最近まで勤務していた学校で実際にあった話である。仲の良いALT(ネイティブ)の人達が「クレイジー」だと憤慨しているので、何のことかと尋ねてみると、「若い英語の先生方が、アルファベットの字形や書き順(特に字形)について信じられない指導をしている」ということのようだ。初耳なのでネットでそんな指導があるのか調べてみると、確かに一部でやたらと厳格な指導(字の形が少しでも違うと☓)がされているようで、ALT達曰く「そんな事は(ネィティブである自分たちも)一度も聞いたことがない」とのことで、また私も初めて聞くことであった。調べてみると戦後文科省あたりが「指導の参考までに、一例として記載」したものが独り歩きしているようなのだ。元々アメリカ等でもアルファベットには決まった書き順は存在しないが、教育の現場では指導の便宜上一応のルールが定められていることは我が国と同様であるらしい。しかし、英語に関しては国による差異が大きく、或る国では○でも、別の国では☓のこともあるようである。我が国の英文法の本で、「これは絶対に☓」と書いてあるのに、他の本では逆の事を書いてあるのを目にしたこともある。ネイティブの人達も激論し、結論は国やその地方による用法の違い、ということであった。一方我が国では「唯一絶対」つまりある種の権威が好まれるようである。その方が何も考えなくても良いので楽だからである。

 

 この話を聞いて思い出すのは、漢字の「止めハネ」の指導を巡る混乱のことだ。まず皆さんには2007年の「東京ビデオフェスティバル」でグランプリを獲得した長野県梓川高校放送部の

 

   『漢字テストのふしぎ』(YouTubeで視聴可能)

 

を是非とも御覧いただきたい。蓋し大変な力作である、と思う。漢字テストの採点基準があまりにも曖昧な(と言うか、実際には無いに等しい)ことに疑問を持った生徒たちが、教師達⇒管理職⇒教育庁の指導主事⇒文科省と聞き取りを行い、その結果「指導には何の根拠もない」ことを明らかにし、さらに、指導主事⇒管理職⇒教師達の順に問い詰めていく作品である。文科省曰く「そんな指導をしたことは一度もない」という。実は、これに類したことが様々教育現場で蔓延している、というのが私の考えである。

 幸い漢字の「止めハネ」の指導については、このまま放置できないと考えた文化庁や文科省が是正の通知を出したので、早晩解決されるとは思うものの、未だ現場に周知されているとは言い難い現実もある。現に「入試で減点されたら可哀相だから(つまり、大学側が知らない可能性がある)、今まで通りの指導をする」という人もいる。

 書き順についても同様な問題が指摘されている。はるか昔に文部省関係者が「私的に」出した(かなり癖のある)本がいつの間にか文部省(今なら、文科省)お墨付き、という事になったことは有名な話である。私は書き順が苦手(デタラメ)なので、ある書家に尋ねたところ、「そんなもん、どうでもいいわ」と言われてしまったことがある。閑話休題。

 

 なぜ、このようなことが起こるのかを考えるのが、今回のテーマとなる。

 

応募倍率の低下

 

 教員志望者が減少しているそうである。タダ働きを前提とした現在のシステムのままなら、私も若い人たちに勧めたいとは思わない。しかし、応募倍率が3倍を切ると「実質的に選考では無くなってしまう」という経験則があるらしく、東京都などはかなり以前から地方にPRに出かけたりしていたのだが、昨年は小学校の場合2.8倍になったようである。もはや危機的状況である。

 そこで危惧されるのは質的レベルの低下、ということになる。では実際にレベルは低下しているのだろうか。これは実は難しい問題である。ある意味では「むしろ最近の先生のほうが優秀」ということもあるからだ。それは昔揶揄された「社会人としての未熟さ」という事に関してである。昔は「とんでもない」先生もかなりの確率でいたことも事実。しかし、同時に優秀な人もそれなりにいて、その人達の存在が大きな意味を持っていたのである。そこでもし昨今の若い先生方に課題があるとすれば、それは専門領域に関する学識に欠ける面があること、そして従順である(つまり、批判精神が欠けている)ということだと思う。採用試験の問題を作成した人から聞いた話では、「これでは簡単すぎるかな、と思って出題したら、誰も出来なかった」ということもあったらしい。また、私も研修で接した人の中には基礎学力に課題のある方も一定数紛れ込んでいたものだ。やはり、何らかの影響はあると思ったほうが良い。

