英語民間試験の延期が決まったが、実はもっと大きな問題が国語・数学の(特に国語かな?)「記述式問題」であることは御存知だろうか? 今回は記述式の採点に関わる問題について考えてみたい。

 

 私は校長時代、大きな採点ミス事件に関わったことがある。某校で見つかった採点ミスを受けて、全校に採点の見直しが命じられたことが事件の発端である。その結果多くの学校でミスが発覚し、更に年度をさかのぼって調査する事態になったのだ。その結果合否が逆転するケースも多く発覚したのが事件の全体像である。その後どうなったのかというと、

 

 ☆ ミスを隠している学校がある、と言う疑いが浮上

   ※ 私のところでも、副校長が「どうします、 報告しますか?」と聞いてきたの

    で、その誘惑に負けなくてよかったと思っている。

 ☆ そこで、指導主事や校長が集まって全答案を再度点検 ⇒ 更にミスが発覚

 

となったのだ。その時指摘された原因は、

 

 ① 授業時間確保 ⇒ 授業と並行して採点

   ⇒ 記述式の採点基準が全員に周知されない ⇒ 異なる基準が生じる

 ② 最初の答案と最後の答案とでは、基準にブレが生じる

 ③ 人が変われば採点基準の解釈が違ってくる

 ④ 点検をしているつもりでも、他人のやったことを無意識のうちに信じてしまう

 

というようなことであった。①に関しては、あまりにも授業時間確保の指導が強くなり、採点業務がタイトになったことを受けて、「これではミスが出てくる」と警鐘を鳴らしていた校長も多数いたことは述べておきたい。それを無視した結果が事件の大きな要因だったのだが、その当事者、つまり教育庁担当者は何一つ責任を問われることはなかった、と記憶している。責任はすべて末端であるのはどの世界も同じか?

 その翌年の採点方法について述べておきたい。当然生徒は休ませて採点に集中できる環境になったことは言うまでもない。しかし、問題は記述式の採点基準を教育庁が厳格に決めてきたことである。学校の判断に委ねるのではなく、「基準通りに厳格に採点しろ」ということだ。一見当たり前のようだが、実はこれが大問題になるのだ。どういうことかと言うと、例えば

 

 どう見ても間違った解答 ⇒ 部分点に該当箇所あり ⇒ 5点

 全体的には正しい解答  ⇒ 部分点に該当箇所なし ⇒ 0点

 

ということが頻発したのだ。問い合わせても、「基準通りやってください」との回答で、誰もが「何か根本的に間違っている」と思いつつ採点を行ったのだ。現在は新システムで採点が行われているが、受験生はこちらが思いもよらないような「正解」を出してくることがあるので、課題は変わらないと思う。因みに単に採点しているのではなく、採点⇒2回点検、得点集計⇒2回点検、までやっているのだが、それでもミスは根絶できない。

 

 さて共通テストの記述式である。聞くところによると膨大な答案(50万人分)を採点するのに、学生バイトも動員するらしい。本当に公平に、正確な採点が出来ると思っているなら、相当にオメデタイ頭だと思うしか無いのだ。

 まず採点途中、自分で判断できないことが頻発する。このとき、リアルタイムで採点者全員に指示がなされないと、異なる採点基準が平行して進行することになる。また、その後派生的に「ではこの場合は?」と次々と疑問が出てきて、その都度採点をストップさせなければならなくなる。さらに、すでに採点済みのものを再度見直す必要が出てくる。それでも先程のような疑問が次々出てくるのだ。これを50万人分やることが果たして出来るのか、と言う問題だ。個別の学校では、各教科400人分程度の採点ですら四苦八苦しているのに、である。

 また、その都度疑問を話し合って適否を決めたとしても、その結果に納得できないことも多い。私自身も昨年まで採点業務を行ってきたが、全体で決めた基準についても内心、「お前ら馬鹿じゃないか?」と思うこともあった。個人の持っているバックボーンの違いである。私は数学が専門なので、全く正しい記述の仕方をしていると判断しても、例えば社会科の人達が「通常そういう書き方はしない」と判断したとき、多数決で社会科の意見を採用することになる、というようなことだ。当然私としては納得できないまま採点することになる。このことが及ぼす影響は決して小さくはない。

 そう考えると、従来のセンター試験の方法が最も公平かつ厳密である、ということになる。改革の必要性は誰よりも強く感じるが(特にSTEM教育の拡充)、改革すべきは試験の方法ではなく、教育の中身そのものであることを忘れてはならないと思う。一部の「有識者」の妄言にこれ以上付き合っていてはならないのだ。