心にはデスポイントがある・前編 | アウトオブスペース系の悟りでス

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波動・量子の世界を超える「無極」、その「無極」の目覚め・覚醒を意味する真の悟りを提唱する。

ここのところずっと「本当は二つある大いなる存在…」の話が続いているので、今回と次回はそれとは系統の違う話をさせてもらおうかな。

真我の体現と心を脇に置くこととはワンセットになっていてどちらか一方だけが単独で実現されることはない……ということは当ブログの読者であれば少なくとも知識としては知っているに違いない。
が、それに対しては、次のような感想を持つ向きもあるのではないだろうか。
もしそれが事実なら、真我を体現するための方法は存在しないことになる。
そうした感想を持つパーソンがいたとしてもおかしくはないとミーは思う。ミーにはそれが理解できる。
おまんの言うことは筋が通っちょる、と言いたくもなる。そうした感想の後ろには次のような筋の通ったロジックを見て取れるからだ。

①方法を実践している時心は脇に置かれていない(方法の実践は心でなされるものだから)。

②そして、心が脇に置かれてないってことは真我は体現されていないってことだ。

③だから真我を体現するための方法は存在しない。

このロジックに対するミーの見解を述べさせてもらうなら、それは一般論としては正しいと言える。が、一般論としては正しいってことは裏を返せば例外もあるってことに他ならない。

前述のロジックが例外の存在を許す理由は、ミーが「心のデスポイント(death point)」と名付けているものがあるからだ。「心のデスポイント」とは大まかに言うと、心にとって命取りになるような場所のこと、もう少し具体的に言うと、心がそこにおもむくと(心をそこに持って行くと)心の働きが静止したり、心が脇に置かれたりするポイントのことな。

心にとってはまるで天敵みたいなポイントだけど、僅少ながらそんなのがあるんだよ、心の可動範囲(心を持って行ける範囲)には。
例えば、これはミーの発見じやなくて受け売りなんだけど、頭頂にあるとされるサハスララチャクラの真ん中、もしくはそのちょっと上もその一つのようだね。心をその一点に持って行くと心の働きは静止すると言われている。

心の可動範囲にそういうポイントがあるのはちょうど、この三次元世界の中に例えば「バミューダトライアングル」みたいなワシらが体をそこに運ぶと体が消滅してしまう場所があるのと同じことな。
そういう例外的な場所があるものだからワシらは、例えば「この三次元世界に生きている者の体が突然消滅するなんてことはあり得ない」といった物言いに対しては「一般論としては正しい」としか言えないだろ。

ちょうどそれと同じように、心の可動範囲にはミーの言う「心のデスポイント」があるために、前出の「真我を体現するための方法(=心を脇に置くための方法)は存在しない」といった見解に対してもまた「一般論としては正しい」としか言えないんだ。
つまり、百パーセント正しいとまでは言えないんだ。
この意味分かるかな。
分かりにくいかも知れないけど、考えてみてほしい。

それについての解説は次回にしよう。
(続く)


中島タローでした。