名もある。いずれもよく名前を見かける演出家だ。
DVD-BOXを買ったのだが、坂元裕二へのインタビューで、インタビュアーが、このドラマの前半と後半とで、作りがまったく違うことに言及していたが、作品が未完成的であることをつっつきたかったのだろうか。この構造的な不整合性はたぶん意図的なものであり、欠陥とは言いがたい。僕が思うに、完成された作品など退屈でつまらないし、未完成な作品ほど、言い知れない魅力がある。それは、未完成な作品を鑑賞する時、鑑賞する側のひとは、未完成な作品の欠けた部分を余白として見たり、心のなかで補完したりする鑑賞法を行うからだ。仮に補完せずとも、余白を感ずることは、作品に云い知れない余韻・余情を生む。この余韻・余情こそが鑑賞する作品の神髄と言えるものではないだろうかと思う。未完成というほどではないにしても、カッチリしていない作品にはみな未完成的な魅力がある。関係ない話だが、ビートルズの魅力は「未完成作品である魅力」だと誰かが云っていた。ビートルズのアルバムはサージェント・アルバムを除いて、どれも未完成的な魅力がある。ぼくが彼らの最高傑作であると思っているラバー・ソウルやホワイトアルバムなど、その最たるものだ。そこからゆくと、完璧な曲をつくるポール・マッカートニーより、未完成な作品を作りつづけていたジョン・レノンの楽曲に、心惹かれるのは、そういうところを聴く側が無意識に理解している所為なのではないか。
そういう見方で言うと、映画やドラマも同じだ。要は面白いか面白くないかが肝心であって、完成されているか否かなんて、どうでもいいことなのだ。
それよりインタビューで彼が語っていたことに、終盤の脚本は追われるように、〆切に迫られて書いたということがあったが、むしろ序盤より終盤のほうが緊迫していてスリルさえ感じた。彼の文才の凄みだ。
縦糸と横糸がはっきりしている。というより、第5話までは一話完結ものとしてつくられており、第6話からは連続ものとしてつくられているという、特異な構造のドラマだ。4人の警察の若手職員は、〈自宅捜査会議〉を開き、真相を解明してゆく。小鳥(柄本佑)は刑事課の〈あの人(服部渚:佐久間由衣)〉に真相を告げ、その手柄は上司に横取りされ、事件は解決する。一方、後半は3人の少年が何者かに殺害された事件の糾明。当初、馬淵悠日(仲野太賀)の兄・朝陽(毎熊克哉)の殉職あたりから、小出しにされるが、事件のことが具体的に森園真澄(安田顕)から明かされるのは第6話から。手口は一貫していて、被害者は凶器の刃物でめった刺しにされ、靴は履いていなかったという点。水辺で見つかるのも同じ。同一犯であることは明らかだったが、いずれも関係のないひとが容疑者にあげられ、一分の隙も無い確たる証拠がみつかり、裁判で有罪になり服役中である。事件としてはできすぎ。こう言う事件は裏に何かが隠れているものだ。
この縦糸に乖離性同一性障害(二重人格)の摘木星砂(松岡茉優)の性格の豹変に振りまわされる彼ら主人公3人の様子が描かれる。摘木星砂の別の人格。この子は〈行くところのない女の子〉だった。途方に暮れていた彼女を救ったのが淡野リサ(満島ひかり)だった。リサは生活もままならない行くところのない少女を保護し、引き取って、自分は朝から夜まで働いて、食べさせていた。この女性が少年殺人事件の犯人にされ、指名手配され逮捕された。淡野リサのこと、彼女が少女たちにしたことや彼らの顛末は、社会の暗部に光をあてており、社会派ドラマ的側面を見せていて、こういうところこそが、TVで描くべき〈ドラマにおける真実〉なのではないのかと思った。嘘臭くなく、物語のリアリティを感じずにはいられなかった。どうしてもトー横キッズのことが脳裏をよぎるのだ。台詞に表れなくてもわかる。こういう要素を加えることで、物語がより複雑化し、その世界が拡大深化し、より興味深い作品になってゆく。こういう作劇の手法に、真に賞賛すべき一面があらわれる。坂元裕二はすぐれた劇の作り方に精通していて、その作劇力はもはやある境地に達していて揺るがない。こんな面白いものを見せてもらって、つまらなかったとは言えない。
