本当は二つある大いなる存在「太極」と「無極(35) | アウトオブスペース系の悟りでス

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波動・量子の世界を超える「無極」、その「無極」の目覚め・覚醒を意味する真の悟りを提唱する。

〈「焦点ぼかし法」前半&垂直の次元の話〉

真我という見る意識は一体どの位置からワシらの目に映るモノを見ているのか? 
今回はそれに関する話からはじめやしょう。
えっ、あの話まだーっ? て言われそうだけど。

 

まあ、前にも似たような話をしたことがあると思うけど、ワシらの目に映るモノ、あるいはワシらが認識しているモノを仮に一枚の写真上の映像に例えるとしたら、真我という見る意識はその写真の中のどこかからではなく、それの外側から写真上の映像を見ていることになる。

この例え話に出てくる一枚の写真というのは、この空間(ワシらの認識の中にあるこの空間)の象徴であり、この例え話によってミーが伝えたいのは次の事実だ。
真我という見る意識はこの空間の中のどこかからではなく、それの外側からワシらの目に映るモノなどを見ている。
てことは、ワシらの目に映るモノなどを見ている主は実はワシら自身ではなく、この空間の外側に視点を持つ真我という見る意識なんだってことでもあるわけだ、信じられる?
(ついでながら、悟りが視点移動の一種として語られ得るのも、このことと関係あるんだよね。)

で、「この空間の外側」というのをより具体的に言い直すと、「この空間に対して垂直な方向」となる。
「この空間に対して垂直な方向」ね。
これについては、人が写真上の映像を見ている時その目はどの位置にあるか考え合わせてみると、合点がゆくのではないだろうか。
人が写真上の映像を見ている時その目は当然ながら、写真の真上つまり写真に対して垂直な方向にあるよな。
それと同じように、ワシらの目に映るモノなどを見ている時の真我という見る意識もまたこの空間に対して垂直な方向にある、という次第だ。

一枚の写真(二次元)に対する垂直な方向は誰でもイメージできるけど、この空間(三次元)に対する垂直な方向は誰にもイメージできない、ということもあって、「そんなものの存在」を信じられないという向きもあるかも知れないけど、最近は物理学の世界でも「そんなものの存在」に言及する学者が出てきていることを付け加えておこう。

そう言えばオショー(ラジニーシ)は真我の在りかを「垂直の次元」と表現することがあったけど、その「垂直の次元」という言い回しは、前出の“この空間に対して垂直な方向”にある領域を指している、という風にも見ることができる。
まあ、その言い回しに関しては他の解釈もできることはできるんだけど、そういう見方も可能だってことな。

“この空間に対して垂直な方向”にある領域、という意味合いもその「垂直の次元」という言い回しから見て取れるので、その点を踏まえてこれからは、真我の別名の一つに「垂直の次元の意識」というのを加えることにしたい。
ミーとしては、この「垂直の次元の意識」というネーミングを通して、ユーたちに次のことに思いを馳せてもらいたいのだ。
真我という見る意識はこの空間に対して垂直な方向に存在しており、その位置からワシらの目に映るモノなどを見ている。

ところでこういう話をすると、真我という見る意識がいかにもワシらの日常生活からかけ離れた存在であるかのような印象を持たれかねないけど、そうとばかりは言い切れないことは、これまでのミーの話を覚えているパーソンなら分かってくれていると思う。
そうとばかりは言い切れないのは何故か?
前にも述べたように真我という見る意識は、ワシらが今目にしているモノとピタリと一つにもなっているからだ。言い換えれば、ワシらが今目にしているモノに「釘付け」にもなっているからだ。
そこに着目すると、真我という見る意識はワシらの日常生活とまるきり接点が無いわけではないことに思い至るだろう。

この空間に対して垂直な方向に存在していると同時に、ワシらが今目にしているモノとピタリと一つになってもいるもの、それが真我という見る意識なのだ。より抽象的に言うと、現実離れしていると同時に現実に密着してもいるもの、それが真我という見る意識なのだ。
このあたりの消息を視覚的なイメージで理解したかったら、先ほどの話に出てきた一枚の写真の上にガラスの立方体が立っているところを想像してみたらいい。ガラスの立方体の底面と写真は同じ大きさで隙間なく重なっていること、という点に留意してな。
ここに言う一枚の写真がこの空間の象徴なら、その上に立っているガラスの立方体はもちろん真我という見る意識の象徴だ。
このガラスの立方体が、「写真上の映像とピタリと一つになっていること」と「写真に対して垂直な方向にあること」の二つを同時に満たしているのは分かるよな。
ちょうどそれと同じように、真我という見る意識は、「ワシらの目に映るモノとピタリと一つになっていること」と「この空間に対して垂直な方向にあること」の二つを同時に満たしている、という次第だ。

さてそれでは、いよいよこれから、その真我という見る意識の存在が露呈する出来事、すなわち悟りの発生を促すメソッドの一つ「焦点ぼかし法」について、述べることにしたい。
このメソッドは前半と後半の二つに分かれているんだけど、まずは前半の方から行こう。

【「焦点ぼかし法」前半】

“「焦点ぼかし法」前半”のやり方を一言で言うと、TOUS第三ステップを使って、真我(という見る意識)で何か一つの対象を見ている状態になること。
この状態を裏から眺めると、心を脇に置いて何か一つの対象を見ている状態であることは言うまでもない。

で、ここに言う「何か一つの対象」というのは色々ある対象の中からユーが「これにしよう」と決めたもののことな。
要するに、ユーが自由にそれを選べばいいのだ。強いて選ぶ時の注意点を挙げるとすれば、ユーから見て大きすぎず小さすぎない程よい大きさのものにする、ということぐらいか。
ユーが何を選ぶかは知らないけど、ここでは仮に、ユーが部屋にある花瓶を選んだものとして話を進めよう。

まず言っておくけど、ユーがTOUS第三ステップを使って、例えば花瓶を真我で見ている状態になったとしても、ミーが今まで繰り返し述べてきたように、ユーはその状態を「単に花瓶が目に映ってるだけの状態」としか認識できない。もちろん、ユーが既に悟ってる人だったら話は別だけど。

しかし、ユーがその状態を維持するのを止めた時、言い換えればその状態が「花瓶を真我で見てない状態」に変化した時、ユーは、今までそこにあった何かが失われたことに後づけで気づくことはできるかも知れない。
その状態が「花瓶を真我で見てない状態」に変化する、というのは言うまでもなく、その状態が「心を介在させながら花瓶を見ている状態」に変化する、ということでもあるわけだけど、それと同時に、今までそこにあった何かが失われたことに、ユーが後づけで気づく可能性はあると思うのだ。

「今までそこにあった何か」とはお察しの通り、顕在化していた真我、もしくは顕在化ていした「垂直の次元の意識」、もしくは顕在化していた「くだんのガラスの立方体」に他ならないんだけど、もし仮に、それが失われた後それがあったことにユーが気づいたとしたら、ユーにはそれが「全空間に遍在する透明で高密度な何か」といった印象をもって受け止められるんじゃないかな、とミーは思っている。
人の心の中は覗けるものではないし、また同じものでも人によって受け止め方は違うものだから、確信をもってそう言えるわけでもないんだけど……。

「焦点ぼかし法」とは直接的には関係のない話を長くしてしまったけど、大きな角度から見るとこういう話も「焦点ぼかし法」に取り組む上での参考になることだろう。

「焦点ぼかし法」後半の話は次回になりやす。


中島タローでした。