アウトオブスペース系の悟りでス

波動・量子の世界を超える「無極」、その「無極」の目覚め・覚醒を意味する真の悟りを提唱する。

ようこそ当ブログへ!!

(※当ブログは2015年9月タイトルが「悟りん坊ばんざい!!」から現在のものに変更されました)

◆読者登録はオールウェルカムです。連絡いりません。


「アウトオブスペース(OUT OF SPACE)系の悟り」宣言


「アウトオブスペース系の悟りって何?」

当ブログのタイトルを見て、そう思われた方はソレ(↑)をご覧ください。

取りあえずソレをご覧になれば大体のことはお分かりになるはずです。


とはいえ簡単にも説明しておきましょう。私を超えた不可視の大いなる存在には実は二種類あります。

中国式で言うと「太極」と「無極」です。が、当方の言う悟りとはそのうちの「無極」の目覚め・覚醒のことです。なので本当は「無極系の悟り」と称してもよいのですが、そこを敢えて現代風に「アウトオブスペース系の悟り」とさせてもらいました。

こういう悟りの捉え方もありますよ、ということを対外的にアピールする意味もこめて、ブログタイトルにもその呼称を使わせてもらいました。

後はひたすら、根気よく、ブログの中でそれについての説明を充実させてゆくしかないと思っているところです。

それではよろしくお願いします。





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〈必ずしも「焦点ぼかし法」を最後までやる必要はない〉

「焦点ぼかし法」の話をさらに続けたい。
既に頭の中に入ってることではあるだろうけど話の進行上、「焦点ぼかし法」の全体像をあらためて見ておこう。

 【「焦点ぼかし法」前半】
・TOUS第三ステップを使って、真我で花瓶(花瓶でなくてもよいが)を見ている状態になる。

【「焦点ぼかし法」後半】

・次の①と②を同時進行で実践する。

①真我で花瓶を見ている状態を保つ。
※その際、「過去断ちの法」を補助のために使うとなお良い。

②それまで花瓶に合わせられていた目(肉体の目)の焦点をぼかす。

①と②を、ひとまとめにして言うと、こうなる。
・真我で花瓶を見ている状態を保ちつつ、目の焦点は花瓶に合ってないようにする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


さて、ミーは思うんだけど、ユーたちの中にこういう考えを持ってるパーソンは居ないだろうか。
自分は何も悟りまでは行けなくてもよい。取りあえず、心的な苦の源である自分〈心と同一視されている自分〉を無化できるところまで行けるならば。

どう? 案外こんな風に考えてるパーソンって少なくないんじゃない。
「焦点ぼかし法」の考案者であるミーがこう言うのも何だけど、もしもユーがその口だったら、「焦点ぼかし法」を最後までやる必要はない。「焦点ぼかし法」の最終的な目的は悟りだから。
でも、そんなユーにも、「焦点ぼかし法」の前半、もしくはそれプラス後半の①まではぜひ取り組んでほしい。
「焦点ぼかし法」の前半(もしくはそれプラス後半の①)というのは、それだけを切り離しても、自分を無化するための効果的なメソッドとして成立するものだから。
もしもユーが前述のような考えの持ち主ならば、後で解説する予定の「焦点ぼかし法」後半の②のことは取りあえず横に置いといて、「それだけ」に取り組むという選択肢もあっていい。

ひょっとしたらもう分かってるかも知れないけど、「焦点ぼかし法」の前半(もしくはそれプラス後半の①)の実践によってもたらされるものは自分の無化だけではない。「永遠の今」と言われているものの意味も頭や理屈じゃないところで分かるし、あわよくば、花瓶をはじめとする目に映る全てのものは本当は存在していない、という洞察が得られる可能性もある。

その可能性もあるのはなぜかというと、「焦点ぼかし法」の前半(もしくはそれプラス後半の①)を正しく実践できてる時というのは目にしているモノの存在感が皆無になるからだ。
ではなぜ、その時目にしているモノの存在感が皆無になるかというと、、「焦点ぼかし法」の前半(もしくはそれプラス後半の①)を実践するということはある角度から捉えると、「瞬間も無い今」の中でモノを見るということであり、その「瞬間も無い今」の中には本当は何も存在していないからだ(もちろん真我以外はね)。
「瞬間も無い今」というのは言い換えれば、何かが存在するために必要な時間の幅が全く無い今ということだ。そんなものの中に一体何が存在できるというのだろう。そこには波動とか粒子といった不可視のものさえ存在してない、と言ったら驚くだろうか。真理と物理学を結びつけて考えようとしているパーソンは間違いなく驚くだろうね。
話が横道にそれ過ぎたようだ。

いずれにしてもユーは、「焦点ぼかし法」の前半(もしくはそれプラス後半の①)だけでも、あわよくば前述のような洞察を得るところまでは行けるのだ。
ただ、一つ釘を刺させてもらうけど、仮にユーがそこまで行けたとしても、それをもって「自分は悟った」と思うのだけは止めてほしい。これに限らず、私が何かを洞察することが悟りではないのだから。
もっと言うと、私が何かを見抜くこととか、私が何かに気づくこととかも悟りに該当しない。私に起こることは何であれ、一つの例外もなく悟りに該当しないのだ。たとえそれが私の中の奥深いところで起こったものであったとしてもね。私の中の奥深いところといえども私という範疇の外に出るものではない以上、そう言わざるを得ない。

自分には取りあえず「焦点ぼかし法」の前半(もしくはそれプラス後半の①)だけでいいや、と思っている向きにアドバイスしておくことがあるとしたら、今のところそれぐらいかな。


中島タローでした。

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〈「過去断ちの法」をより正しく実践できるようになるためのエクササイズ〉

「焦点ぼかし法」後半の①を実践する上で、すなわち「花瓶を真我で見ている状態を保つこと」を実践する上で、「過去断ちの法」が有効な補助手段になり得ることは、前回述べた通りだ。
それでミーとしては、「焦ぼかし点法」後半の①を実践する際はなるべく「過去断ちの法」をその補助のために使うことをお勧めしたい。
そもそもは「焦点ぼかし法」というのは「過去断ちの法」抜きでも成り立つメソッドなので、絶対そうする必要があるというわけではないんだけど、そうする方がべターなのだ。

さて、それではここで、ユーが「そうする」ものと想定して、「過去断ちの法」をより正しく実践できるようになるためのヒントを述べておこう。といってもここからの話は、ユーが「そうする」「そうしない」に関わらず、読んどいて損はない話だと思う。

「過去断ちの法」をより正しく実践できるようになるための効果的なエクササイズの一つは、「過去断ちの法」とあの「瞬過去ふりかえり法」(知ってるよな)を交互に実践することだ。
「過去断ちの法」と「瞬過去ふりかえり法」を交互に実践することが何故、「過去断ちの法」をより正しく実践できるようになるための効果的なエクササイズたり得るのか?

その説明をする前にまずは、「過去断ちの法」と「瞬過去ふりかえり法」のそれぞれのやり方に触れておこう。
以前身体動作を対象とした「過去断ちの法」と「瞬過去ふりかえり法」のやり方を説明したことがあるけど、ここでは仮に花瓶という静止した物体を対象としたそれぞれのやり方を説明しておく。
これは言うまでもなく、「焦ぼかし法」が花瓶のような静止した物体を対象として実践されるようになっていることを受けてのものだ。

・花瓶を対象とした「過去断ちの法」のやり方→過去(一瞬前も含めた厳密な過去)の花瓶を心で振り返らず花瓶に直面し続ける。簡単に言うと、心で過去を振り返らず花瓶に直面し続ける。
※これを実践すると、心は脇に置かれ、真我の見る働きが前面に出てくる。

・花瓶を対象とした「瞬過去ふりかえり法」のやり方→一瞬前(という過去)の花瓶を心で振り返りつつ花瓶に直面し続ける。簡単に言うと、心で一瞬前を振り返りつつ花瓶に直面し続ける。
※これを実践すると、心の感じる働きが前面に出てくる。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

以上を踏まえて先ほどの話に戻るけど、「過去断ちの法」と「瞬過去ふりかえり法」を交互に実践することが「過去断ちの法」をより正しく実践できるようになるための効果的なエクササイズたり得る理由は、次のようなものだ。
ワシらは「瞬過去ふりかえり法」の何たるかが分かると、その分かった度合いに比例して、「過去断ちの法」の何たるかもまた分かるようになる。逆に、「過去断ちの法」の何たるかが分かると、その分かった度合いに比例して、「瞬過去ふりかえり法」の何たるかもまた分かるようになる。

