読書 その1 | 悠志のブログ

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ぷくぷくぷくぷくぷくぷく。

 

 きょうは2020年11月23日。

 いま、読書にハマっています。
 10冊の本を、一度に10ページずつ読んでいます。
 頭が混乱するかと思ったのですが、意外とそうはならず、するすると物語が、頭の中に入ってきます。頭の回転が良くなるようです。

 読んでいる本は種々雑多。
 挙げますと、
 ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」
 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」
 安部公房「箱男」
 リチャード・ブローティガン詩集「東京日記」
 宮沢賢治「イーハトーボ農学校の春」
 内田百閒「旅順入城式」
 湯本香樹実「夏の庭」
 ちくま日本文学全集「稲垣足穂」
 帚木蓬生「閉鎖病棟」
 「平和をとわに心に刻む305人詩集」

 最後の詩集は、ぼくの書いた詩も載っています。もうすでにどの本も100ページ以上読んでいますが、完読できますかどうか、御覧(ごろう)じろ。

 幾度もくりかえし読んでいるのもあります。
 箱男、旅順入城式、稲垣足穂の「一千一秒物語」は幾度読んだかわからない。幾度読んでもおもしろい小説は、どれも文章が練りに練られていて、つくづくプロの文章だと思う。

 追記:
 「車輪の下」、 読了。
 「箱男」、読了。
 詩集「東京日記」、読了。
 「イーハトーボ農学校の春」、読了。
 「旅順入城式」、読了。
 「夏の庭」、読了。
 「閉鎖病棟」、読了。

 「車輪の下」は結局主人公は、神学校をやめ、職工として生きるも、一人前になる前に深酒して泥酔し、溺死。何が言いたかったんだろうと思う。文章はうまいが、若干具体性に欠ける思索に沈む場面がどころどころあり、そういうところはヘッセの人物像に迫っていて興味深いが、ならば何故彼(主人公ハンス)は小説を書かなかったんだろうと思う。
 「箱男」は読むたび毎回違う小説を読んでいるような感慨に襲われます。
 じっくり読んでいるとわかりかけてくるところ、安部公房が読者に譲歩の態度を見せる章があるけれど、次の章で、彼はぷいっと行ってしまう。
 詩集「東京日記」はアメリカの詩人が、東京に滞在して感じたことを詩にしているのだが、切り口・視点が面白かった。特に興味を惹かれたのは、ビルにたかった蠅が身づくろいをするところを見て、ははーん、この蠅はこれからデートだな。おそらく相手は相当な美女の蠅だろうなと勘繰った詩。
 「イーハトーボ農学校の春」はおそらく賢治の人生との接点が多くある、雑記帳みたいな作品群だと思った。小説の型にはまっていないものもある。
 「旅順入城式」は何と言っても、芥川龍之介の生と死を描いた「山高帽子」が群を抜いて面白いが他にも面白いものがある。「映像」は窓ガラスに映った自分の〈顔〉が寝ている自分に襲いかかってくる話。怖さではこれがいちばんだが、ほかにも口の中にびっしり毛が生えてしまう話や、遣唐使になって何故か中国へ行く話などがある。どれも一筋縄ではいかぬ、ただ事ではない作品群だ。
 「夏の庭」はこどもたちの視点で書かれた、ある老人との心のふれあい、日常を描いたもの。そんなに面白いものでもないが、悪い話でもない。
 「閉鎖病棟」は同名映画の原作だが、それぞれの人物の人生が緻密に描かれており、フィクションの匂いがしないほど、リアリティがある。

 今は、下のものを読んでいます。
 ヘルマン・ヘッセ「荒野のおおかみ」
 「ねじまき鳥クロニクル」第2部(終わるところです。)
 夏目漱石「それから」
 オノ・ヨーコ「ただの私」
 梶井基次郎「檸檬」
 内田百閒「百鬼園随筆」
 「稲垣足穂」
 アミエル「日記」
 絵本「ジョンレノンセンス」
 小栗康平「じっとしている唄」。

 きょうは2020年12月30日です。
 サン・テグジュペリ「星の王子さま」 読みはじめています。
 「ねじまき鳥クロニクル」第3部に入っています。
 川端康成「雪国」読みはじめました。
 数年前第2巻途中で挫折していた「ブリキの太鼓」を読みはじめています。
 宮沢賢治「注文の多い料理店」読みはじめました。

 「稲垣足穂」読了。
 「絵本ジョン・レノンセンス」読了。
 「星の王子さま」読了。

 「稲垣足穂」の「一千一秒物語」は、暴力的描写はあるが、理屈がなく、文句なしに面白い。常識で世界を捉えていないところが、ゆたかな面白みをひきだしている。ジョン・レノンの「絵本ジョン・レノンセンスIn His Own Write」にもそれは言えるが、言葉の響き、韻律、リズム、そういうものに細心の注意を払って描かれているように思える。そして「一千一秒物語」も同じく。詩文に大切なのは、理屈でも常識でもない。掘り下げの深さと、韻律・リズムだ。

 2021年2月は、TVドラマの感想を書くので夢中になっていまして、読書はお休みしていました。
 きょうは3月の24日。
 「荒野のおおかみ」読了(だいぶ前です)
 「それから」読了。

 また読みたくなって、
 夏目漱石「吾輩は猫である」読みはじめました。
 ときどき無性にこれが読みたくなります。漱石の作のうちでは、これがいちばん読んでいて楽しい。
 山本周五郎「赤ひげ診療譚」読みはじめています。
 山本周五郎は黒澤明の映画にもありましたが、厳しい現実認識の裏に、深い人間愛が感じられ、現代の時代小説家より役者が数段上。
 それと「ねじまき鳥クロニクル」第三部、この3冊を集中的に読んでおります。
 ねじまき鳥はもうすぐ読了するところ。
 この小説、村上春樹の最高傑作かも知れませんね。

 2021年4月2日。
 「ねじまき鳥クロニクル」読了。
 あっけない終わり方。こんな終わり方でいいのかな。大山鳴動して鼠一匹?
 やっぱり村上春樹にはノーベル賞はやれません。
 宮沢賢治「風の又三郎」を読みはじめました。
 ぼくは宮沢賢治には疎く、銀河鉄道の夜を最近読んだばかりです。
 あと、継続して「赤ひげ診療譚」
 「吾輩は猫である」を読んでいます。漱石は博学ですね。それに幾度読んでも面白いし楽しい。

 

 追記。

 挫折していた村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」を読みかえしています。

 3分の1ほど読みおえましたが、けっこうハードボイルド、ワイルドな小説です。

 あと今村夏子の「星の子」、

 長嶋有の「ぼくは落ち着きがない」、

 堀江敏幸の「その姿の消し方」読了。

 今村夏子の余韻・余情の漂わせ方がすごく巧みなところ。作風に惹かれます。

 長島有はめちゃくちゃ読みやすく、ユーモアのセンスもあり、作中に出てくる小説など、腹を抱えて笑い転げました。

 堀江敏幸は、文章に風格が漂っていて、端正な文体に惹かれます。

 

 次は長島有の「猛スピードで母は」と、今村夏子の、「こちらあみ子」を読んでみたい。

 

 「猛スピードで母は」読了。

 肩の凝らない普段着の文体で描かれた、母と子のものがたりでした。

 宮下奈都「羊と鋼の森」読了。

 詩仲間からいただいた文庫本で、タイトルから、サスペンス小説を連想しましたが、まったく違う、ピアノの調律師のものがたりでした。

 

 いまは、小山田浩子の「庭」と、

 山口果林の「安部公房とわたし」、

 穂村弘の「野良猫を尊敬した日」、

 谷川俊太郎「空の青さをみつめていると」を読んでいます。

 依然として「コインロッカーベイビーズ」を読みつづけています。

 

 「野良猫を尊敬した日」読了。

 これは意志の弱い、小市民的人物のエッセイ。

 長島有「もう生まれたくない」を読みはじめています。

 

 「庭」。215ページまで読んで、挫折。

 あまりにも改行のない文章で、ストーリィが頭に入ってこない。

 いったん中断します。

 今村夏子「こちらあみ子」を読みます。

 

 「こちらあみ子」読了。

 非常に読みやすい文体ですが、これは、感想書くのがむつかしい。

 ピクニックは面白いですが……たぶん、すべては七瀬さんの妄想だったんだと思う。ウェイトレスたちは彼女の妄想に付き合わされていたんだろう。

 すこし時間を空けて、もう一回読もうと思っております。

 