坂元裕二は脚本の、全セリフがすらすら出てこず、苦しんだそうだが、才能ある人がそれだけ苦しんだからこそできた傑作だという感想を抱いた。才人は苦しまねばならない。才能のうえに胡坐をかいているようではいい作品はできない。それはどのものづくりにも共通することだ。このドラマ、違和感があったセリフは一語もなかった。物語の全編にただようサスペンスの匂い、緊張感は最後まで消えなかった。お見事のひと言である。
それにしても最終回、署長の息子・弓弦は何故、摘木や森園、小鳥たちをめった刺しに殺さなかったのだろう。今までの手口と違い過ぎるのが不可解である。ぼくが推理で補完すると、おそらく、鹿浜と馬淵の駆けつけるのが早く、時間的余裕がなかったのだ。それと、鹿浜と馬淵がいつ帰ってくるかわからないことと、そんな真似をすれば、自分が紛れもない犯人だと全部わかってしまうからだ。それにしても、森園たちはどうやって2階に上ったのだろう。摘木と森園は意識を失ったと考えると、弓弦が2階まで運んだことになるが、どうやって二人を2階まで運んだのだろう。ここも補完すると、たぶん森園は急所を外していて、意識もあり、命に別状なかったのだろう。それはさておいても、雪松弓弦は兇悪な犯罪者である。人の死を何とも思わない男である。殺人を額のおできを潰したぐらいにしか考えていない。シリアルキラー一歩手前の青年である。というか、もう半身シリアルキラーに身体を突っ込んでいる。ここで捕まらなかったら、彼は今後も同様の殺人を続けただろう。たとえば、次の標的になる人は母親だろう。母親は夫が服役したらひとりになる。ひとりになったとき、母親は良心の呵責に耐えられないだろう。最寄りの警察に相談に行くはずだ。それをさせまいとして、結弦は、今度は母親を手にかけるはずだ。そのくらいのこと、屁とも思わないと思う。全編を見終えて、このような疑問がどうしても持ち上がる。また3人の少年殺害に関して詳しい状況はまったくわかっていない。どうやって彼らをおびき出し、どこへ追い込んで、どのようにめった刺しにしたのか。
実はぼくも人を殺す夢を見たことがある。それもつい最近のことで、いつ見たかも覚えている。大河ドラマで、源実朝が暗殺された夜、夢をみた。誰を殺したのかはわからない。ただ刃物で何度も相手をめった刺しにした感触ははっきり覚えている。肉に刃物が食い込んでゆく感触、手許に付いた血糊のぬめり具合、気味が悪いくらいリアルだった。あんな夢はもう二度と見たくない。人を殺した人はきっと、こういう夢を毎晩のようにみるだろう。犯罪者でなくてほんとうに良かったと思った。
ただ、3件目の冤罪事件、容疑者・桐生菜々美はなぜあんな動画をネットにアップしたのだろうか。あんなことをすれば、ネット民に反感しかもたれまい。考えられるのは、被害者の死を半信半疑の想いで受け止めたのではないのかということ。まったく信じていなかったのではないだろうか。或いは彼女は自分を笑い飛ばしたかったのか。この場面、わかりやすい方に想像が働かない。
思えば雪松鳴人は気の毒な人だ。息子・弓弦に人生を狂わされた。けれどもその人生は、自分の決断によって狂っていった人生でもある。誰も彼に同情などしないし、こんな男に同情なんかしてはならない。それは兇悪犯の凶行を全面的に肯定することになるからだ。
林遣都・松岡茉優・柄本佑・仲野太賀の4人が主人公の、群像劇になっている。印象としては、林遣都の熱演と、松岡茉優の技ありの演技が目を惹く。そして田中裕子。このドラマでも名優の片鱗が垣間見られる。あと安田顕と伊藤英明の怪しい演技が、ドラマへの恐怖心を煽り立てる。が、このドラマ、怖いのに可笑しいのだ。特に怖いと思う場面に絶妙なユーモアが隠れている。これが意図的だったら、坂元裕二は天才である。そして演出に水田・鈴木・塚本の3名を抜擢したことは、このドラマを面白くすることに役立っている。これは間違いない。
ブラスをフィーチュアしたジャズのテーマ曲が非常に印象的なドラマ。ジャズのモダンな一面は、この社会性あふれるドラマにぴったりだ。
いいセリフもあった。
「(摘木)人が人を好きになることを否定してまで、正しいとか間違ってるとか決める必要あんのかね?(第1話)」