ピンと来てない向きのために少し言葉を足しておくと、「瞬過去ふりかえり法」の何たるかが分かるってことは具体的には、「心で一瞬前を振り返りつつ対象に直面し続ける」ということの意味が分かるってことだ。そして、「過去断ちの法」の何たるかが分かるってことは具体的には、「心で一瞬前さえも振り返らず対象に直面し続ける」ということの意味が分かるってことだ。

さて、例えば花瓶なら花瓶を対象として「過去断ちの法」を実践している時と、「瞬過去ふりかえり法」を実践している時とでは、「そこに現れるもの」が全然違うものだ。
どんな風に違うのか。それを言葉で表現するのはとても難しいんだけど……。
その一部を強いて言語化するとすれば、「過去断ちの法」の実践時に現れるのは「この現実世界と連続性が無く超高密度で全空間に遍在する何か(=真我)」、「瞬過去ふりかえり法」の実践時に現れるのは「ソレ(=真我)とは別の何か」といったところか。
これ以上のことは、ユーが自分で実践を通して確認してほしい。

それにしても、「過去断ちの法」の実践時に現れるものと「瞬過去ふりかえり法」の実践時に現れるものの間に、前述のような根本的な違いがあるという点は非常に面白い。
なぜなら、「過去断ちの法」の実践方法と「瞬過去ふりかえり法」の実践方法の違い自体はご存じのように微々たるものでしかないから。「心で一瞬前も振り返らない」か「心で一瞬前を振り返る」かの違いしか両者の間にはないのだ。
その実践方法上の微々たる違いが結果的に、前述のような根本的な違いを生じさせる原因になるわけだから、これは面白いとも言えるし、恐いとも言えるね。

この話から汲み取ってほしいのは、「過去断ちの法」を実践する際には実践方法に微々たる狂いもあってはならないということ、言い換えれば、そこに含まれている「心で一瞬前も振り返らない」という部分を無上の正確さで実践しなければならないということだ。
一つのエクササイズとして「過去断ちの法」と「瞬過去ふりかえり法」を交互に実践することをユーに勧めるのは、それを通して、この要求にキッチリ応えられる人になってもらいたいからに他ならない。



中島タローでした。

 

 

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〈「焦点ぼかし法」後半の補足・その一〉

「真我は真我自身を見ることができる」という話を最近してるけど、押さえておきたいのは、ここで使われている「見る」という言葉と一般的に使われている「見る」という言葉は別物ってことな。

ここで使われている「見る」という言葉には、「見るものと見られるものの間に距離が無いところの見る」という意味合いがある。初めて聞く人には難しいだろうけど、前回の記事を読んだ人なら受け入れられると思う。

それに対して一般的に使われている「見る」という言葉には、「見るものと見られるものの間に距離が有るところの見る」という意味合いがある。まあ、その距離の存在ってのは主観的なものではあるんだけど。

このようなわけで、「見る」という言葉は少なくとも二通りの異なる解釈が可能だってことになる。

そこを押さえきれてないと、例えば次のような、昔からある物言いに接した時ユーたちは混乱するに違いない。
「目は目自身を見ることができないのと同じように、真我は真我自身を見ることはできない。」
真我は真我自身を見ることはできない、とな…。
これって一見、あの「真我は真我自身を見ることができる」というミーの見解の逆を行く物言いだよな。

でも、本当はそうじゃないんだ。
何故なら、この物言いの中で使われている「見る」という言葉は、前出の“一般的に使われている「見る」という言葉”に該当するものだから。言い換えれば、この手の物言いが伝えんとしているのは、真我は真我自身を自分から離れた場所に対象として眺めることはできませんよ、ということなのだから。

要するに、この物言いの中で使われている「見る」という言葉と、「真我は真我自身を見ることができる」というミーの話に出てくる「見る」という言葉は意味合いが違う、だから「本当はそうじゃないんだ」という話。

この「目は目自身を見ることができないのと同じように、真我は真我自身を見ることはできない。」という物言いは、真我のことを勉強している人たちならどこかで一度は出合うものじゃないかな、とミーは思っている。
なので、そういう人たちを混乱させちゃーいけないってことで、今回はまず最初に前述のような話をさせてもらったという次第だ。

さてそれでは、本題に入りたい。
ここからは「焦点ぼかし法」後半の補足になりやす。
まずは、おさらいから。

「焦点ぼかし法」後半の具体的な中身は次のようなものだ。
・次の①と②を同時進行で実践する。
①花瓶を真我で見ている状態を保つ。
②それまで花瓶に合わせられていた目(肉体の目)の焦点をぼかす。

要するに、ひとまとめにして言えばこういうこと。
・花瓶を真我で見ている状態を保ちつつ、目の焦点は花瓶に合ってないようにする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

今回補足させてもらうのは前出の①な。
前出の①を実践する上で、つまり「花瓶を真我で見ている状態を保つこと」を実践する上で、有効な補助手段になり得るものが紹介済みのメソッドの中にあるんだけど、何だか分かるだろうか?
実はそれ、「過去断ちの法」なのだ。
こう言うと、ユーたちは首をかしげるかも知れない。「過去断ちの法」をそういうことのために使用してもいいわけ? みたいな感じでさ。
ユーがそんな風に思ったとしても、無理もないかな、とは思う。
「過去断ちの法」は、例えば部屋に置かれている花瓶のように静止してるものを対象に実践することには向いてない、というような話を前にしたことがあるから。
でも、よく考えてみれば分かるはずだけど、それとこれとは別の話なのだ。
ミーがここで言っているのは、花瓶を真我で見ている状態になった後、その状態を保つための効果的な補助手段として「過去断ちの法」がありますよ、ということなのだから。花瓶を真我で見ている状態になるために、のっけから「過去断ちの法」を使用しましょうと言ってるわけではないんだよな。

「焦点ぼかし法」では、花瓶を真我で見ている状態になるための手段として使用されるのは原則としてTOUS第三ステップ、そしてその状態を保つための補助手段として使用可能なのが「過去断ちの法」、という風にオツムの中を整理しといてちょーだい。

さて、この「過去断ちの法」というのは既に知っての通り、何か一つの対象に、心で過去(一瞬の過去も含む厳密な過去)を振り返らず直面し続けることが求められるメソッドだ。
なので、これを前出の①に絡めて使用する場合、ワシらに求められるのは次のことな。
ワシらがTOUS第三ステップを使って「真我で見ている状態」に既になっている花瓶、その花瓶に、心で過去を振り返らず直面し続ける。


前出の「心で過去を振り返らず直面し続ける」という部分は「心を脇に置きつつ直面し続ける」というフレーズに置き換えることができる。何故なら心の性質上、ワシらが心で過去を振り返らなかったら、心はおのずと脇に置かれるようになっているものだから。
そしてもう一つ。その「心を脇に置きつつ直面し続ける」というフレーズは「真我で見続ける」というフレーズにこれまた置き換えることができる。これに関しては、もはや説明は不要だろう。
というわけで、最終的には次のような等式が成り立つことになる。
「心で過去を振り返らず直面し続ける」=「心を脇に置きつつ直面し続ける」=「真我で見続ける」。

前出の①を実践する上で、つまり「花瓶を真我で見ている状態を保つこと」を実践する上で、「過去断ちの法」が有効な補助手段になり得るのは、以上のような理由からだ。
ということで、前出の①を実践する際はぜひ、この「過去断ちの法」を補助のために使ってほしい。


中島タローでした。

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〈真我にとって「見る」と「見られるものと同じ場所にある」は同じこと〉

今回はまずはじめに、「焦点ぼかし法」前半と後半の目的をおさらいしておきたい。

・「焦点ぼかし法」前半の目的→真我で花瓶(花瓶でなくてもOK)を見ている状態になること。
・「焦点ぼかし法」後半の目的→真我で真我自身を見ている状態、つまり悟りの状態になること。

要するに「焦点ぼかし法」というのは、まず前半において真我で花瓶を見ている状態になることが求められ、後半においてその状態を真我で真我自身を見ている状態(悟りの状態)に移行させることが求められる、というわけだ。

