最近は「地頭」という言葉を目にすることが多くなった。先日も「上位大学」に着目するのではなく、「上位高校」に着目するほうが優秀な人材を確保できる、と主張する記事を目にした。その方が地頭の良い人材である可能性が高いということなのだが、その背景には現今の大学入試の中でAOや推薦の占める割合が増加していることがある。確かに生徒を送り込む立場だったものから言わせると、チャレンジしようとしない生徒がAOや推薦を希望することが多かったので、一応は頷ける話である。しかし、知り合いの「私立有名付属校」に勤務する先生曰く、「高校に入って安心しきってしまい、全く勉強しなくなってしまう」とのことなので、高校の名前で判断するのもどうだかな、と思う次第である。勉強しなければ、頭が柔軟な時期を無駄に過ごすことになるので、生徒にとって誠に不幸なことでは無いだろうか。

 さて、このブログの最終的な目標は「普通の生徒がどうしたら地頭を育成できるか」ということであった。今回は「実践編」として「考える」作業の基礎としての「ノート作り」について考えていきたい。

 

生徒は「考える」ことが苦手である

 

 某大学の授業アンケートに興味深いものがある。学生にとって、①どんな講義が優れていると思うか、②どんな講義を受けたいと思うか、という質問に対する回答なのだが、

 

 ① ⇒ 学生どうし、或いは教授との対話を通した双方向型の講義

 ② ⇒ 教授の話を聞くだけの、従来型の講義

 

が大多数の学生の考えであったそうな。何が必要なのかは分かっているが、自分はそんな面倒なことはしたくない、というふうに解釈できる。

 高校でも最近は生徒どうしの話し合いを授業に取り入れる事が多くなったが、よく見ていると「何もやらないで積極的な生徒に『タダ乗り』している」だけの生徒が多いことに気づく。普段から「考える」ことを意識していない生徒の場合、「考える」ことが苦痛になるようである。また、生徒から「わかり易い」と評判の授業も、廊下から見ていると「難しいところは教師が生徒に変わって『考えている』だけ」のようである。だから、「わかり易い」から「出来た!」にはなかなか進めないのだ。一方生徒に極力自分で考えさせる授業は評判が悪いこともあって、なかなか難しいものだと思ったものである。そういう意味で「厳しい」教師と以前一緒になったことがあって、彼(または彼女)は生徒に対して一切の妥協を許さないために(時々0時間目の授業もやっていた)、散々苦情が(教育委員会経由も含む)来てしまい、その教師を擁護するために苦労したことがある。しかし、その教師の授業を受けた生徒たちは学年進行と同時に、特に論理的思考力や表現力が高くなり、更には3年になるとその教師のシンパがかなりの数に上る様になったのである。信念のない教師には難しい話である。つまり、「人気がある」≠「信頼されている」のである。

 

ノートの役割を見直す

 

 生徒に対して「考えろ」と言っても、当の生徒にとっては何をどうすれば良いのか大変な難問なのだ。教師はこの事が分かっていないので、自分の指示の出し方に問題があることに気づいていないことがほとんどである。だから「考えろ」という代わりに、結果的に「考える」ことに繋がる手段を提示するのが良いのだ。その手段としてノートの役割、作り方を再考してはどうだろうか。

 従来のノートのとり方は、基本的に板書をそのまま写すだけの「写経」である。

 

 情報A ⇒ 情報A

 

そこにはなんら「考える」要素は含まれていない。また、そこが従来の授業形態の根本的な問題であったのだ。そこで、ノート作成を通じて

 

 情報A ⇒ 情報A' ⇒ 情報A" ⇒ ・・・

 

のように出来たら、情報を自分自身が使える形に変換する作業を行ったことになり、すなわち「考えた」ということになる。この積み重ねの習慣を大事にしたいのだ。

 では、どうしたらA'、A"のように情報を変化させることが出来るのか。一つ考えられるのは、形式を変換することである。

 

 (1)文章 ⇒ 図式化(フローチャートやマインド・マップ等)、リスト化

    一般向けの新書の類いはこれをやるとA4一枚に纏まってしまう程度の情報

   量しか無いことが多い。

 (2)文章 ⇒ 要約

    「考える」作業の根幹は、この要約するという作業であると思う。以前国語

   の先生方に、授業に要約トレーニングを入れてほしい、とお願いしたところ

   「面倒なので無理」と断られたことがある。

 (3)図表 ⇒ 文章化

    グラフの特徴を文章化する作業は、中高一貫校の適性検査の頻出問題。読み

   取れなければ文章化は出来ない。

 