 更に最近は、教師が不足して時間講師や臨時的任用教員(産休代替等)に頼らざるを得ない現状が、そのことに拍車を欠けている。かつて小泉総理は「米百俵の故事」を引いて教育投資の大切さを訴えたが、本音は「今大変でも我慢しろ」ということだったので、その後教育環境が好転することは絶えて無かったのである。

 

小学校の「奇習」

 

 小学校の算数指導が「オカシイ」とネットを賑わすことが多いようだ。これは小学校に問題がある、というよりは小学校だからみんなが問題を理解できる、話題にしやすい、という側面が強いようである。問題の本質は中高でもまったく同様に存在する、と見なければならない。

 原田実氏の「オカルト化する日本の教育」(ちくま新書)を見ると、歴史の捏造に基づく「江戸しぐさ」や「親学」等が学校の中に入り込んでくる経緯が詳述されている。それ以外に私は、背景に決定的な「科学的リテラシー」と「論理的思考力」の欠如があるのではないかと思うのだ。

 例えば、「水の伝言」というものがある。水に優しい言葉をかけて凍らせると、きれいな結晶ができる、という主張なのだが、なぜこんな事を信じてしまうのか理解不能なレベルである。疑似科学である、という批判に対しては「道徳の教材だから構わない」とする弁明があるようだが、これも理解不能である。

 論理的思考力という点に関しては、最近話題の「奇妙な算数指導」の事例が挙げられる。これは例えば、「3人にりんごを4個ずつ配ります。りんごは何個必要ですか」に対して、「3☓4は○で、4☓3は☓」という指導のことだ。では、「りんご4個を事前に3セット作って配った」と考えたら、4☓3ということにはならないか? 更に「水道方式」風にタイルを並べて数える方法では、3☓4でも4☓3でも、どちらでも良いことになってしまう。更に、「3.9+5.1=9.0」は減点する、という指導も話題になった。有効数字の概念は高校生でも曖昧なので、なぜ小学生にこんな(しかも間違った)指導をするのか理解に苦しむ。最近では、筆算の割り算の罫線を手書きにしたら、160題すべて書き直しを命じられた、という話もあった。茂木健一郎氏等がこれらの「奇習」を「子供たちへの虐待」として批判していることはよく知られている。本当にこんな事をやっているから、算数・数学嫌いを生んでいることに早く気づいて(というか変な呪縛から目覚めて)ほしいものである。子供たちから自由な発想を奪い、ただひたすら「教えたとおりにやれ」と恫喝しているわけである。一方批判に対しては、「キチンと定規を使って罫線を引いている児童の方が成績が良い」という反論があるようであるが、これは全くマトモな反論になっていないことに留意すべきであろう。「定規を使う」⇒「成績が良い」と、「成績が良い」⇒「定規を使う」が論理的につながらない(逆命題である)ことに気づいていないのだろうか?だから「本当に馬鹿」と揶揄されてしまうのだ! もっとも、小林秀雄もここらへんはかなりいい加減だったので、論理に疎いということは国民病なのかもしれない。

 

問題の背景

 

 基本的には教育界の能力低下はかなり前から進行していて、自分の頭で物事を考えられない先生が増加し、やがて管理職や行政にまで(最終的には政治家たちにも)蔓延していったのだと考えられる。そこで、自分で考えられないとどうなるか。

 

 ① 外部の権威を絶対視する

   一番ありがちなのは、

 

   文科省が「参考」として流す情報 ⇒ 教科書会社が過度に忖度

   ⇒ 現場が絶対視

 

  という現象である。先程の漢字指導がその一例である。

   もう一つの権威は「TOSS」の存在である。TOSSとは向山洋一を教祖とする会

  員1万名を擁する教育団体(むしろ最近は宗教団体と呼ぶべき)のこと。1985年

  に出版された「授業の腕を上げる法則」については本当に感心したことを覚えて

  いるが、向山氏が著名になるに従って彼を絶対視し、一切の批判を許さない傾向

  が出てきたという。向山氏自身の疑似科学(つまりオカルト)好きの傾向や批判

  の多い「二分の一成人式」等もここらへんが出処らしい。最近の小学校における

  特異な(はっきり言えばオカシナ)指導の源はここらへんを疑ったほうが良い。

  もちろんTOSSの研究成果には参考になることも多いことは承知しているが、問

  題なのは一般の先生の「批判的に受容する能力」の欠如なのである。

   ドラッカーはかつて「元々しなくても良いものを効率よく行うことほど無駄な

  ことはない」と喝破したが、このことを盛んに行っているのが残念ながらTOSS

  である、と思う次第である。今後の動向に注意が必要である。

   