 「空の青さをみつめていると」読了。

 初期から1960年代にいたる谷川俊太郎の詩集です。

 初期の作品群は繊細で美しいのですが、

 1960年代の頃の作品群は、世界が極端化されすぎ、その結果作品の読後感が大味になってしまっています。彼のような才気に充ちた詩人でも、こういうことがあるのですね。もったいないことです。初心に帰るべきだと思いました。

 

 少し前から、茨木のり子の「おんなのことば」という童話屋の詩集を読んでいます。

 もう少しで、読み終わります、感想もそのとき。

 

 昨年の冬季に放送された、「ウチの娘は、彼氏が出来ない!」のノベライズ本を読んでいます。このドラマで、浜辺美波さんが演じた、水無瀬空という女の子があまりに魅力的で、ハマりました。浜辺美波さんは口もとに清楚なお色気を感じます。けれども、ぼくは別に彼女が好きなわけではない。メガネをかけた浜辺さんが好きなだけであって、メガネを外すと、好きではない。つまり、ぼくは水無瀬空ちゃんが好きなだけであって、浜辺さんが好きなわけではない。こういうことも、あるのですね。

 

 「コインロッカー・ベイビーズ」読了。

 コインロッカーに捨てられたふたりの赤ん坊の、衝撃的すぎる半生。

 ポイントになるのは彼らの犯した罪(あるいは犯罪的行為)と、ダチュラと呼ばれる恐るべき麻薬。

 村上龍は凄い。村上春樹なんぞよりずっと凄い。

 

 「もう生まれたくない」読了。

 有名人の訃報や事件に巻き込まれて有名になった人物のエピソードを掲げ、それに登場人物の人生の出来事をからめた群像小説。そんなに面白いわけではなかった。切り口が甘い。

 

 谷川俊太郎の詩集「いつかどこかで」を読みはじめています。

 「空の青さをみつめていると」と重複している詩もあるようですが、彼の詩集は何でも読んでみたいので買いました。

 

 綿矢りさの「蹴りたい背中」を読みはじめました。

 芥川賞受賞作。

 単行本をもっていたのだけれど、入退院の時のどさくで何処かへ行ってしまったので、文庫本を買いました。

 

 中勘助の「銀の匙」、読みはじめました。

 各章が2、3頁と短く、そのせいもあって、非常に読みやすい。

 

 堀江敏幸の「戸惑う窓」、読みはじめました。

 絵に関する小説のようです。 まだ読みはじめたばかりなのでわからないけれど。

 茨木のり子「おんなのことば」読了。

 投げかけられる言葉の重み。その重みが胸に響きます。 また読みたい。 やはり詩集は、繰り返し読めるのが魅力です。

 

 きょうは2022年12月28日。

 掃除が一段落したので、いま読んでいる本を提示します。

 

 安部公房「砂の女」「壁」読了。

 「砂の女」は安部公房のなかでいちばん読みやすい方の小説。

 芥川龍之介「河童・或阿呆の一生」読了。

 「河童」は、安部公房の「壁」と並行して読んでいたせいか、共通点を感じました。芥川は当時、自分の狂気に向き合えず、恐怖から逃れよう逃れようとしていたように思います。特に「歯車」からそれを感じました。

 文章は上手いです。漱石以上だと思う。

 森鷗外「ヰタ・セクスアリス」読了。

 100年以上前の童貞クンの話。40年くらい前に叔父が残していった蔵書で読んで以来、読んでいないので、読みたくなったのです。

 川端康成「雪国」読了。

 最後がどうだったか、再確認するために読みました。淡々とした文体ながら、繊細な筆致が特色。

 

 いま読んでいるのは、

 夏目漱石「門」。

 小川糸「ツバキ文具店」。

 内田百閒「東京日記(岩波文庫)」。

 向田邦子「あ・うん」。

 「東京日記」と「あ・うん」は以前にも読んだことのあるもの。「東京日記」など、「旅順入城式」とともに幾度読んだかわからないほど読んでいるものです。何度読んでも飽きない。

 谷川俊太郎「いつかどこかで」。

 断続的に、気が向いたときだけチラッとめくっています。とてもいい詩集で、谷川さんのいいところが十二分に味わえます。

 

 待機中の本は、

 中勘助「銀の匙」。

 これは途中まで読んで、飽きてしまい挫折したもの。もう一度最初から読もうと思っています。

 安部公房「方舟さくら丸」。

 中途まで読んで、嫌になり読むのをやめた本です。もう一度読もうと思う。

 

 「あ・うん」読了。

 戦前の東京を舞台にした、2人の男の友情と、その家族のものがたり。ドラマも観た覚えがあります。

 向田邦子自身の脚本をNHKのエース的存在だった深町幸男が演出(このドラマ、フロア・ディレクター(FD)をあの佐々木昭一郎がやっています。作家としての〈格〉から言えば、海外的に評価も高く、芸術祭大賞を幾度も獲った佐々木が、格下の深町の助手をするのは変、なのですが、NHKというところは視聴率の取れない佐々木のような優れたディレクターを下に見るという、理不尽なことをする放送局なのです)。

 仙吉をフランキー堺、門倉を杉浦直樹、たみを吉村実子、さと子を岸本加世子が演じたのを憶えています。

 ドラマの白眉はたみが姿見の前で、仙吉の白麻のだぼだぼの背広を着ているところを、門倉が見てしまい、あまりの可愛さに見とれてしまう場面。吉村実子が卓越した名演で、胸がキュンとしたのを憶えています。仙吉の妻たみへの、門倉の秘められた恋心が、奥ゆかしい描写で描かれています。

 ドラマは、深町幸男の最高傑作とも言える出来栄えであり、小説も向田邦子の代表作であり最高傑作。

 山口瞳が言っていましたが「向田邦子はこの小説で直木賞を獲るべきだった」。

 彼はこうも言っていました。「向田邦子は選考委員の私などより作家として上」。

 人物は淡々と描かれてはいるものの、その描写は控えめながらも濃密で、読み応えは十分すぎるほど。

 ウィキに載っているかも知れないが、向田邦子は飛行機事故で死ななくても、輸血により肝炎を感染されていて、長生きのできるからだではないと自覚していた節があります。

 「あ・うん」の後半が、何か急かされるようだと、山口瞳が評していたけれど、生き急ぐような気持ちでいたのはそういうことが背景ではないかと思います。

 晩年の執筆は、缶ビールを傍らに置き、右腕は麻痺して利かないので左手で執筆していた。だから彼女の原稿は、判読するのがむつかしく、悪筆として名高かった。

 そのため、ドラマ「あ・うん」の脚本の生原稿に、演出が頭を抱える場面があった。

 それで深町はやむなく電話。

 「あの、『犬の目に眼帯』って何ですか?」

 それを聴いて向田は電話の向うで大爆笑。

 「それね、犬の日に腹帯って読むのよ(笑)」。

 これはくだんのたみの妊娠のこと。犬のお産は安産なので、それにあやかって、妊婦は「戌の日に腹帯」をすると安産になるという俗説があり、それにならって腹帯をするという風習を行っていました。

 迷信と言う勿れ。当時の人は大まじめでこういうことをしていたのです。

 

 向田邦子はその生涯において、災難に見舞われやすい一生だったと思います。

 鹿児島にいた頃には、海水浴で、ズロースを盗まれてしまうし、カツオノエボシには刺されるし、大人になってからも、行きつけの居酒屋で、足もとに置いておいたバッグを置き引きされるし、店の女の子が殺されてしまったり、付きあっていた恋人には自殺されてしまうし、これは前述しましたが、病気で手術したときは輸血で肝炎をうつされてしまうし、最後には飛行機事故で命を奪われてしまう。こんな不運なひとは、ちょっと見たことがないです。その代わり、彼女には文才があり、色んな下積みを経験した後で直木賞も獲れましたから、帳尻はあっているのかも知れませんが、不幸が付きまとう人生だったのは間違いないようです。

 

 きょうは2023年1月7日。七草です。

 谷川俊太郎「いつかどこかで」、読了。

 こどものために編集された詩集で、ひらがなの詩が数多くあります。これらの詩は、まど・みちおさんの作を踏襲したものに思えます。きっとまどさんを敬愛しているのでしょう。けれど、それらの詩から見られる景色は、まどさんの世界の模倣ではなく、谷川俊太郎の新たな地平。そんな気がします。

 やなせたかし先生がおっしゃっていましたが、志は高く、だが表現は平明で易しい言葉をつかったほうがいいものを作れる。

 すぐれた詩は表現が平明です。谷川さんもそれを痛感されているからこそ、こどものことばで書こうとしたのでしょう。

 

