本当は二つある大いなる存在「太極」と「無極(31) | アウトオブスペース系の悟りでス

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波動・量子の世界を超える「無極」、その「無極」の目覚め・覚醒を意味する真の悟りを提唱する。

《“真我で見る”の意味をニコニコしながら理解する法(仮)》

何度か述べているように「過去断ちの法」およびTOUS・第一~第三ステップというのは「真我でモノを見ている状態になるためのメソッド」という側面があり、そういうものとして捉えることも可能だ。
が、誤解してほしくないんだけど、ユーたちはこれら二つのメソッド゚を使って真我でモノを見ている状態になることはできても、ただそれだけでは、自分が今真我でモノを見ている状態にあることを肯く(うなずく)ところまでは行けない、ザマーミロ。
「その状態」になっていながら自分が今「その状態」にあることを肯けないというのは理屈の上からも変じゃないか、と思うかも知れないけど、そういうものなんだ。
「真我でモノを見ている状態にあることと、自分が今その状態にあることを肯けることとは別の事柄なのだ」と覚えておいてほしい。

ミーがこんな風に言ってもまだ「そんなの有りかよ?」といぶかしんでる向きのために、「ある特定の状態になっている」イコール「自分が今その状態にあることを肯ける」とは必ずしもならないことを示す実例を、二つばかり挙げてておこう。

その実例としてまず挙げたいのは、自分を酔っ払っているとは思ってない酔っ払いの存在な。
自分を酔っ払っているとは思ってない酔っ払いを想像してみてほしい。彼に「あなた今酔っ払ってらっしゃいますね」と聞いても「ハイそうです」とは言わないことは誰でも分かるだろう。「オレが酔っ払ってるんだったら酔っ払ってねーヤツなんてこの世に一人もいねーよ、うーい、ヒック!」と言うかどうかまでは分からないとしてもね。
これによっても、「ある特定の状態になっている」と「自分が今その状態にあることを肯ける」は必ずしもイコールにはならないことが明らかだと思うんだけど、どうかな。

それから、「整形手術を受けて美形になったけどまだ自分の顔を鏡で見てない人」なんてのも、前者と後者は必ずしもイコールにはならないことを示す実例たり得る。
なぜなら、もはや蛇足だろうけど、現時点ではまだ自分が美形であることを鏡で確認できてない彼らに向かって「あなたはお綺麗になられました」とか言っても本心から肯いてはもらえないはずだから。

こういう実例もあるので、「真我でモノを見ている状態になっている」と「自分がその状態にあることを肯ける」が必ずしもイコールにならないからといって、それを理屈に合わないとか非合理だとか突っ込まないでほしいんだな。

さて、前者と後者が必ずしもイコールにならない理由の最たるものは、真我でモノを見ることの中には思考はもとより感覚つまり感じることさえも含まれていないことだと言える。
真我でモノを見ることの中には思考はもとより感じることさえも含まれていないので、未悟者(悟り未満の人)の場合、例えば花なら花を真我で見ている状態になり得たとしても、それを単に肉眼に花が映っている状態としか受け止めることができない、言い換えればその状態が真我でモノ(花)を見ている状態であることを肯くことができない、というわけ。

感じることさえも止めてモノを見ている状態が、未悟者には「単に肉眼にモノが映っているだけの状態」と受け止められ、悟者には「真我でモノを見ている状態」と受け止められる、という違いがある。
だから、未悟者はこんな風に思ってたらよいということだ。「単に肉眼にモノが映っているだけの状態」と自分に認識される状態というのは本当は、たとえ自分には訳が分からなかろうとも、真我でモノを見ている状態なのだ、と。
「その訳」が分かるのは悟りが起こった時に限られる、という意味において、真我に備わる見る働き・気づく働きというのは、未悟者にとっては「正体不明の謎の見る働き・気づく働き」だってことになる。