さて、前出の二つの状態の間には色々と共通点があるんだけど、その中で一番大きいものと言えばこれだ。
どちらにおいても、心が脇に置かれている。
「どちらにおいても、心が脇に置かれている」というのが、前出の二つの状態の間にある最も大きな共通点であり、前出の二つの状態の間にあるソレ以外の共通点は全てソレの副産物であり、ソレから派生したものと見ていい。

ここに言う「ソレ以外の共通点」というのは例えば、次のようなものだ。
①どちらにおいても、時間(心に感じられる時間・心的な時間)が停止している。

②どちらにおいても、心の働きである思考・イメージ・感覚といったものが脇に置かれている。

③どちらにおいても、私(心と同一視されている私)が居ない。

④どちらにおいても、見るものと見られるものの間に距離(心に感じられる距離・心的な距離)が無い。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

さて、「焦点ぼかし法」前半&後半に対する理解をさらに深めてもらうために、ミーがここで補足しておきたいのは前出の④な。
前出の④をもう少し分かりやすく言い直すと次のようになる。

「真我で花瓶を見ている状態」と「真我で真我自身を見ている状態(悟りの状態)」の間にある共通点の一つ、それは見るものと見られるものの間に距離が無い、ということ。

ここに言う「見るものと見られるものの間に距離が無い」の意味するものは、「見るものはコチラにあり見られるものはアチラにある、という構図がそこになく、両者の区別がつかないまでに両者は同じ場所にある」ということである。あるいは別の角度から言うなら、クリシュナムルティが「見るものは見られるものだ」という言葉で言い表した消息がそこにある、ということでもある。
これらのことが、「真我で花瓶を見ている状態」と「真我で真我自身を見ている状態(悟りの状態)」のどちらにも当てはまるのだ。

そこを踏まえながら聞いてもらいたいんだけど、前出の④は次のように言い換えることもできる。

ワシらが「真我で花瓶を見ている状態」にある時、見る真我と見られる花瓶の間には距離が無い。そして、ワシらが「真我で真我自身を見ている状態」にある時、見る真我と見られる真我自身の間にもこれまた距離が無い。

あくまでも仮定の話だけど、もしも「真我で見る」イコール「感じる」であったなら、こういう話には絶対ならない。
何故なら再三述べているように、感じるということは、感じるものと感じられるものとの間に微かながらも距離を生じさせるということだから。
「焦点ぼかし法」前半&後半をクリアするためには、こういうことにも留意が必要だ。
 

 

中島タローでした。

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〈あのクイズの答え&「感覚なき気づきの意識」のこと〉

真我の別名考えるの好きだねーって言われそうだけど、ミーはまた一つ真我の別名を考えたぜい。
「感覚なき気づきの意識」ってやつ。
これに限らず、ミーが色々と真我の別名を考え出すのはさ、その別名によって表現されている真我の側面に着目してもらいたいからなんだよね。

ミーの見た限りでは、真我のことを「気づき」あるいは「気づきの意識」として理解してる人は少なくないみたいだけど、その「気づき」なり「気づきの意識」には感覚つまり感じることは含まれてないというところにまで理解が及んでる人はあまり居なさそうな気がする。
あの悟りシーンの中心人物の一人とも言えるエックハルトトールからして、「真我」イコール「感じる者」という見方をしているみたいだから。その影響もあるのか、ないのか…。
まあそれはよいとして、「感覚なき気づきの意識」という真我の別名を新たに考え出したのは、彼らに「そこのところ」をアピールしたいがためでもある。

「感覚なき気づきの意識」、あるいは感じることが含まれてない気づきの意識なんてものがそもそもあり得るのか? といった疑いをお持ちの向きは特に覚えておいてほしい。
ここに言う「感覚なき気づきの意識」とは、ワシらが心を脇に置いて、つまり思考もイメージも感じることさえも脇に置いて、例えば何か物を見ている時、それが赤ければその赤さに気づき、それが丸ければその丸さに気づいている心とは別の無形の何かのことだ。

ワシらは心を脇に置いて物を見たり音を聞いたりしている時、ただ目に物が映り耳に音が聞こえているという純粋に物理的な現象だけがそこにあるかのように思いがちだけど実はそうではなく、「感覚なき気づきの意識」という体にも心にも属さない、形無きものの働きもそこにはあるのだ。悟りが起こるまではそれが明らかになることはない、というだけの話であってね。
で、その「感覚なき気づきの意識」を真我と位置付ける理由は、それこそがワシらにとっての真の主体と言える唯一のものであり、真の主体と言えるものだけが真我の名に値するからだ。

さて、それではここで、真我という言葉の代わりに前出の別名を用いて、「焦点ぼかし法」前半・後半の具体的な中身をもう一度記しておこう。
内容自体はユーが既に知ってるものともちろん同じだけど、「真我」が「感覚なき気づきの意識」に置き換えられているので印象が違うはずだ。またそれによって、「焦点ぼかし法」というものをより具体的な視点から眺めることができると思う。

【「焦点ぼかし法」前半】
・TOUS第三ステップを使って、「感覚なき気づきの意識」で花瓶(花瓶でなくてもよいが)に気づいている状態になる。

【「焦点ぼかし法」後半】

・次の①と②を同時進行で実践する。
①「感覚なき気づきの意識」で花瓶に気づいている状態を保つ。
②それまで花瓶に合わせられていた目(肉体の目)の焦点をぼかす。

以上を、ひとまとめにして言うと、こうなる。
・「感覚なき気づきの意識」で花瓶に気づいている状態を保ちつつ(真我で花瓶を見ている状態を保ちつつ)、目の焦点は花瓶に合ってないようにする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

さて、ミーは前回の記事の最後にクイズを一つ出したけど、こちらの方は先ほどのような言い換え無しで、再掲させてもらいやす(切り替えよろしく)。

【前回の記事の最後に出されたクイズ】

・前出の①と②を同時進行で実践することが何故、悟り、つまり「真我が真我自身に気づく、という出来事」の発生を促すことに繋がるのか?
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

これに関しては、少し言葉を足しておこう。
実践してみれば分かると思うけど、ワシらが真我で花瓶を見ている時というのは基本的に、ワシらの目の焦点は花瓶に合っているものだ。言い換えれば、ワシらからすると、真我で花瓶を見ることと目の焦点を花瓶に合わせることとは基本的に同時一体的になされるようになっている。
なのでワシらが「焦点ぼかし法」前半をクリアした段階では、ワシらが何らかの作為を働かせてない限り、真我で花瓶を見ている状態とワシらの目の焦点が花瓶に合っている状態とがワンセットで実現されていることになる。

で、既に知っての通り、「焦点ぼかし法」後半においてワシらは、前出の①と②を同時に実践すること、すなわち、真我で花瓶を見ている状態を保ちつつ目の焦点は花瓶に合ってないようにすることが求められるわけだけど、そのことが悟りの発生を促すことに繋がる理由を問うているのが、くだんのクイズな。

そのこと、すなわち真我で花瓶を見ている状態を保ちつつ目の焦点は花瓶に合ってないようにすることが、悟り、すなわち「真我が真我自身に気づく、という出来事」の発生を促すことに繋がるのは何故か?