 きょうは2023年1月19日です。

 夏目漱石「門」読了。

 俗世間の人間関係や血縁との悩みごと、妻の病気のこと、さまざまな煩悩について、向き合い苦しむ一人の人物について描いた小説でした。

 読み応えはありすぎるほどにありました。

 物語の構成力、深い人物観、人間の心理の描写力、情景描写、哲学的なほどの思索も垣間見え、漱石の作家としての力量は、日本の歴代の作家のなかで、ずば抜けたものだと思いました。

 それはこの「門」を読んだだけで、十分すぎるほどによくわかりました。

 

 きょうは1月23日。

 小林秀雄「ゴッホの手紙」読みはじめました。

 これは叔父が残していった日本文学全集で40年以上前に読んだことがあります。

 小林秀雄の評論は「モーツァルト」も「ランボオ」も読んだことがありますが、どの評論も、天才と呼ばれた彼らの人間像に言及するだけでなく、精神の深層にまで深く斬り込んでいて、言い知れない感動を呼び起こされた気持ちになったのを、憶えています。

 殊にゴッホは、彼の狂気が、ただの病気・精神病によるものだけでなく、それらの病を超越して、誰も到達しえなかった芸術的境地にまで達していると指摘した点。非常に鋭く的を射た評論だと思いました。

 ゴッホがテオに宛てた手紙。

 それらの手紙での彼の文章は、ほとんどが無心で書かれており、狂気を感じさせる内容のものはまったくないことは、特筆すべき点だと思います。

 彼の精神性は狂気によって歪められていない。そのことを尊いとした、小林秀雄の見識に深く共感しました。

 きょうそれを再び手にとったのは、再確認のため。

 それにしても、40年以上前に読んだ時の感動が、まさかここまで甦るとは思いませんでした。

 

 きょうは2023年1月28日です。

 小川糸「ツバキ文具店」読了。

 代書屋という職業を、この本で初めて知った。

 客の要望によって、文体を変え、つづりまで変えて書く仕事ぶりはおもしろかったが、ラスト近くの話の持って行き方が、無理っぽく、作為こてこてで見苦しい。もう少し最後の幕引きは熟慮し、腰を据えて書いて欲しかった。

 そこまでの感動がフイになった。はっきりいってがっかりした。

 

 きょうは2023年2月6日です。

 燃え殻「ボクたちはみんな大人になれなかった」読了。

 この本、書店で見つけて買ってきたのですが、タイトルが気に入ったのです。

 けれども第一章のタイトルに「ブス」と書いてあるのを見て、気が引け、幻滅を感じてしまい、永い間ほったらかしにしていた小説でした。

 実は僕は「ブス」という言葉が死ぬほど嫌いで、そういう物言いをする奴には殺意を感じます。

 とは言え、その言葉と内容には大きな隔たりを感じました。この燃え殻というひとは、悪意をもって言っていない。そう思いました。

 物語は一人称、それも〈ボク〉という呼称でだけで語られています。

 恋や仕事に明け暮れ、必死にもがいている姿が哀しく、時に美しく感じました。あまり期待はしていなかったけれど、期待以上の出来でした。

 

 今日から読む本は、

 小川洋子「ことり」。

 森鷗外「阿部一族」。

 

 きょうは2023年2月28日です。

 小川洋子「ことり」読了。

 こどもたちから〈小鳥の小父さん〉と言われ、生涯かけて小鳥を愛した、繊細で臆病なひとりの人物のものがたり。

 小鳥を飼育する以外に取り柄がなく、世の中とうまく付き合ってゆく術もわからず、他人と打ち解けることもできない小鳥の小父さん。

 彼は幼稚園の小鳥の飼育係として働くことで、何とか世の中と折り合いをつけていた。

 彼のお兄さんも同様に繊細で臆病なひとでしたが、性格に自閉的傾向があり、自分と弟、つまり小鳥の小父さんにしか通じない、〈ポーポー語〉という特殊言語でしかしゃべらなくなってしまった。

 お兄さんの死後、図書館の分館で、臨時雇いで働いていた司書の女性との、恋に似た心のふれあいと別れ。

 鈴虫を小さな木箱の中に閉じ込めて、鳴き声を聞かせてくれたお爺さんとの出会い。

 なかでも白眉は、庭先に傷ついてもがいていた、メジロのヒナを拾い、懸命に看病して育ててゆくくだり。飼育してゆくうちに、兄さんの〈ポーポー語〉が小父さんの心によみがえり、ヒナにポーポー語で話しかけていたら、ヒナにもこの難解な言葉が通じ、以来、小父さんはポーポー語だけで小鳥と会話するようになる。兄さんのポーポー語は小鳥のための言葉だったことが明らかになってくる。このあたりのくだり、非常に感動的で、胸が震えました。

 メジロのヒナはやがて大人になり見事な鳴き声を聴かせてくれるようになって、そのためにひょんなことから厄介ごとに巻き込まれてしまう、この最後のクライマックス、小川さんの筆が〈乗ってきた〉感がありました。

 ラスト近くの盛り上がりなど、もう、圧巻でした。

 また、折を見てもう一度読みたい小説。文科大臣賞を獲ったとかいう話ですが、それも無理のない話だと思います。文句なしに傑作小説の太鼓判を押せる作品でした。

 

 きょうは2023年3月18日。

 綿矢りさ「蹴りたい背中」読了。

 ファッション・モデル〈オリちゃん〉に異常に執着するキモい高校生・にな川に恋してしまう、ハツミという女子高生の、心の揺れを描いた物語。

 綿矢りさは、一見、軽薄そうな文体で語りながら、世相の社会問題をさりげなく盛り込む。これは「インストール」でも同じだった。

 にな川が少女の裸体写真にオリちゃんの顔を貼りつけて、慰みものにしていることに、軽い吐き気を覚えるハツミ。

 にな川の血のにじむ渇いたくちびるに、自分のくちびるを押しつけた、ちょっとカッコ悪い、ぎこちないキスシーン。

 描写はそっけないようでありながら、細部まで目が行き届いており、女子高生の〈行き場の無さ〉を、作為の感じられない文体で描いている。

 描写は一見、雑なようで繊細。彼女はそれをやりきれないペーソスを感じさせながら描いている。

 半世紀以上前の芥川賞作品から比べれば、随分スケールは小さくなってしまったが、これらの作品に品格を求めるのはちと気の毒な気がする。

 

 きょうは2023年4月29日。

 小川洋子「シュガータイム」読了。

 原因不明の過食症におちいってしまった女子大生が主人公のものがたり。

 彼女の弟は少年期にかかった病気がもとで、身体の成長が止まってしまう。

 彼女の恋人、吉田さんが大学野球観戦の日からぱったり連絡が来なくなってしまったりしたこと。これらのことが小説の主眼になっている。

 あの「ことり」のような繊細さはない。ただ、神経の細やかな文体は相変わらず。

 けれども「ことり」のような心の高揚を感ずるような筆致はなく、全編を通じて淡々とした描写に終始している。つまらないとは云わないが、おもしろくはない。

 「ことり」に比べると物足りない。

 

 きょうは2023年5月5日。

 小林秀雄「ゴッホの手紙」が、まだ途中。70頁あたりをうろうろしています。

 このあたり、パリでのゴッホの生活がいかに放逸で野放図なものだったかがつづられます。

 確か1886年になり、ゴッホは弟の「6月まで待ってくれ」の制止も聞かず、2月末パリにやってきて、弟の元を頼った。

 画家としては認めていたものの、生活者としてのゴッホはめちゃくちゃでだらしがなく、テオはもしフィンセントが兄じゃなかったなら、とっくの昔に彼のことを見放したであろう、というようなことが書かれてあります。

 彼が愛した画家。それはドラクロワ、モンティセリ、ミレー。セザンヌにも一目置いていました。

 それからその2年後、彼はアルルに移住しますが、そこで意識したのが、日本の浮世絵だった。

 浮世絵の単純化された曲線。白と黒を基調とした明快な色彩。大自然に根づいた崇高で深淵な美の世界。日本の絵画芸術こそが至高の美だとさえ言っているようでした。

 

 6月27日。

 「ゴッホの手紙」読了。

 肝心のゴッホの左耳を切り落とした事件についてだけれど、経緯についてはゴッホ自身言及していないし、手紙にも書いていない。

 ただ、ゴーギャンとの共同生活において、作画についての議論のとき、意見が合ったことがなく、そのたびに感情的になって討論は口げんかになった。

 その批判の応酬に、ゴッホは自分の人格を否定されたような気持ちに、落ち込んだのではないかと思う。

 よく言われるようにあの麻薬的な酒・アブサン(現代でも普通に飲める酒だが、現代のアブサンと、当時のアブサンは成分からして、まったくの別物だということは、皆さんもご存知だろうと思う。当時のアブサンをつくることは法律でかたく禁じられているということ。アブサンで幻覚を見たのではないかという当時の説だが、ウィスキーであれ、ブランデーであれウォツカであれ、どのアルコールだって度を超せば幻覚を見る。この僕が生きた証拠だ)に酔ったせいだという意見に、小林秀雄は納得していない。ただゴッホの心に、耐えがたい何かが起きて、あんな極端な行動に出てしまったのではないだろうか、というようなことを言っていた。

