大学入試改革、特に英語の民間試験導入に対する反対の声が高まっているようである。これに関しては誠に正当な批判であると思うものの、やや遅きに失した感があるように思う。というのも、大学入試改革についてこれまでの流れを概観すると、

 2014年 中教審答申(「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校

           教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」)
 2017年 大学入学共通テスト実施方針
 2018年 大学入学共通テスト実施方針(追加分)
 2019年 ガイドラインの策定

とかなり前から議論の大筋は見えていたのである。さらに、中教審答申以前にも、審議の経緯は各都道府県の校長会で逐次報告されてきたので、「何が論点なのか」、「これからどう変えていく必要があるのか」等についてはすべての校長が理解していたはずである。私は答申の翌年に退職になったのだが、その2年前から改革に対応すべく新たな取組をいくつか立ち上げ次の校長に引き継いできた。しかし、その後漏れ聞こえたところでは、その校長は「面倒なことを押し付けやがって」と言って、全てひっくり返したそうである。つまり、何もしないことにした、ということになる。
 さて、先日(10/2)の朝日新聞の記事で、2020年度から始まる大学入試改革に対する高校側の準備状況に対する(河合塾と合同の)調査結果が載っていたので、既に目にした方も多いのでは無いかと思う。その結果の一部を抜粋すると、

 (生徒に十分指導できているか:数値は%) 
               十分出来ている    今後する必要がある    難しい
英語(民間試験)  16                  58                      17
数学(記述式)     23                  54                      15
国語(記述式)     15                  62                      14

 この結果をどう見るかだが、その前に「誰が回答したのか」が気になるのだ。たいていの場合、この種の調査が来ると副校長・教頭あたりが対応して、その際自分で回答するか進路部に回すかすることになる。そうすると、特に進学校の場合学校の体面があるので「対応できていない」と回答するのは甚だまずいことになる(今回は河合塾に知られることはヤバいと考える)。そう考えると、この結果は実際の対応状況では無く、進学校、中堅校、困難校の割合に大体比例しているのでは無いかと思う。そこで、先ほどの調査に対する回答者の本音は、実のところ

 「十分出来ている」 ⇒ 進学校:「すでにやっている」または「今後やる」
 「今後する必要がある」 ⇒ 中堅校:「まだ何もやっていない」
 「難しい」 ⇒ 困難校:「何をやっても無理」

ということになるのではないだろうか。また数学と国語の差は、一般に国語指導の難しさ(俗に「やってもやらなくても同じ」)を反映しているものと思われる。

 さて、私の感想は「高校側が少し無責任ではないのか」ということなのだ。先程述べたように、改革の方向性が示されてから既に長い年月が経過している。該当年度の生徒が入学してからも2年近くが経過している。なのになぜ今までもっと真剣に考えてこなかったのだろうか。目前に迫って初めて「大変なことになっている」と今頃騒ぎ出しているようにも見えるのだ。実際以前勤務していたところでは、「どのような出題になるか大学側の出方を見ないと何も出来ない」と言って対応を先延ばしにしてきた経緯がある。「考えられる手は打っているが、かなり心配はある」というのなら十分に理解できる。しかし、現状では「手は打たない」が「心配だけはしている」というのと同じではないかと思うのだ。

 これまで何度か述べてきたとおり、入試がどう変わろうとも(或いは入試改革の方向性に問題があっても)高校は変わらなければならないと思うのだ。入試改革の本質も(現状では業者に対する利益誘導の側面があるが)、高校に対して「変化せよ」とのメッセージに他ならない。各校の校長にそのメッセージを読み取るだけの想像力があったのか、という事が気になるのだ。
 例えば、生徒が聞いているかどうかなどは無関係な授業、新しい価値観とは無関係な千秋一日の如き授業、穴埋め教材やパワポによる教師にとって楽な授業等々、反省すべき点は山積している。それらの反省を抜きにして、つまり自らの不作為を棚に上げて被害者ヅラをしているようにしか思えないのだ。

 以前全国の進学校の状況に詳しい方と話をしたとき、その方は「一体いつの時代の授業なのだと感じる授業ばかり」と言っていた。確かに〈昨日まで〉の我が国の教育は一定の成果を上げてきたことは事実であると思う。それは、全体としての均質なレベルの維持、という側面においてである。だから彼等は〈昨日までの専門家〉である。しかし、個人の思考力・判断力・創造力が求められるであろう〈明日からの教育〉においては、既に諸外国に対して周回遅れになっていることを認めるべきだと思うのだ。世界標準との乖離が激しく、文字通り「世界を相手に戦えない」生徒を排出している状況なのだ。

 旅順要塞攻略に際して児玉源太郎の言った、

 「諸君はきのうの専門家であるかもしれん。しかしあすの専門家ではない」

という言葉が浮かんできたのである。様々検討し、実践した結果旧来の方法に戻る、ということは当然ありえることである。例えば批判の多い"英語の訳読式の授業"は、生徒の思考力を育てるという観点からはもう少し見直しても良いのではないかと思っている。しかし、何もしないで単に反対というだけでは生徒に対して失礼ではないか、と思う次第である。

 

【追記】R1.11.4

 