このクイズを出してから何日か経つけど、ユーはどんな解にたどり着いただろうか…。いずれにしても、これから一緒に、あらためてそれを考えてみよう。

このクイズを解くヒントは、前回も述べたように、大きな角度から見ると次の二つは同じようなこと、という点にある。
「目の焦点は花瓶に合ってないようにすること」
「目の前から花瓶を取り除くこと」

「目の焦点は花瓶に合ってないようにすること」と「目の前から花瓶を取り除くこと」とは、大きな角度から見ると同じようなことなんだ。完全に同じとまでは言えないとしてもね。
なので、ワシらが前出の①と②を同時進行で実践することは、すなわち「真我で花瓶を見ている状態を保ちつつ目の焦点は花瓶に合ってないようにすること」は、真我からしてみると、それまで目線を向けていた花瓶という的を外されることにほぼ等しいと言える。

それが意味するものは何か?
そこを考えてみてほしい。真我が見ることのできるものの中には真我自身も含まれている、という点を念頭に置きながらね。

今のフレーズでピンと来た向きもあろうかと思うけど、それが意味しているのは、今まで花瓶に向けられていた真我の目線が真我自身に向きやすくなっている状況がそこにはある、ということだ。だって真我からすると、前方に視線を向ける対象が無くなったら、その逆方向にある自分自身に視線が向きやすくなるのは自然な流れというものだから。
それまで花瓶に向けられていた真我の目線が真我自身に向きやすくなっている状況、それは言い換えれば、
「真我が真我自身を見る、という出来事」すなわち悟りが発生しやすい状況に他ならない。

前出の①と②を同時進行で実践することが悟り、つまり「真我が真我自身に気づく、という出来事」の発生を促すことに繋がるのは、そういうわけだからだ。

クイズの答えが出たところで、今回の話はここまでに…。
次回からは、前出の①と②のそれぞれをもう少し詳しく見ていきたい。


中島タローでした。

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〈「焦点ぼかし法」後半の話とか、真我を見るのは誰?という話とか…〉

覚えてるだろうか。この連載の(31)でミーは、“真我で見る”の意味をニコニコしながら理解する法、という名称のメソッドを紹介させてもらったけど、今思うと、このネーミングは必ずしも適切ではなかったようだ。
ミーが今そのように感じている理由は、ワシらの側から“真我で見る”の意味を理解することは不可能である、という点にある。
ワシらの側から“真我で見る”の意味を理解することは不可能なんだ。どんなメソッドを使ったとしてもね。
「焦点ぼかし法」と切っても切り離せない関係にあるTOUS第三ステップとて、その例に漏れるものではないのだ。

 

なぜって?
そもそも真我そのものを、ワシらの側から直接的に知ることは不可能だからだ。
真我そのものを直接的に知り得ないワシらにどうして、“真我で見る”の意味を理解することなどできるだろう。
デキャセン♪ デキャセン♪ デキャセン♪ デキャセン♪……(「デキャセン音頭」かい?)   

それは例えばの話、催眠術によって「(自分の顔についてる)目の存在」を忘却させられている人がもし仮にいたとしたら、その人は目で何かを見るということの意味を理解できないのと同じだ。
その人が催眠術によって視力を封じられてない限り、という前提つきだが、その人は目で何かを見ること自体はできる。でも、目で何かを見るということの意味は理解できない。
逆から言うとその人は、目で何かを見るということの意味は理解できなくても、目で何かを見ている状態にはなれる。
これはちょうど、ワシらが、“真我で見る”の意味は理解できなくても、真我で何かを見ている状態にはなれる、というのと同じ理屈な。

 

ワシらにそういうことが可能なのは、“真我で見る”の意味を理解することと、真我で何かを見ている状態になることとは、厳密には別の事柄であるからに他ならない。両者はキッチリ区別されなければならないのだ。

以上を踏まえてここで、くだんのメソッドの名称を、次のように変更させてもらいやす。
「真我で何かを見ている状態がどういうものかニコニコしながら理解する法」
「“真我で見る”の意味をニコニコしながら理解する法」よりもこちらの方が、真実に沿ってるだろ。

ミーはこの連載の記事をおおむねその時々の思い付きというかアドリブで書き進めて行ってるので、時折こういう形での修正をせにゃならんことがあるのよね。許してチョーダイ。
ああ、前置きが長くなっちまった…。

さて、「ワシらの側から真我を直接的に知ることはできない」といった話を先ほどしたけど、これを読んだユーたちの中には、こういう疑問を持った向きもあるかも知れない。
「それならば、真我の存在はどのようにして明らかになるのか?」
この手の疑問の裏側には「ワシらの側から真我を直接的に知ることができないとしたら、真我の存在が明らかになることは永遠にないはずだ」といった思いがあるに違いない。
そんな風に思ってるパーソンには想定外だろうけど、前出の疑問に対する答えは次のようなものだ。
真我の存在が明らかになるのは、真我が真我自身を見るという出来事すなわち悟りによってである。

一般的に悟りはワシら(体と心から成るワシら)が真我を見たり発見したりする出来事のように思われがちだけど、実はそうじゃなくて、真我が真我自身を見るという出来事のことを悟りと言い、先述のように、真我の存在が明らかになるのはそれによってなのだ。

へーっ、真我って真我自身を見ることもできるんだ…という声が聞こえてきそうだけど、その通りで、その通りってことは、真我が見ることのできるものには大きく分けて次の二つあるってことな。
一つは、ワシらがその存在を認識できるもの、すなわちワシらの目や耳に入ってくるものとか、ワシらの心に生じる思考・イメージ・感覚(フィーリング)といったもの。
※感覚(フィーリング)も真我によって見られる側にある点に注目されたし。
そしてもう一つは、真我自身。
ミーは真我を目になぞらえることが多いけど、この真我という目はワシらの顔についてる目とは異なり、自分自身をも見ることができるのだ。

悟り、すなわち真我が真我自身を見る、という出来事、これは前回の記事に出てきた言い回しを使って言い換えるなら、「垂直の次元の意識」が「垂直の次元の意識」自身に気づく、という出来事でもありまた、「写真の上に立つガラスの立方体」が自分自身に気づく、という出来事なのでもある。
それを考えると、未悟者といえども、悟りにはぶっ飛んだ側面があるということぐらいは何となく想像がつくのではないだろうか。

悟りにはもちろん、多くの悟者が耳にタコができるほど言ってるように、「ごく普通で、ごく当たり前のこと」という側面もあることはあるんだけど、面白いことにその一方で、ぶっ飛んだ側面もまたあるのだ。

矛盾と言えば矛盾だよな。これほどの矛盾はないんじゃないか、とさえ思う。

 

でも悟りというのは先述のように、「写真の上に立つガラスの立方体」が自分自身に気づく、というある種異常な想像を絶した出来事でもあるので、「ごく普通で、ごく当たり前のこと」という言葉だけではカバーしきれない、そこからはみ出した側面があるのは当然だとも言える。

悟りの「ごく普通で、ごく当たり前のこと」という側面だけを意識することも一つの片寄りに他ならず、悟りへの途上にある者にとってはコースがずれる一因にもなるので、心当たりのある向きはバランスを取るためにこういうことも知っといた方がいい。

さて、その悟りの発生を促すためのメソッドの一つとして、前回「前半」だけ説明させてもらった「焦点ぼかし法」というのがある。
ここからはその「焦点ぼかし法」後半の話になるんだけど、その前におさらいをしておこう。

前回述べたように、「焦点ぼかし法」前半の具体的な中身は次のようなものだ。
・TOUS第三ステップを使って、真我(という目)で何か一つの対象を見ている状態になること。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

ということで、TOUS第三ステップを使って何か一つの対象(これ以降は仮に花瓶とする)を真我で見ている状態になれたら「焦点ぼかし法」前半はクリアできたことになるわけだけど、これから取り上げる「焦点ぼかし法」後半の目的は言うまでもなく、前出の状態を悟りの状態に移行させることにある。
「焦点ぼかし法」というのは実践する側から見ると、前半でまず花瓶を真我で見ている状態になり、後半でそれを悟りの状態つまり「真我が真我自身を見ている状態」に移行させる、という形になっているのだ。
では、その「焦点ぼかし法」後半の具体的な中身はどうなっているのだろうか。それを見てみよう。

【「焦点ぼかし法」後半】
「焦点ぼかし法」後半の具体的な中身は次の通りだ。

・次の①と②を同時進行で実践する。
①花瓶を真我で見ている状態を保つ。
②それまで花瓶に合わせられていた目(肉体の目)の焦点をぼかす。

要するに、ひとまとめにして言えばこういうこと。
・花瓶を真我で見ている状態を保ちつつ、目の焦点は花瓶に合ってないようにする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

①と②についての詳しい説明は次回以降にゆずるとして、ここではユーたちに次のようなクイズを出しておこう。
①と②を同時進行で実践することが何故、悟り、つまり「真我が真我自身を見る、という出来事」の発生を促すことに繋がるのか?