 ゴッホは追いつめられていたのではないだろうか。自分を全否定された気持ちになり、誰かに助けを求めたのではなかったかと思う。

 そして、ゴッホの精神状態は狂気に彩られる時もあったが、通常は平静でいられたことにも、小林は言及している。そういう時の彼は、まさに天賦の才を発揮できた。

 つまり小林が見ていたのは、狂人ファン・ゴッホではなく、人間であり一人の画家であり、疎外された天才ファン・ゴッホだった。

 小林の文章からは、この苦悩する天才画家、ファン・ゴッホの苦闘の生涯を総ざらいしたような印象を感じた。

 

 最後のルノアールが評したゴッホというのを興味深く読んだ。

 「画家と言われるのには、腕達者な職人では足りない。絵というものは、絵かきが、好んで自分の絵の機嫌をとっているということがわかるような絵でないといけない。ゴッホに欠けていたのは、そういうところだ。彼の絵を、すばらしいと言うのを耳にするが、彼の絵は、恋しい人を愛撫するような具合に、絵筆で可愛がられていない」。

 これは、ルノアールが印象派の代表的画家の観点からみた、きわめて率直で正直な評だと思う。つまり、ルノアール自身にあって、ゴッホに無い作画表現についての意見だからだ。そのかわり、ゴッホにあってルノアールに無い作画表現については言及していない。思うに、ルノアールがどう言おうと、ゴッホの絵はゴッホの絵である。そして彼が生きたのは印象派全盛の時代であり、その時代に主流だった人々に、ひとり、異を唱えていた、誰ひとり一瞥もしなかったが(ほぼ1枚も絵が売れない画家だったのだから無理もない。たった1枚売れた絵は鶏小屋の扉につかわれていたというのはほんとうだろうか?)。ゴッホはフォービスムの先駆と言われるように、孤立無援のような空気のなかで独り戦っていた意志をもったひと、情熱的なひとであり、精神的な画家と言われる。彼にとって自画像も麦畑も、糸杉も、向日葵も、夜空の星もみんな、彼の精神という、絵の具で描かれている。片やルノアールの絵は印象派であり、印象派はある種の思想的な表現形式で、それまでの絵画より、写実的ではなくなった。が、写実表現から多少逸脱してでも、光を描き出そうとしたその表現・技巧は、そこに構築された世界は、それまでのどの表現形式にもない画期的な表現だった。だから多くの画家がこれに飛びついた。だが印象派という画家たちの表現は爆発的な表現ではない。精神の深層へ斬り込んでゆくというほどのものでもない。そこに印象派の限界があったのかと僕は思う。ゴッホの絵は、印象派の影響を受けていない、というより、影響を受けることを嫌っていた節がある。アルル以降に至っては彼の脳裏のどこにも印象派は無く、私生活では貧しさを強いられながらも、絵の具を分厚く重ねて描いたり、麦畑を黄色の洪水のように描いたり、対象を静物や星のような無機物までも生きているように描いたりすることで、独自の芸域に到達していった。

 ぼくが思うに、ルノアールの絵にはふんだんに、装飾というもの(絵を飾りたてるような、さまざまな要素)があるけれど、ゴッホの絵はもっと直截的で、そういう〈装飾〉的なものがほとんどない。描かれている対象は生きていて、剝き出し(そのものの本質だけを抉り出したようなもの)なのだ。また、ルノアールの絵に描かれた〈もの(者・物)〉は〈美〉そのものがかがやいて見えているけれど、その〈もの〉の息づかい、鼓動といったものは、無いとは決して言わないが、あまり感じられない。一方、ゴッホの絵は、装飾的なものはほとんどないから、愛でたくなるようなものではないと、いうひともいるかも知れないが、それは誤りで、その〈もの〉の脈動がありありと見えるように描かれている。その〈息づかい〉は愛でずにはいられない。だからぼくはゴッホの絵を観ると、すごく胸がどきどきする。共鳴するのだ。ゴッホの絵は情景を鷲づかみにしていて、情景そのものの本質が、心臓(のようなもの)が脈打ちながら、「ほれ、ここにあるぞ」と、テーブルのうえに無造作に置かれ、生きている。ゴッホの絵は、心臓そのものだ。生身のそれは「これを見ろ」と、云って、僕のほうを見すえている。ぼくが絵を観ているだけでなく、絵の方もぼくというものを見つめている。

 

 東野圭吾「カッコウの卵は誰のもの」。読みはじめています。

 おもしろいので、もう80頁あたりを読んでいます。

 感想はのちのち。

 

 2023年6月30日です。

 「カッコウの卵は誰のもの」読了。

 ひとりの女性スキー選手・緋田風美がヒロイン。

 彼女の父親・宏昌もスキー選手で海外遠征に出ているときに娘の誕生を知った。ところがこの妻・智代が2年後にマンションの5階のベランダから落ちて死んだ。自殺だろうということだった。

 大掃除していた時に抽斗から娘が誕生したころに、他人の赤ちゃんが連れ去られたという記事の切り抜きを見つけた。

 さらに、彼の妻は娘が誕生した病院で出産した記録がどこにも残っていなかった。妻は宏昌が渡欧した直後、流産していたのだ。そうしてそのことをずっと宏昌に隠しつづけていた。

 妻は出産などしていなかったのに、「生れた」と知らせてきたのだ。

 妻の子でもない。自分の子でももちろんない。なら、風美は一体、誰の子なのか。

 そして、あの記事の切り抜きの意味は?

 あの記事の通りなら智代が他人の赤ちゃんをさらったことになるが?

 ということが明らかになって話は俄然おもしろくなった。

 そして風美の所属する会社のスキー部に「緋田風美にすべての試合の出場を辞退させよ」という脅迫文が送られてきた。ここまでは緊迫した筆致でテンションも高く張りつめている。

 が、この序盤のあとの十数ページ、若干記述がダレてくる。

 東野圭吾、この手の小説を書きなれている所為か、手癖で書いているような印象を感じた箇所があった。

 一旦こういう風になってしまうと舵を切り替えるのがむつかしく、大概はつまらないものになってしまうのが、世間一般の大衆小説だ。

 だが東野圭吾、ここからが並の作家と違うところで、中盤から記述は持ち直し、緊迫感のある文章の連続で読者を圧倒。終盤にかけての畳みかけ方は見事のひと言。

 だが、最後のあたり、もうちょっと描きこんでほしい箇所があった。

 上条伸行がどのようにして畑中弘恵と知り合ったのか、書きこんでほしかった。接点がないのだ。

 ここだけではなく終わり方、なにか話を必要以上に略して手を抜いたように見える記述があった。

 上条文也の遺書は、作家の苦しまぎれのつじつま合わせに見えた。もう少しここは何とかならなかったか。胸のつかえが下りないのだ。

 それはともかく、この小説、文庫本にしても400頁近いのに、詩仲間から贈られたものを3日とかからずに読破してしまった。読むのが遅い僕にしては、これは異例のことだ。

 それだけ東野圭吾というひとは、文章に底力を感ずる作家だ。

 

 東野圭吾の執筆術は小説を読んでいるとわかるが、事細かにプロットを書き込み、記述の順番を緻密に組み上げてからでないと記述に入らないのだと思う。

 そして、プロット通りに執筆してゆくうちにどんどん世界が見えてきて、情景を余すことなく伝えようともくろんで、細かい情景描写や緻密な心理描写を行おうとする。

 だが、東野圭吾を読むとき、いつも感ずる彼の欠点がある。

 ひと言多いのだ。

 心理描写にしても、情景描写にしても、ひと言多い所為で緊迫した場面に、水を差すようなことになってしまっている箇所が多々あった。

 恐らくプロットに従って、小説を創ってゆくうちに、記述が追いつかないほどに言葉が溢れて止まらなくなり、言わなくてもいいことまで書いてしまうのだろう。

 思うに、東野圭吾というひとは、サービス精神が旺盛な人なのだ。

 それと永年、直木賞の選考に落ちつづけたことも理由の一つになっているなんてことはないか。あったらいやだなと、思う。

 この小説、どうやら20年ほど前の作品らしいので、当時彼は40代半ば。まだ作品に若さがあり、執筆疲れというものは感じられない。

 ところどころ指のしなうような文章の〈冴え〉が垣間見える場面があり、東野圭吾の並々ならぬ執筆力を感じた。

 