 英語民間試験の延期がきまり、政治や行政の劣化にため息しか出ない次第である。実施の延期に関しては当然と思うものの、真面目に準備してきた人達が馬鹿を見た、と言う意味では何重にも罪深い失政であったと思うのだ。それは、

 

 全国高等学校長協会 ⇒ 抜本的に見直すべき

 日本私立中学高等学校連合会 ⇒ 準備を進めてきた高校と生徒が気の毒

 

にあらわれている。もし校長が経営者の視点を持っていれば、むしろチャンス到来と思ったかもしれない。また予備校や私学にとっては千載一遇のチャンス、と考えていたことだろう。私立はしっかり準備してきたのに対して、公立高は「な~んにもしてこなかった」ことが露呈してしまったようにも思うのだ。ほとんどの公立高では「正確な情報がないので身動きできない」というスタンスであった。つまり、「上から(文科省や教育委員会)何か言ってくるまでは、何もしません」ということだった。そこでじっと待っていたのだが、何も言ってこないので流石に不安になった、ということが騒動の背景なのだ。更に質が悪いのは実際に受験する側の生徒に対しても何ら有意義なメッセージを発信できなかったことなのだ。まともな高校なら「私達を信じて頑張ってくれれば大丈夫」と言えたはずである。しかし私の知る範囲(ということは公立高)では、まるで他人事のように「まだ何もわからない」と逆に不安を煽るような指導しか出来なかったことも事実である。その意味では、今回の決定は手放しで喜ぶことは出来ないのだ。個人的には公立高の不甲斐なさがあぶり出されたものと考えている。

 

 さて、話は変わるが先日ネットのニュースを見ていたら、

 

 『「鉄拳」を知らない人でもわかる! パキスタン勢が異次元に強い理由』

 

という記事を目にした。何のことかと思って読んでみると、格闘ゲームに「鉄拳」というものがあって(昔「バーチャファイター」ならやったことがあるけど、それと関係があるらしい)、その世界大会(最近話題のeスポーツですね)で無名のパキスタン人選手が圧倒的な強さで優勝、準優勝を飾った、という記事だった。しかも優勝者は母国でのランキングが17位ということも話題であった。日本での開催なので当然日本人の優勝が期待されていたのだが、「話にならないぐらい」の力の差があったというのだ。通常選手達はネットを通じた対戦で練習するわけだが、パキスタンではそんな事は出来るはずもなく、所謂ゲーセンに出向きその都度金を払って直に対戦するしか無いわけだ。一見圧倒的に不利と思われる環境が、実は彼等パキスタン人選手の強さの源泉になっている、というようなことが書かれていたのだ。

 この記事を読んで、私は吉川英治の「宮本武蔵」にも同じような記述があったことを思い出した。確か吉岡一門との決闘のあたりではなかったかと思うのだが、読み返してみてもまだ見つからないのは、私の勘違いだろうか? いずれにしても、人知れず鍛錬した「井の中の蛙」が、自分たちが一番と慢心する「大海の魚達」を遥かに凌駕してしまった、というような話だったと思うのだが・・・。

 

 さて、なぜこの記事に着目したのかと言えば、今回の英語民間試験を巡るある議論に関係するからなのだ。それは、地方の受験生等の問題に関してである。今回の騒動は、

 

 地方の受験環境の不備 ⇒ 都会の生徒、裕福な家庭が有利

 ⇒ 羽生田「身の丈で」 ⇒ 炎上

 

というような流れであった。彼等が環境的に不利であることは確かであり、民間試験が延期されても問題の本質は何も解決していないことになる。その意味では「井の中の蛙」のままなのだが、私が思うことは、その蛙が「大海の魚達」を驚かすようなことはできないのだろうか、ということなのだ。その意味で指導する側の覚悟と想像力を問いたいと思うのだ。

 東京のある私学はオーストラリアの学校と姉妹校になり、生徒たちが毎日リアルタイムでネットを介した交流を行っている(つまり英会話が日常の中に根付いている)、という。学校や教育委員会に要望したいのは、環境が恵まれていないと考えるなら、なにか打つ手はありませんか、ということだ。もしそれが望めない場合でも、生徒自身が学校に頼らず、自分で出来ることはあるんじゃないか、とも思う。昔に比べ、今は選択肢が多く準備されている。無料なところではNHK(実はかなりオススメ!)の英語講座、さらに有料ではネット上でいくらでも探せる時代である。

 更に試験の練習については、英検もGTECも学校を会場として実施できるので、これは学校の判断次第である。また、実際の試験(2回ある)のために遠くまで行く場合の交通費や宿泊費については、自治体がどれだけ補助できるか、と言う話になる。これについては、相応の予算措置をする以外無いのだが、当然見直しはされることと思う。

 なんとなく英語民間試験については今後どうなるのか全くわからなくなってきたが、高校教育の見直しまで不要になったわけではない。どこかで大きな改革をしないといけないことはわかっている。しかし何がどう変わろうとも、地方の生徒諸君にとっては、周りから見れば「井の中の蛙」でも、実はモンスターなんだぜ、と言って都会の生徒たちを馬鹿にするぐらいになってほしいものである。