話は変わるけど、これからユーたちに紹介したいのは前出の「過去断ちの法」とTOUS・第一~第三ステップに続く第三番目の「真我でモノを見ている状態になるためのメソッドな。
このメソッドはワシらの心に生じる気分(または感情)を対象としてしか実践できないんだけど、そのかわり、「真我で見る」イコール「感じる」ではないということを最もストレートに実践者に分からせられるという特徴があるので、前出の二つのメソッドの補助用に打ってつけだと思う。

このメソッドの名称だけど、取りあえず『“真我で見る”の意味をニコニコしながら理解する法』ってことにでもしておこうかな。
名称の中に「ニコニコしながら」という部分が含まれている理由については敢えて説明しないでおこう。それは、今から明らかにするこのメソッドの具体的な中身を知れば自ずと明らかになるはずのものだから。

このメソッドは二つのステップから成るんだけど、第一ステップはニコニコすること、つまり口角(唇の両脇)を上げて笑顔を作ることなのだ。おかしくもねーのに何でニコニコせにゃならんのよ、なんて言わないでさ…。

ニコニコする……と言えば、よくある物言いの一つに「人は嬉しいからニコニコするんじゃない。ニコニコするから嬉しくなるんだ。」てのがあったよな。ミーの場合は「人は嬉しいからニコニコする」も「人はニコニコするから嬉しくなる」もどちらも正しいと見てるんだけど、いずれにしても、前出の第一ステップを実践している間は誰でも自動的に嬉しい気分になっていることは間違いない。
実践者にそうなってもらうための第一ステップなのだ。いらん話だけど、ミー的に一番やらせてみてーのはゴルゴだね。

このステップを実践する際心がけてほしいのは、無理のない範囲でいいから自分にとって最高の笑顔を作るようにすることな。実践者がゴルゴであっても特例認めねーから。

それからこのステップにも次の第二ステップにも当てはまることなんだけど、実践中は目を閉じてた方がいい。その方が笑顔を作ることで心の中に生じた嬉しい気分にスポットライトが当たったようになり、メソッドの目的によりかなうからだ。

さて、第二ステップではユーたちにある実験をしてもらうことになる。
それは、次のようなものだ。
第一ステップで作った笑顔をキープしたまま、心の中に発生し続ける嬉しい気分を感じるのを止める。
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意味分かるかな。
ワシらが笑顔をキープしている間ってのは当然ながら、心の中に嬉しい気分が自動的に発生し続ているわけだけど、そいつを感じるのを止める、というのが第二ステップにおいてユーたちにしてもらわにゃならん実験の中身ってことな。


嬉しい気分に限らず何かを感じるのを止めることは、例えば何かを掴んでいる(自分の)手を引っ込めるのと同じで、ただ「そうしよう」という意図があれば誰でもできるはずのものではある。が、人によっては、前出の実験をキッチリ行うためには、「死んでも感じるものか」とか「金輪際感じないぞ」といった強い決意を必要とするかも知れない。

この実験の目的はただ一つ、ユーたちに次の事実を身をもって知ってもらうことにある。
ワシらは心の中にある気分に、感じること抜きで気づくことができる。

ワシらが心の中にある気分に感じること抜きで気づき得るのは何故かというと、モノを感じる働きのある心とは別に、真我という名の「気づきの意識(見る意識)」をワシらが備えているからだ。
この真我という名の「気づきの意識」は心とは別物なので気分を感じることはできない。でも気分に気づくことはできる。あるいは、気分がそこに存在することを知ることはできる。
ワシらの中にある感じることを伴わない気づきの主、あるいは感じることを伴わずしてモノを見る主、それが真我なのだ。


そう言えば最近は、真我(本当の自分)のことを「気づく者」とか「見る者」という風に表現する人が何となく増えてきてる印象を受けるんだけど、もしも彼らの使う「気づく者」とか「見る者」といった言葉が「感じる者」という言葉の言い換えであったとしたら(どうもそれっぽいんだけど)、ミーは声を大にして彼らにこう言ってやりたい。
「いっいえ、別に何もありません、テヘッ…」てね。


中島タローでした。