 2023年7月1日。

 ひきつづき東野圭吾「パラレルワールド・ラブストーリー」を読みはじめました。

 川上未映子「あこがれ」も。

 

 7月10日です。

 「パラレルワールド・ラブストーリー」。

 あと100頁ほどで終わりますが、凄いことになっています。

 たぶん今日か明日、読み終わると思いますが、1990年代の半ばに書かれた、東野圭吾の初期の頃の作品で、かなりの意欲作です。近年の彼の作にあるような、くどい記述や、ひと言多い心理描写や情景描写はほとんどなく、記述力はまるで鬼の如し。読者を物語の世界にぐんぐん引き込む求心力がただごとではない。この小説も、詩仲間からの贈りものなので、何かお礼をしないといけない。いいものを読ませていただいています。

 

 2023年7月11日。

 「パラレルワールド・ラブストーリー」読了。

 二つのものがたりが同時進行的に描かれてゆく。どっちかは現実で、どっちかは仮想現実。最初は冷静に読んでいて、おそらく非・現実はこっちだろうとわかっていたものが、途中で怪しくなってきて、どっちが現実なのかわからなくなってくる。

 ものがたりの後半、主人公の崇史は自分の現実が実は現実でないことに徐々に気づいてくる。勤めている会社が、バーチャルリアリティーを研究する会社で、記憶の操作をする実験を行っていたことがヒントになり、そこから親友・智彦がMACの研究生で後輩の篠崎とともに行方不明になってしまうこと。そして智彦の恋人だった片思いの相手・麻由子が、当然のことのように自分の恋人になっていたこと。

 この認識がだんだん現実を積みかさねてゆくうちに、メッキが剥がれ、現実ではないことに気づいてくる。自分の立っている地平がほんとうに現実なのか。それもあやふやになってくる。

 ものがたりのなかで、篠崎の亡骸が入っていてもおかしくなさそうな箱が、智彦たち数人の手によって、夜ふけにひそかに運び出されようとしている場面が、幾度も幾度も繰り返し描かれる。ここらあたり、まるで呪文のようであり、文章を演出と考えるとき、この東野マジックとも呼べそうな記述によって、夜ふけの迷宮のなかを彷徨っているような気持ちにさせられる。

 ウィキペディアによれば、この小説の初版本が出たのが1995年。まだ若手の作家だった東野圭吾が意欲的に取り組んだ、彼にとっては大冒険のような小説だったんじゃなかろうかと思う。先述したように、この作品には、後年のベテラン作家になってからの東野の、ひと言多い記述などはほとんど見当たらない。いい意味での緊張感にあふれていて、テンションが高く、記述がはりつめて緩まない。読後の感想は、「おもしろいものを読ませてもらった」という感慨でいっぱいである。

 

 きょうは2023年7月30日。

 川上未映子「あこがれ」読了。

 小学6年生の男の子・麦彦くんと同じく小学6年生の女の子・ヘガティーの視点から描いた、〈小学生日記〉的なものがたり。

 二部構成になっていて、前半と後半とではストーリィテラーが違う。第一部は麦彦くん(通称:麦くん)によって、第二部はヘガティーによって語られる。

 登場人物のほとんど(クラスメイトに限られる)が、ニックネームで登場し、リッスンとかドゥワップとか、チグリスとかユーフラテス(ユーフラ)とか呼ばれるが、彼らの多くはストーリィに深く関わってこない。主に描かれるのは父親のいない麦くんと、母親のいないヘガティーの交友関係のこと、友情について描かれる。唯一、それ以外に描かれているのは、第一部の最初から登場するスーパーの売り子・ミス・アイスサンドイッチのことである。

 冒頭。〈フロリダまでは213。丁寧までは320。教会薬は380で、チョコ・スキップまでは415〉などという表記があり、面食らった。正直言って、一体何のことを云っているのか、さっぱりわからない記述。それを過ぎるとだんだんサンドイッチ売り場の、ミス・アイスサンドイッチのことや麦くんやヘガティーの家庭のことや、学校のことが小出しに描かれるが、特に面白いものというのでもない。何となくだらだらと読んでいたが、第二部ラスト近くの、ヘガティーと麦くんがヘガティーの異母姉妹に逢いに行く話辺りは結構読ませてくれた。ただ大して面白い小説でもなかった。有名作家なのだからもっと求心力の強い作品を創ってほしいと思った。

 

 明日から、

 村上春樹・短編集「女のいない男たち」を読もうと思います

 谷川俊太郎詩集「すてきなひとりぼっち」読みはじめています。

 

 2023年8月1日。

 村上春樹「ドライブ・マイ・カー」読了。

 「ノルウェイの森」がそうだったように、この短篇もThe Beatlesの名曲を表題に冠している。

 映画「ドライブ・マイ・カー」より、世界は狭く浅いが、含みに残した部分は多く、読者にその〈余白〉への想像を促すような筆致はさすが、大作家の筆遣いだ。

 村上春樹はどの小説も、読者を〈春樹ワールド〉にとりこむのが上手い。悪く言えば、読んでいるうちに、まるで狐にばかされたように騙されているような気分になってくる。わかっちゃいるが、読者はその世界から逃れられない。そこには独特の美学なんぞも感じられるし、誰も思いつかないような世界でもある。

 

 2023年8月4日です。

 村上春樹「イエスタデイ」読了。

 携帯電話の無かった時代の大学生の主人公が、出会った同世代の風変わりな浪人生・木樽との交友録。彼・木樽は、ビートルズの名曲「イエスタデイ」に、

 

  昨日は/あしたのおとといで/おとといのあしたや

 

 という、関西弁の歌詞を勝手につけて、風呂に入るとうたっていた。生まれも育ちも東京なのに純然たる関西弁しか喋らない。おまけに彼女である、現役大学生・栗谷えりかを譲るから付き合ってやってくれ、などと言う。話としてはそれだけのことだが、含みに残した部分というか、エピソードの多くが、共感しやすい題材を選んで描いているようで、しかも完全に描き切らず、含みとして残すことで、余情というか、その時代の空気とか、各々の読者の思い出までも巻き込み、シンクロするかのように、共鳴するような書きぶりはとても興味深い。かく言う僕も、この物語を読んで自分のまだ若かった時代を思い出し、春樹ワールドとシンクロする部分を感じずにはいられなかった。人生に得てして起こる人間同士の付き合いによって起こるできごと・綾、出会いと別れによって醸しだされる情感。それが村上春樹独自の描写によって、まるでお寺の鐘の余韻のように、余韻が余韻を生み、寄せては返す波のように終わらない物語を読んでいるような気持ちにさせられたのは確かだ。

 

 8月8日です。

 村上春樹「独立器官」

 生涯独身を貫きながら、夫のいる女性と当たり障りの少ない交際をして、それを生きる張り合いに変えていたひとりの男性が、ある時、本気で女性を愛してしまい、恋煩いの果てに拒食に陥り瘦せ衰えて死んでゆくという物語。この人物、モデルになる男性がいたのだろうか、わからないが、記述がかなり人物に肉薄していて、偽物の匂いがしない。結局、恋愛において、互いに嘘をつきあったら、男性は女性にかないっこないのだ。かれらは自分のうちに、自分が絶対に傷つかない「嘘をつく」という〈独立器官〉をもっているのだから。それは同感だ。話だけ書くとこれだけの話だが、非常に興味深く読ませてもらった。

 

 8月9日。

 村上春樹「シェエラザード」読了。

 シェエラザードとは千一夜物語の語り手をする姫の名。

 この話、映画「ドライブ・マイ・カー」の、クラスメイトの男子生徒の家に空き巣に入る、前世がヤツメウナギの少女の話が出てくる。この辺、話の緻密さは原作がまさるが、映画も村上春樹の世界を上手く取り入れて巧みな脚色をしているのが分かった。けれどもこの原作に出てくるシェエラザードと言われる女は、最後の話をせずに帰ってしまう。そして暗に、この女がもう二度と主人公・羽原のところへはやってこないのかも知れないことを匂わせ、終わってゆく。余韻・余情を大切にした幕引きだが、特に気持ちを惹きつけられるほどのものではないような気もする。

 

 8月11日。

 村上春樹「木野」読了。

 冒頭、何気ない語り口ではじまるが、抑制が効いていて、名文だと思った。「木野」というバーを営んでいる、ひとりの男の話であるが、暗くても暗すぎない居心地のいい店内だとか、趣味のいいジャズのレコードとか、無口で大人しいマスターとか、そういう一つ一つの描写が気持ちのいい空間を形作っている。ところがだんだん展開が怪しくなってきて、語調は依然として淡々としているのに、心穏やかではない記述がつづく。