 

どう、分かる?
何かヒントが欲しいだって…。
そうだな、ヒントになりそうなことと言えば、「目の焦点は花瓶に合ってないようにする」と「目の前から花瓶を取り除く」は大きな角度から見ると同じようなこと、ということぐらいかな。

次回の投稿までの間、暇があったら考えといてチョーダイ。


中島タローでした。

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〈「焦点ぼかし法」前半&垂直の次元の話〉

真我という見る意識は一体どの位置からワシらの目に映るモノを見ているのか? 
今回はそれに関する話からはじめやしょう。
えっ、あの話まだーっ? て言われそうだけど。

 

まあ、前にも似たような話をしたことがあると思うけど、ワシらの目に映るモノ、あるいはワシらが認識しているモノを仮に一枚の写真上の映像に例えるとしたら、真我という見る意識はその写真の中のどこかからではなく、それの外側から写真上の映像を見ていることになる。

この例え話に出てくる一枚の写真というのは、この空間(ワシらの認識の中にあるこの空間)の象徴であり、この例え話によってミーが伝えたいのは次の事実だ。
真我という見る意識はこの空間の中のどこかからではなく、それの外側からワシらの目に映るモノなどを見ている。
てことは、ワシらの目に映るモノなどを見ている主は実はワシら自身ではなく、この空間の外側に視点を持つ真我という見る意識なんだってことでもあるわけだ、信じられる?
(ついでながら、悟りが視点移動の一種として語られ得るのも、このことと関係あるんだよね。)

で、「この空間の外側」というのをより具体的に言い直すと、「この空間に対して垂直な方向」となる。
「この空間に対して垂直な方向」ね。
これについては、人が写真上の映像を見ている時その目はどの位置にあるか考え合わせてみると、合点がゆくのではないだろうか。
人が写真上の映像を見ている時その目は当然ながら、写真の真上つまり写真に対して垂直な方向にあるよな。
それと同じように、ワシらの目に映るモノなどを見ている時の真我という見る意識もまたこの空間に対して垂直な方向にある、という次第だ。

一枚の写真(二次元)に対する垂直な方向は誰でもイメージできるけど、この空間(三次元)に対する垂直な方向は誰にもイメージできない、ということもあって、「そんなものの存在」を信じられないという向きもあるかも知れないけど、最近は物理学の世界でも「そんなものの存在」に言及する学者が出てきていることを付け加えておこう。

そう言えばオショー(ラジニーシ)は真我の在りかを「垂直の次元」と表現することがあったけど、その「垂直の次元」という言い回しは、前出の“この空間に対して垂直な方向”にある領域を指している、という風にも見ることができる。
まあ、その言い回しに関しては他の解釈もできることはできるんだけど、そういう見方も可能だってことな。

“この空間に対して垂直な方向”にある領域、という意味合いもその「垂直の次元」という言い回しから見て取れるので、その点を踏まえてこれからは、真我の別名の一つに「垂直の次元の意識」というのを加えることにしたい。
ミーとしては、この「垂直の次元の意識」というネーミングを通して、ユーたちに次のことに思いを馳せてもらいたいのだ。
真我という見る意識はこの空間に対して垂直な方向に存在しており、その位置からワシらの目に映るモノなどを見ている。

ところでこういう話をすると、真我という見る意識がいかにもワシらの日常生活からかけ離れた存在であるかのような印象を持たれかねないけど、そうとばかりは言い切れないことは、これまでのミーの話を覚えているパーソンなら分かってくれていると思う。
そうとばかりは言い切れないのは何故か?
前にも述べたように真我という見る意識は、ワシらが今目にしているモノとピタリと一つにもなっているからだ。言い換えれば、ワシらが今目にしているモノに「釘付け」にもなっているからだ。
そこに着目すると、真我という見る意識はワシらの日常生活とまるきり接点が無いわけではないことに思い至るだろう。

この空間に対して垂直な方向に存在していると同時に、ワシらが今目にしているモノとピタリと一つになってもいるもの、それが真我という見る意識なのだ。より抽象的に言うと、現実離れしていると同時に現実に密着してもいるもの、それが真我という見る意識なのだ。
このあたりの消息を視覚的なイメージで理解したかったら、先ほどの話に出てきた一枚の写真の上にガラスの立方体が立っているところを想像してみたらいい。ガラスの立方体の底面と写真は同じ大きさで隙間なく重なっていること、という点に留意してな。
ここに言う一枚の写真がこの空間の象徴なら、その上に立っているガラスの立方体はもちろん真我という見る意識の象徴だ。
このガラスの立方体が、「写真上の映像とピタリと一つになっていること」と「写真に対して垂直な方向にあること」の二つを同時に満たしているのは分かるよな。
ちょうどそれと同じように、真我という見る意識は、「ワシらの目に映るモノとピタリと一つになっていること」と「この空間に対して垂直な方向にあること」の二つを同時に満たしている、という次第だ。

さてそれでは、いよいよこれから、その真我という見る意識の存在が露呈する出来事、すなわち悟りの発生を促すメソッドの一つ「焦点ぼかし法」について、述べることにしたい。
このメソッドは前半と後半の二つに分かれているんだけど、まずは前半の方から行こう。

【「焦点ぼかし法」前半】

“「焦点ぼかし法」前半”のやり方を一言で言うと、TOUS第三ステップを使って、真我(という見る意識)で何か一つの対象を見ている状態になること。
この状態を裏から眺めると、心を脇に置いて何か一つの対象を見ている状態であることは言うまでもない。

で、ここに言う「何か一つの対象」というのは色々ある対象の中からユーが「これにしよう」と決めたもののことな。
要するに、ユーが自由にそれを選べばいいのだ。強いて選ぶ時の注意点を挙げるとすれば、ユーから見て大きすぎず小さすぎない程よい大きさのものにする、ということぐらいか。
ユーが何を選ぶかは知らないけど、ここでは仮に、ユーが部屋にある花瓶を選んだものとして話を進めよう。

まず言っておくけど、ユーがTOUS第三ステップを使って、例えば花瓶を真我で見ている状態になったとしても、ミーが今まで繰り返し述べてきたように、ユーはその状態を「単に花瓶が目に映ってるだけの状態」としか認識できない。もちろん、ユーが既に悟ってる人だったら話は別だけど。

しかし、ユーがその状態を維持するのを止めた時、言い換えればその状態が「花瓶を真我で見てない状態」に変化した時、ユーは、今までそこにあった何かが失われたことに後づけで気づくことはできるかも知れない。
その状態が「花瓶を真我で見てない状態」に変化する、というのは言うまでもなく、その状態が「心を介在させながら花瓶を見ている状態」に変化する、ということでもあるわけだけど、それと同時に、今までそこにあった何かが失われたことに、ユーが後づけで気づく可能性はあると思うのだ。

「今までそこにあった何か」とはお察しの通り、顕在化していた真我、もしくは顕在化ていした「垂直の次元の意識」、もしくは顕在化していた「くだんのガラスの立方体」に他ならないんだけど、もし仮に、それが失われた後それがあったことにユーが気づいたとしたら、ユーにはそれが「全空間に遍在する透明で高密度な何か」といった印象をもって受け止められるんじゃないかな、とミーは思っている。
人の心の中は覗けるものではないし、また同じものでも人によって受け止め方は違うものだから、確信をもってそう言えるわけでもないんだけど……。

「焦点ぼかし法」とは直接的には関係のない話を長くしてしまったけど、大きな角度から見るとこういう話も「焦点ぼかし法」に取り組む上での参考になることだろう。

「焦点ぼかし法」後半の話は次回になりやす。


中島タローでした。

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〈「焦点ぼかし法」に取り組む前にできるようになっておいてほしいこと〉

既にご存じのように真我には見る働きがあるわけだけど、その部分を強調したい時ミーは真我のことを「真我という名の目」とか「真我という目」とか「真我という見る意識」といった表現を使うことが多い。が、今回は、その中でも話の進行上もっともシックリくると思われる「真我という見る意識」という表現を使わせてもらいやす。

さて、本題に入る前に、前回・前々回話したことの中であらためて押さえておきたいのは、次の四点な。

①真我という見る意識、それは感じることを伴わない謎の知覚・気づきのことでもある。そして、ワシらの側からはそれを観察することができず、その存在に気づくこともまたできない。
そういう意味では、コイツは屁よりも掴みどころがないと言える。屁って、観察はできないまでも少なくとも気づくことは可能だからさ。これ、いらん話ね。

②その真我という見る意識は、ワシらが(顕在意識+潜在意識)を脇に置いた時あらわれる。ちょうど顔に付けてたサングラスを外すとオメメがあらわれるのと同じようにね。
言い換えれば、ワシらが心を脇に置いた時、ワシらは真我という見る意識でモノを見ている状態になるわけだ。
例えばその時ワシらの目に映っているものが夕日であったとしたら、ワシらはその夕日を真我という見る意識で見ている状態になるという次第。

