今週の月曜日、大学時代の弓道部同期3人+一つ下の後輩一人の
4人で新橋飲み会
そのうち二人はこの前の弓道部同期会に参加できなかったので
あらためて飲みなおし
ご参考
40年の時を超えて~大学弓道部OB会~ | 相場残日録(元相場師天の日記) (ameblo.jp)
いろいろと昔話に花が咲きました。
そして、私が主将として臨んだ
1983年10月の私の幹部学年としての最後の公式戦
九州学生弓道選手権 通称「全九」の話題に
私の主将時代の公式戦の団体戦績は
指宿戦(九州の新幹部の新人戦) 惨敗予選落ち
九州北部リーグ戦 昨年陥落した二部を守るのがやっと
西日本選手権 惨敗予選落ち
九州インカレ あと一歩およばず予選落ち
七帝戦 惨敗6位
まさに連戦連敗 OBからはぼろくそに言われ
本当にしんどかった・・・・
私の個人的な成績は、主将としてはなんとか及第点
一人で支えている、まさに 孤軍奮闘という感じ
そんな状況の中、主将として私が断固たる決意でいたことは
「次の代を育てること、自分の代の成績は捨てても
来年を見据えて、来年の主力となる者を
徹底的に公式戦で使うこと」
そのために、練習の的中が同じレベルであれば
躊躇なく後輩を公式戦のメンバーに選び
経験を積ませる
そして、それは実際の試合のスタメンでも同じ
メンバーチェンジでもその姿勢はぶれませんでした。
迎えた、主将としての最後の大試合 全九
幹部学年として最後の試合を前に
私の同期連中が最後の意地を見せて
練習からものすごく的中率が上がってきて
メンバー11人を三年6人二年4人一年一人
としました。
実際の試合のスターティングメンバーは8人
その8人にも幹部三年を5人起用後の3人が二年生
まず予選 一人4本X二立 計8本 8人だから合計64本
結果は、予選通過ライン40中をはるかに超える46中、
決勝リーグへ進む8校中2位の成績
わが大学として久しぶりの公式戦決勝リーグ進出に
みんな歓喜の嵐
あの時のみんなの笑顔は今でも目に焼き付いています。
そして、挑んだ決勝リーグ
この1年、決勝リーグ進出を目標に頑張ってきたということもあり
妙な 燃え付き感???
決勝リーグではみんなイマイチ的中が伸びませんでした・・・・
優勝は予選1位の大学がリーグ全勝で手にしました
しかし、優勝校とは別に
的中+弓道としての立ち姿のきれいさ品格 を総合的に判断
リーグ進出8校中、別枠で1校に与えられる優秀射技校
その栄誉を我が大学が意外にも受賞‼️
心の底からうれしかったですね。
そんな全九の決勝リーグをあと1試合残した控室で
リーグ戦後半で絶不調に陥った2年生から
「先輩、替えてください」と直訴されました。
私は、1年前の全九の予選一立目で4本全部外しながら
当然メンバーチェンジ食らうと思っていたのに
(責任を痛感していたので替えてくださいという気持ちも・・・)
ところが、主将から
「お前は次の主将だ、この試練を自分で超えろ!」
そう言われて二立目も出場 一本目を外しパニックになりながら
あとの3本は中てたという経験がありました。
ご参考
弓道への想い・・・ | 相場残日録(元相場師天の日記) (ameblo.jp)
その経験もあったので、
「駄目だ お前は来年の主力としてこのチームを引っ張る存在
最後まで、頑張れ!」
そう言って 外しませんでした。
その裏で
幹部3年でメンバーに選ばれながら
私が試合には使わなかった選手が一人
かれは、この日の飲み会に出席していました。
飲みがすすんで
その彼が ボソッと
「あの時、俺を使ってほしかったなあ・・・・」
正直、あの当時は
幹部の最後の公式戦の最後の立の4本
ここまでただ一人 試合に使わなかった幹部3年の彼を
「最後だから 彼を使ってあげよう」
と 一顧だに考えませんでした・・・・
あの時は・・・・
その後40年
「あのときあいつを使ってあげればよかったかなあ」
という気持ちになったこともありませんでした。
それが 40年ぶりに その当事者の彼の一言
「・・・・・・・・」
彼は、その時の気持ちを40年間胸に抱えていたのですね
しかし私は、そのことに全く思い至っていなかった・・・・
なんとなく
突然 彼に申し訳なかった という気持ちが沸き起こって
「ごめんな・・・」
と返してしまいました。
そうすると
かれから
「自分の代を犠牲にしても後輩を育てるという
お前の確固たる決意は当時も十分理解していた
だから、謝らないで そんなつもりで 言ったのではないから
ただ、その時の気持ちを伝えたかっただけ」
40年前の学生弓道部時代の熱く切ない想い
そして 絆
私の貴重な財産です。
追記
私が育てた後輩達は
翌年、見事な成績を納めてくれました
記事に書いた彼も、中心選手として大活躍
想いは叶いました。
以上
天