「(摘木)普通の人とか特別な人とか、平凡とか異常とか、そんなのないと思うよ。ただ、誰かと出会った時にそれが変わるんだよ。平凡な人を平凡だと思わない人が現れる。異常な人を異常だと思わない人が現れる。それが人と人との出会いの、いい、美しいところなんじゃないの?(第3話)」
「(小鳥)片思いはハラスメントの入り口だ。ぼくは、彼女(服部渚さん)に片思いという暴力を振るってしまった。(第4話)」
「(鹿浜)君たちはゲームで必ず勝つ方法を知らないのか? 他人の作ったゲームをしないことだ。なぜわざわざ犯人の作ったゲームをする必要がある? なぜクイズを解く必要がある? 犯罪の主役は犯人だけじゃない。犯人も刑事も被害者もみんな平等に主役でなければならないんだ。(第4話)」
「(鹿浜)いい人がいいことをするとは限らない。悪い人が悪いことをするとは限らない。(中略)何がドローンだ。監視カメラだ。ライブ配信だ、何が自宅捜査会議だ。警察気取りで人を裁いて満足か? この犯人がしていることとぼくたちがしていることは同じだ。歪んだ正義感を振りかざしているのはぼくたちも同じじゃないか。こんなことをしても悪いことはなくならない。ただ誰もいなくなるだけだ(第4話)」
「(小鳥)幸せそうな人を見てどう思うかで自分が幸せかどうかが決まる(第5話)」
「(椿静枝)眉間にシワつくるととれにくいよ。世の中を恨む悪魔になっちゃだめ。人は人、自分らしくしていれば、いつかきっと未来の自分が褒めてくれる。『ぼくを守ってくれてありがとう』って(第5話)」
「(鹿浜)人の悲しみって喜びを知ってしまったことから始まるものなんだ(第5話)」
「(摘木)言い返せなかったことって残るでしょ? 『あなたのしていることは失礼だよ。私は怒っているんだよ』って言えなかったことって何年経っても残るでしょ。今となっては言い返せないし、そういうのって、シャツの染みみたいに残るんだよ!(第6話)」
「(馬淵悠日)大丈夫ですよ。根拠のない『大丈夫』は、優しさでできています(第6話)」
「(悠日)ぼくは前向きな言葉が好きです。『空を飛ぶには滑走路が必要だ』とか、『雨が降らなければ虹は出ない』とか、そういうのって、きれいごとに思われるのかもしれないけれど、きれいごとを口にしてきた人って、泣いてきた人だと思うんですよね。必死に生きて、なのに転んで傷ついて、それでももう一度立ち上がろうとした人たちの言葉だと思うんです(第6話)」
「(森園)私は人を殺す人間の気持ちなんてさっぱりわからない。ごくごく普通の当たり前の人間です。(中略)だからといってね、犯罪者が特別な人間だと思ったら大間違いですよ。孤独だとか、恵まれないとか、恨みだとか、心の闇だとか、そんなものは誰だって持っている。(中略)人を殺していい理由にはならない。人殺しは特別な人間じゃない。かわいそうなのは自分だけだと思っている愚か者だ。自分のことを大好きでしょうがない馬鹿者だ。人を傷つけたらダメなんだよ馬鹿者! 人を殺したらダメなんだよ馬鹿者!(第9話)」
「(小鳥)ぼくの知る限り、悪いことというのは、何も心配していないときに起きる。悪いことが起きるんじゃないかと思っているときは、大抵何も起きない(第9話)」
「(鹿浜)世界中、たくさんの暴力はあるし、悲しいことはあって、僕が生きているうちにそれが無くなることはないかもなって思います。でもね、人にできることって、耳かき一杯ぐらいのことなのかもしれないけれど、いつか、いつかね、暴力や悲しみが消えた時、そこにはね、ぼくの耳かき一杯も含まれているんだと思うんです。大事なことは、世の中は良くなっているって信じることだって。(最終話)」
最後に。劇中で「黒い白鳥」という台詞があったが、「黒白鳥」という鳥は実在する。普通は「黒鳥」と呼ばれる鳥だ。博学な坂元裕二が知らないはずはない。
(劇中、セリフの言い誤りがあった。第7話の安田顕のセリフ、「真犯人は外にいる」。「外にいる」の「外」は「ほか」と読みます。「そと」ではない。坂元裕二は作家だし、教養もあるから「外」を「ほか」と読ませた。こういう読み方は常識があれば読めるはずです。けれども演出にも俳優にも常識がなく、それを気づかなかったわけです。それはともかく、坂元さん、紫綬褒章受章、カンヌ映画祭脚本賞受賞、おめでとうございます。)