③しかしながらワシらがまだ悟ってなかったら、その状態を「単に目に夕日が映っているだけの状態」としてしか受け止めることができない。つまり、その状態の本当の意味は明らかにならない。

④その状態が真我でモノを見ている状態であることが体験的事実として明らかになるのは、悟りが発生した時である。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

さてこれから取り上げるのはモチのロン、前回予告しておいたように、「焦点ぼかし法」という名の悟りの発生を促すためのメソッドな。
前回も話したことだけど、この「焦点ずらし法」というのは、TOUS第四ステップの一つのバージョンに位置づけられるものなので、これ一つだけで単独で成り立つメソッドではない。つまり、TOUS第一~第三ステップ抜きでは成り立たないメソッドなのだ。
まあ細かいことを言うなら、TOUS第一~第三ステップというのは「心を脇に置いてモノを見ている状態」=「真我という見る意識でモノを見ている状態」になるためのものなので、そんなものを使わなくても「真我という見る意識でモノを見ている状態」になれるよーん! とおっしゃる向きには当てはまらない話ではあるんだけど。
でも、そういうパーソンってあまり居ないんじゃないかな。

いずれにしても今は、ユーが既にTOUS(「悟りのブログ」にて公開中)を実践したことがあるものとして話を進めよう。
おさらいになるけど、TOUS第一、第二、第三ステップの目的は簡単に言えば次のようなものだ。

・第一ステップ=「没入法」の目的→心の全てを一つの対象の中に入れた状態になること。ミー式の言い方で表現すると、一つの対象に対して「ココロ中入れ状態」になること。

・第二ステップ=「観察法」の目的→心の全てを一つの対象の外に出した状態になること。ミー式の言い方で表現すると、一つの対象に対して「ココロ外出し状態」になること。

・第三ステップ「即覚法」の目的→心の全てを一つの対象の中でもなく外でもないどっちつかずの状態に持ってゆくこと。ミー式の言い方で表現すると、一つの対象に対して「ココロどっちつかず状態」になること。

これらの中で一番重要なのが第三ステップであることは分かると思う。
この第三ステップの実践を通してはじめてワシらは心(の全て)を脇に置くことができ、その結果として「真我という見る意識でモノを見ている状態」にもなれるわけだから。
で、ここでユーたちに希望するのは、できれば「焦点ぼかし法」に取り組む前にその「第三ステップ」の達人になっておくことな。
この「焦点ぼかし法」に限らず「第四ステップ」というのはどんなバージョンのものであれ、取り組む前にまず「第三ステップの達人」になっておくことが望ましいというか理想的なのだ。

ここに言う「第三ステップ」の達人の意味を説明しよう。
既に述べたように、ワシらから見た「第三ステッブ」の目的は一つの対象に対して前出の「ココロどっちつかず状態」になることだけど、「第三ステップ」の達人というのは簡単に言うと、その「ココロどっちつかず状態」ってやつに即座にパッとなれてしまう人のことな。

一般的に「第三ステップ」の初心者というのは「第三ステップ」を実践する際、まず最初に前出の「ココロ中入れ状態」と「ココロ外出し状態」の二つを意識すると思うんだ。そうしてからでないと、両者の中間に位置する「ココロどっちつかず状態」になるのは難しいからな。
でも、そういう過程を経なくても、ただ「ココロどっちつかず状態」になろうと意図するだけで即座にパッとその状態になることのできる人、それがミーの言う「第三ステップ」の達人なのだ。

この「第三ステップ」の達人になる近道は、動いてない時の自分の体、言い換えれば座ってるかたたずんでいるかしている時の自分の体を対象として、「第三ステップ」の実践を積み重ねることだと言える。
「第三ステップ」というのは、動いてないものの中でも特に座ってるかたたずんでいるかしている時の自分の体を対象に実践するのが一番実践しやすくできている。だから同じ実践を積み重ねるなら、そのやり方で行く方がより早く成果を出しやすいわけ。

で、最初のうちは、実践の開始段階において「ココロ中入れ状態」と「ココロ外出し状態」の二つを意識するのは構わない。というより、そうするのが自然だ。
繰り返しになるけど、よほど勘のいい向きは別として、最初のうちは誰でも、それら二つをまず意識してからでないとその中間の状態すなわち「ココロどっちつかず状態」になるのは難しいものだから。
でも最終的には、そのやり方を繰り返すことによって、そのやり方から離れられるレベルまで行けるよう頑張ってほしいのだ。
そのやり方から離れられるレベルとはもちろん、座っている(orたたずんでいる)時の自分の体に対して即座にパッと「ココロどっちつかず状態」になれるレベルのことな。
そこまで行けたらユーは、少なくとも座っている(orたたずんでいる)時の自分の体を対象としている間は「第三ステップ」の達人になれている、ということになる。赤飯たいてお祝いしなきゃ。

さて、座っている(orたたずんでいる)時の自分の体に対して即座にパッと「ココロどっちつかず状態」になれるレベルまで行くと、それまで難しく感じられていたあることが比較的容易にできるようになっているものだ。
そのあることとは、自分の目に映っているモノに対して即座にパッと「ココロどっちつかず状態」になることな。
もう分かってるように、自分の目に映っているモノに対して即座にパッと「ココロどっちつかず状態」になることというのは言い換えれば、即座にパッと心を脇に置いて目に映るモノを見ている状態になるということでもあり、即座にパッと真我という見る意識で目に映るモノを見ている状態になるということでもまたある。
これができるようになるとユーは、もう分かってると思うけど、この後紹介する「焦点ぼかし法」に最も理想的な形で取り組むことができるようになる。
なのでユーにはぜひ、先ほど述べたエクササイズを通して、これができるようになるところまで来てほしいと思う。

さてそれではいよいよ、その「焦点ぼかし法」の具体的な中身について述べることにいたしやしょう……と言いたいところだけど、前回に続いて今回もまたその話に入る前の話が長くなってしまったので、その話は次回に回さざるを得なくなりやした。
次回こそ本当に本当に「焦点ぼかし法」の具体的な中身について述べさせてもらうので、許してチョンマゲ!


中島タローでした。

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〈あのタイムラグの話をさらに掘り下げてみよう〉

前回の記事の最後の方で、ミーはこういう話をした。

……一般的には(例外はあるけど)、次の①と②の間にはタイムラグがあると言える。
①心を脇に置くことによって真我が顕在化した状態になる、もしくは真我という目でモノを見ている状態になる。

②その状態が真我が顕在化した状態であること、もしくは真我でモノを見ている状態であることが体験的事実として明らかになる出来事、つまり悟りの発生。

お分かりのように、①即②ではないとはいえ①がなければ②もまたないことだけは確かなので、悟りへの途上にある全てのパーソンがまず最初に目指すべきゴールが①であることは言うまでもない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

今回は、これの補足をしたい。

まず①の「心を脇に置くこと」という部分についてだけど、これは「心を介在させずにモノを見ること」という風にも言い換えがきく。つまり、つきつめると両者は同じなのだ。
なぜならワシらは、「心を脇に置くこと」ができたら結果的に「心を介在させずにモノを見ること」もできているものだし、逆もまた然りだから。これは例えば、靴下をはいてる人にとっては「靴下を脱ぐ」も「素足になる」も同じことであるようなものだ。

 

もっと踏み込むと、その「心を介在させずにモノを見ること」というところは、「思考もイメージも感覚(感じること・フィーリング)も介在させずにモノを見ること」という風にもまた言い換えられる。

てことは……モノを見る時思考やイメージだけでなく感覚さえも介在させないようにしなければ、「心を脇に置くこと」には繋がらないわけね……という誰かさんのつぶやきが今聞こえてきたけど、その通りだよーん! 
だってここに言う感覚ってやつの出どころもまた心に他ならないわけだから。
思考やイメージと同じく、感覚もまた心の働きであることをお忘れなく。