 これらは、どちらかと言えば自分で基本書に取り組む時、つまり独学向けの方法である。一方、授業ノートを前提にする場合は、

 

 (4)自分の意見(予習が前提)と授業の解説との対比

    自分で調べてきたこと、解いた解答例と、教師の説明の異同を明らかにする

   こと。その意味で予習が大切であることが分かる。

 (5)情報の補完

    わからないこと、疑問に思ったことを聞いたり、調べたりする。いわば「自

   分だけのテキスト」を作るようなものである。

 

というようなことが考えられる。

 

使える形に整える

 

 上記の作業は、ノートを作る前提としての情報の質を高める作業であった。したがって、ここまでは「自分だけが判読できれば良い」。綺麗に書く必要は、まったくない。書くものはコピー用紙でも何でも良い。私は常にA6版の小さなノートを持ち歩き、気になったことを常に書き留めておくことにしていたが、かなり有効であったと思っている。

 しかし後々有効活用することを考えると、キチンとした形に整理しておくべきだ。情報がしっかりと整理されていれば、量的にはそんなに膨大にはなっていないはずである。そこで、ノートでは無いが「情報カード」という手もある。「京大式カード」等と呼ばれているもので、今の若い人たちはあまり知らないようであるが、十分役に立つものである。A6版にまとめる、裏表で使い方を区別する、ということが情報を如何に整理するか、ということと結びついているので、上記の目的にも叶っているわけである。これは記憶する際にもかなり有効である。まとめると、

 

  本を読む、授業でノートをとる ⇒ 情報の質を高める作業

  ⇒ 自分の「ノート」にまとめる

 

という一巡の流れを習慣化させて欲しいわけである。大抵の人は最初の段階で終わっているが、第2段、第3段の手間が、頭の中のネットワーク形成に一役買うことになるのである。つまり、他の人に大きな差をつけることになるのだ。

 

手書きに拘ろう

 

 以前司法試験の予備校として有名な伊藤塾の伊藤真氏に何度か講演していただいたことがある。護憲運動等で有名な方なので御存知の方もおいでかもしれない。蛇足だが、憎らしいほどハンサムな方でもある。さて、講演の中で「資格試験合格のために最も大事なことは何か」と生徒たちに問う場面があった。みなさんは何だと思いますか? 正解は、「指定時間内に解答を書ききること」であった。どういう事かと言うと、試験時間の中で、正解を考え、さらに千字〜2千字の解答を書けますか、ということだ。氏に言わせると、これはまことに至難の業であるらしい。普段便利になったおかげで、早く文章を書く能力が急速に失われているらしいのだ。今後記述式の問題が多くなっていくであろう大学入試でも事は全く同じなのだ。今一度「手で書く」というアナログの世界の価値を再認識すべきであると思う次第である。個人的にも、手書きとパソコン入力を比較すると、手書きのほうが記憶に残っているようである。

 

色の使い方

 

 生徒のノートを見ているとまことにカラフルである。マーカーで塗りつぶして、逆に色を付けていないところを探すほうが簡単である。しかし、これは実はかなり問題がある方法なのだ。以前津川博義氏の「世界一やさしい『超』記憶法」(PHP研究所)を読んでいて、これもユニークだが記憶の本質をついた方法で感心した事がある。最近も「2時間で200語の単語スペルを覚えてもらう」特別講演会なるものも開催しているようである。この「つがわ式」という暗記法のキモは、覚えたいものの一部にマーキングする、というものなのだ。例えば「薔薇」という漢字をどう覚えるか? 例えば「薔」という字なら、その中の構成要素としてどこか一部、例えば「人」が2箇所出てくるので、その一つを赤ペンで○する、というものなのだ。やってみるとこれだけで記憶されていることが分かって、痛快な感じがする。基本的考えは「人間は一度見たものは覚えている。しかし、思い出すには『きっかけ』が必要なのだ」という考えである。渡辺氏や友寄氏の方法とも相通じるものがある。

 さて、ノートの話であった。つがわ式の考えによると、実は「どこにマークするか」ということが重要であることに気づく。マークした部分を手がかりにして、その周辺部分まで記憶を探っていくようにしたいのだ。この「どこにマークするか」も、実は深謀遠慮が必要な作業であることが分かる。こんなことも、意識して行うことが「考える」ことに繋がってくる。出来る生徒はおそらくこんな事を無意識のうちにやっているに違いない!