本当は二つある大いなる存在「太極」と「無極」(26) | アウトオブスペース系の悟りでス

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波動・量子の世界を超える「無極」、その「無極」の目覚め・覚醒を意味する真の悟りを提唱する。

《真我は感じることを伴わない知覚の主である》

真我に関する物言いの中でよく知られているものの一つは「真我は見る者である」というやつだけど、ソコに含まれている「見る」という言葉を「感じる」という意味に受け取るパーソンが多すぎるのにはオイオイと言いたくなる。
誤解だからだ。その「見る」を「感じる」という意味に受け取るのは誤解なのだ。

でもよく考えてみると、彼らにも弁護の余地がいくらかはある。
なぜなら、ソコに含まれている「見る」という言葉が物理的な意味の「見る」じゃないことだけは誰にも明らかだけど、①物理的な意味の「見る」以外の「見る」と言えば「感じる」しかない→②だからそれは「感じる」という言葉の言い換えとしての「見る」であるに違いない…… てな具合に頭が回ってしまうのが悟り未満のパーソンにとっては自然な成り行きというものであるから。

でも本当は、「真我は見る者である」という物言いに含まれている「見る」は、物理的な意味の「見る」でもなく、「感じる」という言葉の言い換えとしての「見る」でもまたない第三の「見る」、すなわち物心いずれの世界のものでもない「見る」のことなのだ。
物の世界と心の世界の二つしか知らないパーソンにとっては訳の分からない話だろうとは思うんだけど。

前出の「見る」を「感じる」という意味に誤って受け取るパーソンが非常に多いもう一つの理由として考えられるのは、感覚(感じ)の出所である潜在意識が真我と非常に間違われやすいという事実な。
要するに、感覚(感じ)の出所である潜在意識と真我の混同もまた、前述のような誤解の元になってるんじゃないかってこと。

前述のような誤解の元になっていると考えられることが、さらにもう一つある。
「真我は見る者である」というフレーズと「真我はモノと一つになってモノを見る」という(意味合いの)フレーズはセットで使われることが多いけど、このこともまた前述のような誤解を招く一因になっているような気がするのだ。
その理由は、これは「ネット」上で得た情報にもとづくミーの私見なんだけど、悟者以外のほとんどのパーソンは「モノを感じる」と「モノと一つになる」をイコールと見なしている点にある。

分かりにくいかも知れないので、少し言葉を足そう。
「モノを感じる」と「モノと一つになる」をイコールと見なしてるってことは言い換えれば、「モノを感じている時の自分はモノと一つになっている」という風に思い込んでるってことな。
で、悟者以外のほとんどのパーソンはそんな思い込みを持っているようにミーには見受けられるわけなんだけど、そんな思い込みを持っている彼らがだね、「真我はモノと一つになってモノを見る」というフレーズに接した時、そこに含まれてる「見る」という言葉をどんな意味に受け取るか考えてみてほしい。
ほぼ100%の確率で、「感じる」という意味に受け取るに決まってるよな。「感じる」という意味に受け取ることではじめて彼らの脳内ではツジツマが合うわけだから。
ここまで言えば補足としては十分だろ。

さて、知ってる向きは知ってるように、彼らの思い込みとは裏腹に本当は、「モノを感じる」と「モノと一つになる」はイコールなのではない。
なぜならワシらがモノを感じている時というのは、モノと自分の間に微かながらも心的距離が生じているからだ。
まあ、この心的距離の微かさこそは彼らに心的距離の存在を見落とさせている原因ではあるんだけど。
この心的距離は何によってもたらされるかというと、モノを感じるために不可欠な「一瞬前のモノを心で振り返るという作業」によってもたらされる。

つまり、ワシらがモノを感じるためには「一瞬前のモノを心で振り返る作業」が必要なんだけど、この作業をすると結果的にモノと自分の間に微かな心的距離が生じる、という次第。
ワシらにとって、「一瞬前のモノを心で振り返ること」と「モノと自分の間に微かな心的距離を生じさせること」とはセットなんだ。

そのことは、「瞬過去ふりかえり法」を実践したことのあるパーソンであれば体験的に分かっていると思う。
「瞬過去ふりかえり法」というのは知っての通り「一瞬前(=瞬過去)のモノを心で振り返り続けるというメソッド」なわけだけど、これを実践してみれば誰でも、一瞬前のモノを心で振り返っている時には結果的にモノと自分の間に微かな心的距離が生じているものだってことが体験的に分かるはずなんだ。


さて、ワシらにとって「一瞬前のモノを心で振り返ること」と「モノと自分の間に微かな心的距離を生じさせること」とはセットになっているということは、逆に言えば次のことを意味してもいる。
ワシらが(一瞬前も含めた)過去のモノを心で振り返ることをしなければ、モノと自分の間には微かな心的距離も生じない、つまりモノと自分の間の心的距離はゼロの状態になる。

が、これに関しては重要な補足事項があって、それは何かというと、モノと自分の間の心的距離がゼロの状態というのは別の角度から見ると、自分が居ない状態でもあるってことな。
ここに言う自分とは真我の対語としての自分を指すので心(顕在意識+潜在意識)と言い換えることもできる。つまり、その状態ってのは心が無い状態、あるいは心が脇に置かれた状態だとも言えるのだ。

ということは、ワシらにとって、モノと自分との間の心的距離をゼロの状態に持って行くということはモノと一つになった自分もしくは心を実現することとイコールではないことになる。
モノと自分の間の心的距離をゼロにしたからといって、モノと自分が一つになるわけではないのだ。
頭の中だけで考えると、モノと自分の間の心的距離をゼロにしたらモノと自分が一つになりそうなものだけど、実際はそうはならないというわけ。
だって、そこにはもう自分というものが無いのだから。

しかしながら、ここがポイントなんだけど、そこにはモノと一つになった自分は居ないとはいえ、モノと一つになった自分ではない何者かは居るんだ。
では、その何者かとは何者なのか?
自分または心が脇に置かれた時あらわれるものと言えば真我しかないのだから、その答えが真我以外の何かであろうはずはない。
そう、そこにおいてモノと一つになっているのは真我なのだ。
より正確に言い直すなら、そこにおいてモノと一つになってモノを見ているのは真我なのだ、ということになる。

ただ、覚えておいてほしいのは、その真我がモノと一つになってモノを見ている状態というのは未悟の人からすると、「単に目にモノが映ってるだけの状態」としか認識できないってことな。
未悟の人にはその状態が、「単に目にモノが映ってるだけの状態」としか認識され得ないんだ。言い換えれば、彼らにとってその状態というのは「モノがただそこにあるだけでソレを感じている主も見ている主も見当たらないという状態」以外の何ものでもないんだ。

ミーに言わせれば、そこにおいて真我とモノとがあまりにも完璧に一つになっていることも、その一因ではあるんだけど。

この話裏を返せば、未悟の人が「単に目にモノが映ってるだけの状態」と認識している状態というのは実は、真我でモノを見ている状態に他ならないってことでもある。


中島タローでした。