 この短篇、客同士のケンカに巻き込まれたり、DVの被害者である女の客と、気の進まないセックスをする場面とか、店のマスコット的に居ついていた猫がいなくなったり、それと時期を同じうして、蛇が次々現れたり、やがて店は臨時休業に追い込まれる、こういう不安感を掻き立てるだけ掻き立てて、話は収束することなく終わってしまうことに、つよく惹きつけられるものを感ずる。この引力・求心力こそが村上春樹の魅力なのだと思った。

 この小説、第一に、文章が冴えている。この短編集の中ではいちばんではないのかな、と思う(まだ最後の一篇、表題作を読んでいませんが)。また、強い理性をもって書かれているのをより強く感じた。非常にストイックなのだ。村上春樹は東野圭吾のように、執筆が冴えてきても勇み足的記述は決してしない。こういうところが世人に高く評価されている由縁なのだろう。

 

 8月12日。

 村上春樹「女のいない男たち」読了。

 この短篇は、短編集のオマケ、付録のようなものだと思う。

 過去に付きあっていた女に、自殺というかたちで死なれた男。その男の主観的考察によって描かれている。女にフラれた男。女と別れた男。そういう男たちはどこか空虚で、カラーだった世界がいきなりモノトーンになってしまったかのようだ。総じてこの短編集はみな「女に去られた男」をモチーフにしている。

 男にとって女とは、花のようなものだと思う。毎日が花に飾られ、笑って暮らせたらどんなにいいか。そういう日々の彩(いろどり)を女たちは男たちにもたらしてくれる。

 女はデリケートだが、生活する女は強く、簡単なことではへこたれない。か弱いが、精神はしなやかで折れにくい。殊に〈護るべきもの〉を護ろうというときの女は逞しい。そして男のように根無し草ではなく、ちゃんと地に根を張って生きようとする。生活者として屈強なのだ。

 だが村上春樹の描く〈女〉はあくまで恋愛の対象としての〈女〉であり、彼女らとの心のふれあいを大切にしている。女の柔肌。女の温もり。女の息づかいまで聞こえてきそうな筆致で描かれた世界は、女のついた嘘までも愛そうとしているかのようだ。

 かつて愛した女への追想・追慕の想い。この作ではエレベータ音楽と称される、ヘンリー・マンシーニやポール・モーリア、フランシス・レイなどのムード音楽を愛したエムという女にまつわる、感傷的な想い。エムは主人公のペニスのかたちを愛したというが、彼がもっとも恋していたのは14歳の時であり、あの消しゴムを二つに割って、自分にくれた時のエムを、いつまでも恋していた。実際には恋など始まっていなかったのに、そう思ってしまうというのは、どこか佐々木昭一郎の「夢の島少女」の主人公ケンを連想させる。そういうところ、少年というものには確かにある。恋に恋するという心境は、少女だけのものではなく、少年にもあるのだ。

 

 8月14日。

 2、3日前から、山本周五郎「さぶ」を読んでいます。

 江戸の人情ものの、庶民のものがたり。

 思っていた以上に、読みやすくおもしろいです。まだ58頁読んだだけですが、「赤ひげ」の現実の厳しさはあまり感じられず、職人仲間・さぶと栄二の友情を描いた作のようです。

 感想は後日。

 

 きょうは8月21日。

 山本周五郎「さぶ」読了。

 「さぶ」は主人公の名前だと思っていましたが、主人公は栄二でした。

 栄二はさぶと組んで表具屋(襖張りなどの仕事)の店を構えたいと思っていただけなのに、理不尽な理由で、得意先だった大店〈綿文〉の出入りを禁じられ、働いていた店からも暇を出され、綿文へ談判に行ったものの主人には会えず、そこにいた質のわるい目明しどもに殴る蹴るの暴行を受け、成り行き上、土方仕事をやらされる〈寄場送り〉にさせられた。

 心を閉ざしてしまった栄二だったが、綿文や目明しどもへの復讐の思いが、苛烈な土方仕事を耐える原動力になった。

 寄場の人足たちは江戸の護岸工事を完成させたものの、折しもやってきた嵐(ということになっていたが、おそらくは台風だろう)に造った防波柵は流され、人足たちが住んでいた家々まで倒壊。栄二が中心になって、下敷きになった人足たちを次々救出。栄二は自分の手柄ではないと謙遜したが、このことを人足たちは、決して忘れなかった。

 ある日護岸の杭を打ち込んでいたところ、地面に穴を掘っていた栄二は、突然崩れてきた石垣の下敷きになった。助けを呼びたいが、口を開こうとすると、潮を含んだ砂が口に入ってくる。下敷きになったのが栄二だとわかって大騒ぎになった。命の恩人を死なすわけにはいかねえ。人足たちは一丸となって、栄二救出に尽力した。栄二は脚の骨を折っていた。当分は働くことができない。与平の爺さんが付きっ切りで看病してくれた。ケガが癒えたら寄場を出、江戸市中で暮すこともできるが、と、役所の元締めの岡安喜兵衛も云っていたが、人足仲間への恩返しが済むまでは、俺は外へは出られねえと栄二は決して首を縦に振らなかった。

 寄場とは、刑務所・牢獄とは違って、衣食住は保障されているし、面会に来た者とも自由に会うこともできる。病気やケガをしてもタダで診てもらえるし、花札などの博打はだめだが、読み書きを覚えたければ教わることもできる(もっとも、こむつかしい学者先生に教わるより、職人としてたしなんでいた栄二に教わりたがる人足の方が圧倒的に多かったが)。寄場での労働は無報酬ではなく、人足たちが寄場を出るとき給金として与えられる。恩情で時にご馳走を食べることもできるし、滅多にないが少しの酒なら飲むこともできる。寄場送りになった者の中には、一生寄場で暮したいと願う者がいるくらい、恵まれている。この寄場という制度、元は長谷川平蔵によって始められたものだという記述があった。

 その後、柄のわるい新入り3人が入って、寄場の空気が険悪になったが、病み上がりの栄二は、その騒ぎをひとりで鎮めた。当然、新入りたちを懲らしめた罪に問われたが、人足たちが全員で嘆願書を出し、奉行所も事を荒立てずに、おさめた。

 晴れて自由の身となった栄二は、もらったお給金の半額を寄場に寄付。もうこの期に及んでは、綿文や目明しへの復讐心など綺麗に消えて無くなっていた。これこそが山本周五郎の言いたかったことだったのだろう。栄二がどんなに心を閉ざしても、さぶは寄場の作業が休みの日には必ず逢いに行って、自分の心づくしを栄二に与えた。それは何故、何のためだったか。打算があったわけでも、何か裏があったわけでもない。この無償の友愛こそが栄二を救った。そして人足たちとの団結、友情。何故彼らのために、嵐の時、命がけになって、栄二は救出にあたったのか。それは自分と同じ苦楽をともにし、つらいときはともに歯を食いしばって耐え、うれしいときはともに笑ったという仲間意識、その自覚があったからに相違ない。

 何度も言うようだが、山本周五郎の作品における、その筆致はもはや〈義理人情〉なんてお安いものではない。江戸期の職人の労働環境がどれほど過酷だったか、文章にあるようにこうも具体的に描かれると、人物の苦悩と、餓死一歩手前のような現実をいっそうつらく感じられる。読めば読むほどに、世の中の厳しい現実認識のかげに深い人間愛が感じられる、人情人情というが、ここまで現実が厳しいと誰だって人情にすがりたくなる。それに彼の人情は損得勘定抜きでのものであり、純粋な友愛から発せられたものだ。山本周五郎のどこが偉大なのか、それはまさにここにあると言える。昨今の安っぽい時代小説には決して描けない、懐の深さがここにはあります。最後の〈十六〉の最後の段で、総ての謎が解けます。これを言ってしまっては身も蓋もないので言いませんが、人生の皮肉、禍福は糾える縄の如し、ということが改めてわかるオチになっていました。

 

 2023年8月22日。

 谷川俊太郎「すてきなひとりぼっち」読了。

 この詩集、アンソロジーとして傑作です。

 谷川さんの多くの代表作から少しずつ選んで、掲載してありますが、そのどれもがすばらしくいい。

 谷川さんを知りたいという人にはもってこいの詩集で、絶対のオススメ。

 感動しました。

 これと対になる「はるかな国からやってきた」というアンソロジーもあるというので、近いうち、そっちも呼んでみようと思います。

 