で、「心を介在させずにモノを見る」はまた別の角度から眺めると「真我(という目)でモノを見る」とイコールなので、最終的には次のような等式がなりたつ。

「心を脇に置く」=「心を介在させずにモノを見る」=「思考・イメージ・感覚を介在させずにモノを見る」=「真我(という目)でモノを見る」

余談だけどこんなことを言うと、じゃあ真我(という目)でモノを見ている人ってのはポエムを絶対書けないよね、なんて思う向きもあるんじゃないかな。
確かに真我(という目)でモノを見るってことは心の感じる働きも脇に置いて見るということだから、言い換えればロボットのように心に何も響かせることなくモノを見るということだから、一応そういう風にも言えるかも知れない。
でも、「柳は緑、花は紅」とか「月はまんまる、風は涼しき」とか「目は横に長く、鼻は縦に長い」といったフィーリングとか情感といったものを一切排除して現実そのままを描写たものも詩に含めてよいのだったら、そうとも言えなくなる。
ちなみに、今あげた三つのフレーズは全部悟りを開いた禅僧がつくったとされているものな。
話が横道にそれすぎたようだ。

さてそれにしても、「真我の見る働き」と「心の感じる働き」って、どうしてこうも多くの人に混同されやすいんだろうね。
「真我の見る働き」…それは、感覚(感じること)さえも伴わない、未悟者からしてみればまだ見ぬ謎の知覚・気づきでもあるわけだけど、そういうものの存在を彼らには想像できないってのが一番大きいんじゃないかな。
ついでに言うと、ワシらが思考もイメージも感覚さえも排除してモノを見ている時あらわれる「真我という名の無形のモノ見る主」のことにも彼らは思いが及んでいない。
ワシらが思考もイメージも感覚さえも排除してモノを見ている時あらわれる「無形のモノ見る主」、それが真我なのだということを、ユーたちにはぜひ覚えておいてもらいたい。

ではここで、その「真我の見る働き」と「心の感じる働き」の違いに触れておこう。
この二つの大きな違いとしてまず挙げたいのは、対象との間に距離(正確には心的な距離)が無いか有るかの違いな。
前者には対象との間に距離が全く無いのに対して、後者には対象との間に微かながらも距離が有るのだ。
分かりやすく言うとワシらは、真我(という目)でモノを見ている時にはモノと距離を置かずにピタリと一つになってモノを見ているんだけど、それに対して、心でモノを感じている時にはモノから微かに離れた位置(引いた位置)からモノを感じているんだってことな。
心でモノを感じるためにはほんの微かではあっても心とモノとの間に距離がなければならないことは、当ブログで紹介済みの「瞬過去ふりかえり法」を実践したことのあるパーソンであれば、文字通り身をもって分かってくれていると思う。

それもあって(それだけではないけど)、ワシらが心でモノを感じている時というのは、モノとそれを感じている心という二つのものがあることが誰にでも分かるものだ。逆から見ると、それら二つのものの存在が誰にでも分かるという事実によって、それら二つのものの間にいくらかなりと距離があることが証明されている、ということにもなるわけだ。

 

それに対して、ワシらが真我(という目)でモノを見ている時というのは、両者の間に距離が全く無いので(悟者は別として)ただモノがそこにあるだけのようにしか受け止めることができない。言い換えれば、ただ目にモノが映ってるだけのようにしか受け止めることができない。
両者の間に距離がないというのは、こういうことを言うのだ。

そう言えば、クリシュナムルティの言葉に「見るものは見られるものだ」ってのがあったな。この言葉には、ワシらが真我(という目)でモノを見ている時の消息が表現されているとミーは受け止めている。
既に述べたように、ワシらが真我(という目)でモノを見ている時というのは、見るものと見られるものとの間に距離が全く無くて、ただ目にモノが映ってるだけのように錯覚してしまうほど両者がピタリと一つになっているわけだけど、その消息が「見るものは見られるものだ」という言葉から見て取れるのだ。
ちなみに西田哲学で言われる「主客未分」という言葉もまた、その消息を表しているものらしいね。ピンとこない向きは、「主」=「見るもの」、「客」=「見られるもの」という風に置き換えてみてちょーだい。
(※実は「見るものは見られるものだ」という言葉に対する解釈はもう一つ可能なんだけど、それについては後で触れることにしたい。)


さて、「真我の見る働き」と「心の感じる働き」の違いをもう一つ挙げておこう。
この二つのもう一つの違いとは、前者はワシらの側から観察できないのに対して、後者はワシらの側から観察できるという点な。
「真我の見る働き」はワシらの側から観察できないけど、「心の感じる働き」はワシらの側から観察できる。という違いがあるのだ。
「真我の見る働き」のことはともかくとして、「心の感じる働き」がワシらの側から観察できる、というのは誰でも分かると思う。

「心の感じる働き」つまり感覚というのはお分かりのように、思考やイメージよりも微細であるとはいえ微細ながらもワシらの「視野」に捉えることのできる実体があるので、観察の対象になり得る。
それに対して、「真我の見る働き」には「心の感じる働き」と違って、ワシらの「視野」に捉えることのできる微細な実体さえもない、つまり実体そのものが無い(本当は別の次元にはあるんだけど)。だから「真我の見る働き」は観察の対象になり得ないのだ、つまりワシらの側から観察できないのだ。
「真我の見る働き」が観察の対象になり得ない理由は他にもあるけど、話が大きく逸れてしまうので、ここではそれには触れないでおこう。


で、「心の感じる働き」はワシらの側からの観察が可能であるため、「感じるとはこういうことだ、これが感じるということだ」という風に感じるということの意味をワシらの側から把握できる。というより、意識しなくても自然に把握できているものだ。
それに対して、「真我の見る働き」はワシらの側からの観察が不可能であるため、「真我で見るとはこういうことだ、これが真我で見るということだ」という風に真我で見るということの意味をワシらの側からは把握できないようになっている。
まあ究極の話をするなら、それ以前の問題として、「真我の見る働き」があらわれている時ワシらの存在そのものが脇に置かれているので把握できるもできないもないってのが本当ではあるんだけど。

ユーたちが(悟者は別として)心を脇に置くことによって「真我の見る働き(簡単に言えば真我)」を顕在化させ得た場合でも、「真我の見る働き」が顕在化しているというそのこと自体を直接的に知り得ないのは、以上のような理由からだ。
そこでユーたちにできることと言えば、せいぜい次のように自分に言い聞かせることぐらいだろう。
「わけが分からないけど、中島タローの話によると、どうやらこれが真我でモノを見ている状態らしい。」

裏を返せばこれは、前述の「わけが分からない状態」にユーがある時というのは、ユーは間違いなく真我でモノを見ている状態になれているんだってことに他ならない。
逆に、真我でモノを見ている状態というものを「これがそうか。これのことか。」と把握できたつもりにユーがなっている時というのは、ユーは間違いなく何か勘違いをしている、ということなのでもある。
皮肉だよな。世の中にはこのように、「わけが分かってない状態」こそが正しくて「わけが分かってる状態」は正しくないとされる場面というものもあるのだ。

ということで、冒頭で述べられていることの繰り返しになるけど、ワシらは心を脇に置くことによって首尾よく真我でモノを見ている状態になれたとしても、悟りが起こるまでは、「それが真我でモノを見ている状態であるというそのこと」が体験的事実として明らかにならないのだ。
こういうタイムラグの存在は念頭に入れておいた方がよい。
そうするとワシらは、たとえ心を脇に置くことに成功したとしても、悟りが起こるその時までは「じっと我慢の子」でいなきゃならんわけね……なんて声が聞こえてきそうだぜ。

話は変わるけどこれから、その悟りの起こりを促すための方法を一つ紹介させてもらいやす。
が、その前に順序として、心を脇に置くための方法として既に紹介済みの二つの方法すなわち“過去断ちの法”と“TOUS第一~第三ステップ(「悟りのブログ」にて公開中)”の実践上の違いに触れておきたい。

 

簡単に言うと、“過去断ちの法”は(空間の中を)動いているものを対象にする方が実践しやすく、“TOUS第一~第三ステップ”の中の第三ステップは(空間の中を)動いてないものを対象にする方が実践しやすい、ということな。
“過去断ちの法”は動いているものを対象に実践するのに向いていて、“TOUS第三ステップ(即覚法とも言う)”は動いてないものを対象に実践するのに向いているんだ。
両方とも実践したことのあるパーソンなら分かると思う。

で、これから紹介する方法ってのは動いてないものを対象に、というかそれを見ながら実践する形になっているので、“TOUS第四ステップ”の一つのバージョンと捉えることもできる。というより、そのようにとらえると分かりやすいのだ。
なので、これから紹介する方法は“TOUS第四ステップ”の新しいバージョンと位置付けて実践してちょーだい。