 ② 形だけ真似して背景を無視する傾向

   アクティブ・ラーニングがその好例である。文科省も以前から「それは学びじ

  ゃなくて遊びだ」と言っていたのだが、教育委員会レベルでもキチンと理解する

  者がいないまま、現場が暴走してしまったのだ。以前教育庁が校内研修用にアク

  ティブ・ラーニングのDVDを送付してきたのだが、見ているうちに「散々批判さ

  れていることが分かっていない」と憤慨したことがある。

   また、私は小学校の研究授業を見る機会が多かったのだが、その都度「これは

  何の授業なのだろうか?」と疑問に思ったものである。「関心・意欲・態度」を

  過度に重視するあまり、「何を学んだのか」が軽視されてしまい、その結果すべ

  ての授業が、まるで「道徳の授業」と化していたのだ。その後の中教審のアクテ

  ィブ・ラーニング批判も、誠にもっともなことである、と思うのだ。

 

国策としての「考えない国民」の育成

 

 学園紛争の対策(反省)として「考えない国民」の育成が行われてきたというような主張がある。愚民化政策、という。部活動(スポーツ)の振興もこの文脈で理解できる。しかし、流石にこのままでは「国力の大幅な低下が避けられない」とする危機感が生まれてきたようである。そこで、慌てて思考力重視に方向転換するのだが、急に言われても指導する側がそもそも「考えたことがない」ので、今現在は混乱の只中にある、という状況である。これまで、盛んにセンター試験批判を行っていたのに、大学入試改革が目前に迫ると、全く逆の事を言い始める人が増えてくる。「変われ」と言われても、「何をしたら良いのかわからない」のだ。「変われ」と言っている方にも相当無理、というかデタラメがある(特に英語に関して)ことは承知しているが、これまで皆が本気で教育のこと(子供たちの未来のこと)を考えてこなかったツケでもある、と思う次第である。

 

教育全体の課題

 

 以前ブラジルの数学の教科書を見る機会があったのだが、思いがけずレベルが高いので驚いたことがある。何かというと、我が国ではマトモに教えなくなってしまった「記号論理学」を系統的に載せているからだった。これは極めて重要なことだと思う。国策として論理的思考力を重視するのか、「難しいから」排除するのか、の違いは大きい。若い数学の先生たちと話していると、彼等が「論理」をよく分かっていないと驚くことが多かった。例えば「対偶」と「背理法」は同じなのか、異なるのか、異なるとしたら何がどう異なるのか、実は教科書も曖昧な書き方しかしていない。教科書でも「背理法」と称して、実質的に「対偶」を用いた証明も多い。キチンと解説していないので、区別して書きようがないことが原因の一つ、そして教師自身もキチンと学ぶ機会がなかったことがもう一つの原因である。

 また、大学における教養科目の軽視が、文系学生から科学的リテラシーを奪う原因になっている。大学生の時に強制的に学ばなければ、おそらく一生触れる機会は無いものと思われる。我が国民の「卒業後は全く学ばなくなる」という傾向は世界の中でも顕著であるらしい。その中でも特に教師は「本を読まない」と言われている。科学的リテラシーが育たないこともある面では仕方ないことなのかもしれない。

 

「考えない事が推奨される」教員の誕生

 

 かくして教師も指導する行政も「何も考えない」ようになってしまったのだ。なまじ考えて「これは変じゃないですか」とでも言おうものなら、「問題教師」と見られかねない状況も実際あったのである。でも、そろそろ変化しても良い頃ではないだろうか。一番影響を受けるのは生徒たちなのだから。このまま「何も考えない」生徒を量産して良いとは全く思えないではないか。だから生徒たちに「考えろ」と言う前に、教師自らが「どうすれば考えたことになるのか」と自戒すること、そしてそのために真摯に学ぶ姿勢が大切である、と思うのだ。更に本音を言えば、彼等を指導する管理職や行政にこそ真っ先にマトモになってほしいと願う次第である。