 8月24日。

 坂元裕二「初恋と不倫」読みはじめました。

 以前にも読んだことがありましたが、どんな中身だったか忘れてしまったので。

 玉埜くんと明希さんの顔だちを、いつもどんなだろうと想いうかべながら読んでいます。明希さんは片方の手が不自由だけれど、美人なんだろうなと、行間を読むと、思いやりのあるやさしい女の子であることが見えてしまうのです。玉埜くんも担任からの無視・嫌がらせ、担任主導のクラスぐるみのいじめに耐えながら生きている姿に、ふるえる想いがしています。「初恋の悪魔」の鹿浜鈴之助に相通ずるものを感ずるのです(但し、胡瓜にはちみつをつけて食べると、胡瓜とはちみつの味がするだけで、メロンの味はしません。試しにやってみたらそうでした)。

 

 8月26日。

 坂元裕二「不帰の初恋、海老名SA」読了。

 幾度読んでも面白い、坂元裕二の朗読劇の台本です。

 手紙として書かれたものと、後年、ふたりが社会人になって、メールのやり取りをするようになってからのものとが合わさっていますが、坂元裕二は恋愛劇を描かせると名人級に上手く、また、運命の皮肉、世の中の皮肉を描かせても抜群に上手いひとですが、本編ではその両方を味わえます。

 初恋の、ずっと好きだったひとに、好きと云えなかった哀しみ。いまもそのひとの幸せだけを願っているのに、上手く行かない歯がゆさのようなものが大変巧みに描かれています。けれども読後感は爽やか。気持ちのいい物語です。引き続き、「カラシニコフ不倫海峡」を読みます。

 

 きょうは8月30日です。

 坂元裕二「初恋と不倫」読了。

 「カラシニコフ不倫海峡」の感想については割愛します。

 坂元裕二の作劇術について。

 この本を読んでもわかるように、彼は、人並み外れた発想力を持ち、そのものがたりの飛躍力、展開力とでもいうのであろうか、読者の予想をはるかに超えたつくり方は、陳腐な言い方だが、他の追随を許さぬ領域へ、片脚を踏みこんでいる。

 この本、入院前の2018年の夏に買って、入院中に読んだ。それから5年間ずっと忘れていた。それをまた、手にして読んだ。そうか、そうだ、確かにこういうものがたりだった。5年前に読んだ感慨が、再び甦ってきた。次に読むのはいつだろう。僕はどんな人間になっているだろうか。

 

 9月1日。次は、森鴎外「山椒大夫・高瀬舟」を読みます。

 「カズイスチカ」と「妄想」を読みました。

 「カズイスチカ」はただの妊娠を末期がんと誤診する話。女性の体内の羊水を、末期がんの腹水と勘違い。鴎外が医師だから書けた話。江戸期や明治期にはこんな誤診があったんだなあと感慨深く読みました。朴訥というかある一面、淡々とした飾り気の一切ない語り口なのだが、記述がすっとぼけているのです。何より語られている内容が突拍子もないものなので読者は驚くのです。「妄想」は明治・大正期の学問の話なのだが、読者である僕がまったく学んでいない、明治期の西洋の哲学や医学、文学の話なので、まったく何のことだかさっぱりわからない。わからないなりに読ませてくれる力が、鴎外の筆力にはあるので、これもつまらなくはないのです。ただわからないだけ。

 9月4日。「百物語」を読みました。

 船遊びをしながら、百物語を聞こうという趣向で集まった、大勢のひとを描いただけで終わってしまい、肝心の怪談はひとつも語られない。でも、江戸期から明治期に受け継がれた風俗のすがたが、詳しく描かれていて、それだけでも飽きない話になっている。これも鴎外の筆力の為せる業。

 9月6日。「興津弥五右衛門の遺書」を読みました。

 読み終えるのに骨の折れる短篇です。前半が文語、後半が口語で書かれており、前半が弥五右衛門の切腹に添える遺書。後半が筆者による切腹にまつわる顛末。弥五右衛門の介錯を行った乃美市郎兵衛が首を斬り損じ、弥五右衛門から「喉笛を刺してくれ」と言われているうちに彼・弥五右衛門が絶命したというもの。切腹で介錯のとき、首を斬り損じたというのは、よく聴く話です。切腹だけでは上手く死ねないから、首を斬るのですが、よほど切れ味のいい刀でない限り斬れないというのもあるし、気合を入れないと切れない、というのもある。介錯で首を斬り落とすというのは相当難易度の高いことで、幾度も刀を振り下ろさないと斬れないことが多かったらしい。斬られる立場のひとは断末魔の苦しみをいやというほどに味わって、死んでゆくのだ。三島由紀夫もそうだったろう。

 それはともかく、前に買った「阿部一族・舞姫」がいきなり最初から文語だったので、出鼻をくじかれてしまい、読むのを挫折、それで「山椒大夫・高瀬舟」の文庫本の方を先に読んでいる。しかし、「興津弥五右衛門の遺書」。鴎外の著書は文語表現によるものも多いようで、現代人には読み下すこと自体がむつかしい。わかったつもりで読み進めていったが、実際には有名武将が次々登場するものの、年代がころころ変わり、舞台は飛躍に飛躍をかさね、何が書かれているのかはさっぱりわからず、わかったふりだけしていたら十数頁の短篇なので終わってしまった、という印象である。結局「切腹がいかに大変なこと」だったか、それだけが結論として記憶に残っただけである。鴎外の言いたかったのは何だったのだろう。

 9月11日。「護持院原の敵討」、読み終えました。

 江戸時代に実在した、姫路藩御金奉行・山本三右衛門の暗殺事件の敵討ちの顛末を書いた短篇である。もしこれがフィクションだとしたら、これだけ実在の人物が登場する物語を書くのは至難の技であろう。もしこれがノンフィクションだったら、よくこれだけの小説のタネを細かく調べあげたものだと思う。僕が思うに、これはフィクションを織り交ぜたノンフィクションなのではなかろうか。明治大正を代表する大作家・森鴎外なのだ。実際にあったかどうかもわからない話を、さも見てきたかのように描く才能に関しては、天才肌のひとである。このくらいのことはやったに違いない。それはともかく、この短篇を書くにあたって、相当調べものをしないとこれだけのものは書けないはず。つくづく作家という職業の大変さを思う。林芙美子が言っていたらしいが、「小説みたいな長ったらしいものを書くのは面倒くさい」。同感である。よくこんな肩の凝りそうな作業を平気でやっていられるなあと思う。

 

 9月15日。「山椒大夫」、読み終えました。

 自ら船頭と称する人買いに騙されて、母子生き別れになってしまった、姉・安寿と弟・厨子王のものがたり。鴎外の代表作だけあって、文章はととのっています。人身売買のつらい話ですが、現代の作家のように殊更エモくもならず(たとえば東野圭吾だったらもっと、感情に任せて書いてしまうでしょう)、淡々と描いているその筆致に、大作家の風格が表れています。ストーリィだけ追うと、残酷なものがたりで、ラストは逃げおおせた厨子王が、ぼろを着た、目の不自由な乞食のような女となりはてた母と、再会する場面で終わりますが、母が安寿と厨子王恋しさに唄ううたを、厨子王は〈臓腑が煮え返るようになって〉、〈獣めいた叫びが口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた〉。こんなリアルな描写を、さも何ごともないかのように挿入し、二人は何も云わず抱き合う。でも、厨子王は彼と別れた安寿がそのあとすぐ入水自殺したことも知らない。痛みの深いエンディングです。ただ厨子王をかくまってくれた国分寺のお坊様が、何とも言えぬものがたりの救いになっていたこと。このお寺が無かったら、厨子王は簡単に連れ戻され、言語に絶する折檻(たとえば躯に焼きごてを押しつけられる、というような)を受けていたことでしょう。人身売買は明治の世にあっても、あったはずで、この時代の読者は、現代の話のように読んだであろうということは、想像に難くありません。一種の時代小説ですが、現代小説に通ずる、普遍的な親姉弟のものがたりといえます。

 

 9月16日。「二人の友」、読み終えました。

 F君という、主人公がドイツ語を教えてゆくうちに、友人になってしまった男性と、同じく小倉にいたころから、親しくしていた安国寺さんというお坊さん。この二人の友人のことを書いている。

 予備知識が何もないので、フィクションか、ノンフィクションか、小説か、随筆かの判断がむつかしい。

 