ついでながら実は、“TOUS(テクニック・オブ・宇宙の外に出る悟り)”には、これから紹介するもの以外にも未公開の第四ステップが後二つあるのよ。そして将来さらにその数が増える可能性もないではない。
で、その中の一つは「この連載」が終了次第、公開させてもらう予定なので、そこのところよろしく。

話を戻すけど、これから紹介する方法の名称は「焦点ぼかし法」というやつな。どうだい、イナセな名称だろ(イナセってどんな意味だっけ?)。
その具体的な中身に関しては、ここまでの記事が長くなっちまったので、次回述べさせてもらうことにいたしやしょう。


中島タローでした。

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〈ぜひ覚えておいて欲しい、あのタイムラグの話〉

皆さんお元気でしたか!!
日本一のマイペースブロガー中島タローです。
ミー的には、この度の長期欠場というかロングブランクによって、日本一のマイペースブロガーの地位がより一層揺るぎないものになった気がしてるんだけど、どうだかな……。

シーンとしてるとこを見ると、話題を変えた方がよさそうだね。

 

さて、ミーのこれまでの話をよく読んでいる人たちであれば、悟り系発信者としてのミーの決まり文句の一つが次のようなものであることは既に知っていると思う(と言いつつ、何事も無かったかのように本題に入ってしまうミーなのだ)。

「心を脇に置くと真我が顕在化する、もしくはあらわになる。」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今回はこれに関する補足をいくつかしておきたい。

【補足①】

ここに言う心には前にも述べたように、顕在意識と潜在意識の両方が含まれているんだけど、さらに細かく見ると後者には個人の潜在意識と万人共通の潜在意識の両者が含まれている。
要するに、「心を脇に置くと真我が顕在化する」とミーが言う時、その心という言葉には個人の顕在意識と個人の潜在意識と万人共通の潜在意識の全てが含まれているんだってことな。

 

ちなみに知ってる人は知ってるように、ここに言う万人共通の潜在意識はアラヤ意識とか集合的無意識とか普遍的無意識などと呼ばれる場合もある。
もっと専門的なことを言うなら、その万人共通の潜在意識のさらに奥には宇宙的無意識と呼ばれるものもあるらしいけど、それさえもここに言う心には含まれていることを付け加えておこう。

 

要するに、「心を脇に置くと真我が顕在化する」とミーが言う時の心という言葉は最も広い意味における心を指しているのだ。
だからミーは当然ながら、「心の一番奥深いところに真我がある」という色んなところでよく見かける説に組することはできない。たとえ一千万人を敵に回すことになるとしてもね。

少し横道にそれるけど、心全体を仮にワシらの手になぞらえた場合、個々人の顕在意識と潜在意識は一本一本の指に当たると言える。指の先っぽが顕在意識でそこから下が潜在意識って感じな。
そして、万人共通の潜在意識は手のひらに当たり、その中でも手首に近いところつまり最下層は宇宙的無意識に当たると言える。
この例えから見て取れるのは、すべての指が手のひらという同一の基盤を持っているのと同じように、全ての個人は万人共通の潜在意識および宇宙的無意識という同一の基盤を持っている、ということ。


しかし、全ての個人の同一の基盤という意味において「ワンネス」とも「全体」とも呼ばれるその万人共通の潜在意識あるいは宇宙的無意識といえども、心という枠の外に出ないものである以上、真我に該当しないことは銘記されておかねばならない。

繰り返しになるけど、その万人共通の潜在意識および宇宙的無意識(=太極)までも含めた心すなわち最も広い意味における心を脇に置いてこそあらわになるものが真我(=無極)なのだから。

そう言えば、ここに言う心全体を大海になぞらえ、個としての私をその大海の表面に生じる波になぞらえる捉え方もあるよな。

こういう捉え方をする場合は、気をつけてほしいんだけど、真我とその大海を同一視しないようにすべきだ。

「そうすると、真我つまり我々にとっての本当の自分ってのは、心でも体でもない第三番目の何かってことになるわけか」って思ったかい。
心と体の中間に位置づけられる何か、という意味でそう言ってるんじゃないなら、イエスだよーん。
ミーの言う心でも体でもない第三番目の何かっていうのは、ワシらから心や体を取り除いてもなおその後に残る何ものかを指しているのだから。言い換えれば、ワシらがこの宇宙から完全消滅したとしてもなおその後に残る何ものかを指しているのだから。

ちなみに、そのミーの言う心でも体でもない第三番目の何かってのはヨーガの世界では「第四の意識」と呼ばれているらしいね。
どうしてそういう風に呼ばれているのかというと、心の三つの層すなわち「(ワシらが)起きている時の意識」「夢を見ている時の意識」「夢を見ずに熟睡している時の意識」のいずれにも属さない意識という意味でそういう風に呼ばれているようだ。心の三つの層に属さないってことは要するに、心とは別物ってことな。
このようにヨーガの世界でも、心とは別の何かがワシらにはあるってことがちゃんと認められてるんだよ。そして、その心とは別の何かこそが真我なんだってことまでもね。

ミーだけがそういう話をしているわけじゃないんだ。


で、前述のように、その心とは別の何か即ち真我が顕在化するのは心が脇に置かれた時なんだけど、心を脇にに置くための最も効果的な方法の一つとしてTOUS第一~第三ステップがあり、忍法「過去断ちの法」があることは既にご存知の通りだ。


【補足②】


「心を脇に置くと真我が顕在化する」をもう少し具体的に言い換えると、次のようになる。
「心を脇に置くと真我という見る意識(感じることを伴わない、未悟者にとっては謎の知覚・気づき)が顕在化する」
これをさらに言い換えると、「心を脇に置くと真我という見る意識でモノを見ている状態になる」となる。
要するに、「真我が顕在化する」ということは、「真我という見る意識でモノを見ている状態になる」ということでもあるわけだ。

­

【補足③】

前述のようにワシらは、「心を脇に置くと真我という見る意識でモノを見ている状態になる」ようになってはいるんだけど、実はこれには問題が一つある。
それは、未悟者の場合、心を脇に置いて真我という見る意識でモノを見ている状態になれたとしても、その状態が真我という見る意識でモノを見ている状態なんだってことが分からない、というもの。

未悟者には、その状態が例えば目にする景色や耳にする音などを真我という見る意識で見ている状態であることが分からないのだ。言い換えると彼らには、前回の記事でも触れたけど、その状態を単に目に景色が映ってるだけの状態・単に耳に音が聞こえているだけの状態としてしか受け止められないのだ。
ああ、知らぬは本人ばかりなり……。その状態の真っただ中にありながら自分がその状態の真っただ中にあることを分かってない、というのはある意味もったいないよな。
まるで、女の尻に取り囲まれていながらそのことに全然気づいてないスケベなおっさんみたいなもんだ……おっとこれはちょっと違うか。

以上のような背景があるので、未悟者が「心を脇に置くと真我が顕在化する(=真我という見る意識でモノを見ている状態になる)」というミーの言葉にイマイチうなずけなかったとしても無理もないなと思うしまた、中島タローは何を言ってるんだ! と言うパーソンがいたとしても、気持ちが分かるところもある。

でも銘記しておいてほしい。

ユーがTOUS第一~第三ステップや過去断ちの法を使って心を脇に置けている時というのは、たとえ自分にはピンときてなくても、間違いなく真我が顕在化しており、その真我という見る意識でもってモノを見ている状態になり得ているんだってことを。
それが明らかになるのは悟りにまつしかないので、今は「へえ、そういうもんですかね…」ぐらいにしか思わないだろうけどさ。

【補足④】

ということで一般的には(例外はあるけど)、次の①と②の間にはタイムラグがあると言える。

①心を脇に置くことによって真我が顕在化した状態になる、もしくは真我という目でモノを見ている状態になる。

②その状態が真我が顕在化した状態であること、もしくは真我でモノを見ている状態であることが体験的事実として明らかになる出来事、つまり悟りの発生。

お分かりのように、①即②ではないとはいえ①がなければ②もまたないことだけは確かなので、悟りへの途上にある全てのパーソンがまず最初に目指すべきゴールが①であることは言うまでもない。


中島タローでした。

 

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