 9月17日。「最後の一句」。読み終えました。

 この短篇、読みおぼえがあります。確か中学3年の現代国語の教科書に載っていました。

 船乗業を商う商人、桂屋太郎兵衛が雇っている新七という沖船頭に騙されて、受け取ってはいけないお金を受け取ってしまった。新七は雲がくれ、行方もわからない。太郎兵衛は捕らえられ死罪と決まった。太郎兵衛の娘、長女のいちは、他の兄弟と結託して、自分たちが身代わりに死罪になるから、お父さんの命だけは助けてくれと、奉行所に嘆願した。歎願は町奉行にやがて聞き入れられ、

「身代わりをお聞き届けになると、お前たちはすぐに殺されてしまう。父の顔を見ることはできないが、それでもよいか」と、言われると、いちは、

「よろしゅうございます」と言い、そしてきっぱりと、

 

「お上の事には間違はございますまいから」と言い放った。

 

 この一言が奉行の胸にグサッと刺さった。

 太郎兵衛は大阪北、南組・天満の処払いとなり、生きたまま釈放された。

 この「お上の事には間違はございますまいから」。

 もう半世紀近くの歳月が経とうとしているのに、未だに心に刺さっています。消えません。

 それと、これを今読んでいて、このいち、という娘。いま演ずるとしたら、蒔田彩珠さんならきっと素晴らしい演技を披露してくれるだろうなと、勝手な空想をしてしまいました。

 森鴎外の時代小説は、文学作品の格を考えたとき彼は、漱石とならんで日本の明治大正期の文豪の双璧ですから、当然のことながら先述の山本周五郎のそれより、数段上と言わざるを得ません。それは周五郎作品が人物を「情で見る」ことで、人間愛を浮き彫りにするのに対し、鴎外のそれは、医学者の見地からのものであり、同じ人物を見るにしても、鴎外は精神医学的に見るというか、登場する罪びとを描写するにしても、精神の深層にメスを入れるがごとく、深い洞察をもってしているように感じられる記述が随所にあります。いま、「高瀬舟」を読んでいるのですが、この作品にもそういう描写・記述がありました。鴎外は冷静で、医師らしく観察力も密であり、人物を贔屓せず、公平に見ることのできる人物なのだと思いながらこれを読んでいます。それは医師が患者を診る視点と非常によく似ている点じゃないかと想像しています。

 「高瀬舟」は、安楽死をテーマにした短篇です。大正期にすでに安楽死に関する作品があったこと自体に驚きますが、ここにも鴎外の医師としての所見、文学者としての見解の両方を感じました。未だに正解の出ていない、むつかしい問題です。鴎外はどうとらえたか。安楽死は人道上は肯定的にとらえたいところだが、道徳的には認めるべきではない。だが死にきれずに地獄の苦しみを味わっている患者に対し、楽にさせてやりたいと思うことがいけないというのは、あまりに酷。罪であることも、罰せられることも百も承知のうえでの行動なら世論はどう見るか。そのことを世に問いかけたかったのだと思います。

 

 2023年9月18日。きょうからは山本周五郎「人情裏長屋」を読みます。

 9月21日「おもかげ抄」読み終えました。

 これは周五郎が30代のころの作品のようですが、まだ周五郎調ともいえる筆致は完成されておらず、決闘の場面など、まるで講談を聴いているような殺陣の描写です。周五郎は江戸文学にも造詣が深いのでしょう。そう思わせる語り口も印象に残ります。ただ、あまりにも話が都合よく進みすぎて絵空事の域を出ません。もう少し翳りを加えたほうが物語の世界は深みを増します。晩年の周五郎文学との差異は、まさにそこだなと思いました。

 9月22日。「三年目」、読み終えました。

 天明元年夏の、ある洪水の夜の話。昭和16年(1941年)8月、周五郎38歳のときの短篇。ですが、この時点ではすでに、のちの周五郎文学の片鱗が感じられます。それは、人の思惑、主観・客観で、物事とはこうまで違って見えるのだということ。これは古今東西、ほかの作家もよく使うワザですが、周五郎はことに色恋沙汰・人間関係の軋みを描くとき、この主観・客観を交えた記述を非常に巧みに使って、おもしろい物語をものにする達人だったと思います。それが、この短篇ではすでに見えはじめている。おもしろくなってきたと内心思っています。周五郎は庶民派の大家。文章は平明で読んでいてもおもしろいし、愉しいです。

 ただこの短篇が出た1941年は、言うまでもなく日中戦争がはじまってから4年。戦争が泥沼化していた頃の作。そして12月8日、日本の空母6隻を擁した機動部隊による真珠湾攻撃が起った年。やがて帝国の軍人どもの鼻っ柱が折られ、連合軍に平伏す無条件降伏まであと4年。山本周五郎はどう生きていたのか。ぼくは知りません。この時期に著された作に、直木賞を辞退した「日本婦道記」がありますが、この小説がどんな内容なのか、僕は読んでいないので知りません。この時代、小説として書きたいものは沢山あったのに、書かせてもらえなかった。物資不足で、小説を書いている場合ではなくなった、というのもあったと思います。時代小説を書けないなら、書かない。そう思っていたのかも知れないと、勝手な想像をしています。

 9月26日。「風流化物屋敷」、読み終えました。

 これはほんとうにあった怖い話的な、化物屋敷を舞台に、すっとぼけたお侍が化物どもとコントみたいなやりとりを展開する、気楽な読み物。書かれたのが昭和22年(1947年)10月というから、長い戦争も終わり、気楽な読み物を読みたがっていた庶民への、周五郎の肩の凝らない最高のプレゼントだったんではなかろうかと思います。周五郎自身も書いていて楽しかったんじゃないでしょうか。平和な時代がやってきたことへの、喜びに満ちあふれた一篇です。

 おなじく9月26日。「人情裏長屋」、読み終えました。

 これはよくある「子育て侍」の話。この手のドラマはNHKなどの時代劇で、ぼくも幾度も見たことがありますが、周五郎のこの一篇は、書かれたのが昭和23年(1948年)7月とあるから、そのはしりではなかったろうかと思います。とにかく毎日酒を飲んでいて、剣の達人でもあって、というお侍が赤ん坊を託されたのを機に、心機一転酒をやめ、赤ん坊をあやし、おむつを洗い、という日々を不平も云わずに受け入れる、主人公のお侍が非常に魅力的。こういうのを書かせると周五郎はほんとうに上手。

 9月29日。「泥棒と若殿」。読み終えました。

 跡継ぎをめぐるお家騒動で、下僕も居なくなった無人の武家屋敷に幽閉された若殿のもとに、忍びこんだ泥棒。無人の武家屋敷ゆえ、もう金目のものも、食糧もない。若殿はもう3日も食べ物を口にしていないのだ。見るに見かねた泥棒・伝九郎は自腹を切って買ってきた味噌や肴で、簡単な食事をつくり、若殿に食べさせた。このことをきっかけにして、奇妙な同居生活がはじまる。二人の間に芽生えるのは、紛れもない友情。周五郎の得意の人情噺。気持ちのいい読み物でした。1949年12月作。

 きょうは10月20日です。

 「長屋天一坊」「ゆうれい貸屋」読み終わりました。

 「長屋天一坊」は、徳川吉宗公のご落胤騒動にあやかって、江戸の町人が諸国の大名のご落胤をでっちあげて、ひと稼ぎしようという、呆れた笑い話。「ゆうれい貸屋」は働こうとせず寝てばかりいる、長屋の町人、弥六にある晩、お染という女の幽霊が現れたものの、話が妙な方へつながって、お染が弥六に酒肴をご馳走するようになり、その挙句にお染の知り合いの幽霊を呼んで、それでひと稼ぎしようという話。どっちも講談雑誌に掲載されたもので、講談にしたらきっと面白いだろうが、後年の山本周五郎に似合わぬ、軽い話で、こういうのもありかなあと、首を傾げた次第です。そう言えば、「ゆうれい貸屋」作中にたしか「賃金スト」という記述があったが、江戸期にストライキなる語があるはずもなく、時代小説としてはNGワードです。これを敢えて書き入れたということは、講談でこれをやるための受け狙いだったのでしょうか。山本周五郎らしからぬ失言です。

 10月22日。

 「雪の上の霜」読了。

 これは何だろう、儒学の教養があり、武芸も一人前どころか師範にもなれるような器をもった、三沢伊兵衛という浪人。ただ、玉に瑕は人が良すぎるために、侍としての仕官の道を全うできずにいるという話。話のメインは箕山城下の槍術師、小室青岳の道場に師範代として勤めることになったものの、伊兵衛の病妻おたよの存在を、青岳は勝手に病母と勘違い。自分の娘・千草を娶らせ、伊兵衛を後継者に迎えようということになってしまう。ただこの話、若干〈尻切れ蜻蛉〉感があり、変な感じで終わってしまうのには首を傾げました。