2023京大 第二問『数学する身体』森田真生

 

A:全体概観・問の骨格

 

数学者岡潔の「第三の発見」は、自己の深い変容の結果、数学的風景の相貌が一変したという経験をもとになされたものである。自然の総体の把握における数学的計算の限界や、芭蕉の俳句が芭蕉が生きて得た境地に基づく身体的認知であった説明を加え、数学的認知もまた記号的計算だけでなく、身体を介した非記号的な認知によって行われていることをかんがえれば、数学研究はその精度を上げるための自己研究そのものだと言えるとまとめられている。

 

B:Cの解答例接続による全体要約

 

(一)数学者岡潔が発見した概念は、閃きでも計算や証明などの数学的方法に依るものでもなく、地道に重ねられた自己変容が新たな視野をもたらすことで、わかったという心の状態を導いたものであった。(二)目的に沿ってその一部を切り取ることでしか成立し得ない数学的計算では、自然現象の全体像は到底算出できないのに対し、自然はその複雑な現象の総体を易々と効率的に導出している。(三)人間の認知は、環境と交差する身体によって非記号的になされる瞬間的な営みであり、数学的思考もまた記号化された計算だけに依拠するものではなく身体のレベルで行われていると考えられる。(四)芭蕉の句はありのままの生きた自然を身体化された思考過程で即座に捉えたものだが、それは芭蕉自身が積み上げた生が実現した自他や時空の区別を超えた境地によってなされたものである。(五)数学研究は、記号的計算だけでなく、対象と交差する身体を介した非記号で瞬間的な認知に依拠するものであることを考えれば、身体的思考過程の精度をあげるために地道に自己変容を遂げる自己研究そのものと言える。

 

C:各設問メモ

 

設問一

「情操型の発見」(傍線部(1))はどういうことか、説明せよ。(三行)

 

解答例数学者岡潔が発見した概念は、閃きでも計算や証明などの数学的方法に依るものでもなく、地道に重ねられた自己変容が新たな視野をもたらすことで、わかったという心の状態を導いたものであったということ。

■解答メモ

・傍線部「情操型の発見」自体はわかりにくいが、対立を考えると「知的理解」ということになる。文脈的に言えば「自己変容の過程」というおよそ数学的でない発見である。

・骨格は「自己変容の過程そのもの」→「数学的風景の相貌の一変」→「わかったという心の状態」となるが、「数学的風景の相貌」をそのまま用いること、「わかったという心の状態」を例えば「理解」と置き換えることにやや迷う。

・対立されている「計算・証明(それまでの数学的方法)ではなく自己変容の過程」「インスピレーションではなく地道な積み上げ」の対立を拾う。

 

設問二

「これはいかにも不思議である」のように岡潔が感じたのはなぜか、説明せよ。(三行)

 

解答例目的に沿ってその一部を切り取ることでしか成立し得ない数学的計算では、自然現象の全体像は到底算出できないのに対し、自然はその複雑な現象の総体を易々と効率的に導出しているから。

■解答メモ

・解答の骨格は「自然現象の総体:計算→算出不能・自然→容易に導出」という対立を押さえる形になる。「導出」は「」が付けられていて解答文に使うか迷うが、置き換えるうまい言葉が見つからない。計算を「算出」とすることでニュアンスの違いを書いてみたが。

・この骨格の対立に、「自然=総体」・「計算=部分」というもう一つの対立を加えたい。

 

設問三

「この例外ではない」はどういうことか、説明せよ。(三行)

 

解答例人間の認知は、環境と交差する身体によって非記号的になされる瞬間的な営みであり、数学的思考もまた記号化された計算だけに依拠するものではなく身体のレベルで行われていると考えられるということ。

■解答メモ

・傍線部はその直前まで含めると「数学的思考法もこの例外ではない」とあるので、そこに「これ」の内容を収めれば解答の骨格になる。

・「これ」に相当するのは、人間の認知が「身体と環境の間を行き交うプロセス」「判断や行為が瞬時になされる」「身体化された非記号的な認知の成せる業」であり、数学的思考も同様に、「記号化された計算」だけでなく、「身体のレベルで行われているのではないか」と筆者は言うのである。

 

設問四

ほろほろと山吹散るか滝の音」のような句はどのようにしてできたと考えられているか説明せよ。(三行)

 

解答例:芭蕉の句はありのままの生きた自然を身体化された思考過程で即座に捉えたものだが、それは芭蕉自身が積み上げた生が実現した自他や時空の区別を超えた境地によってなされたものである。

■解答メモ

・芭蕉の句については「無障害の生きた自然を流れる速い意識を手早くとらえて(無障害のまま流れ込み)識域下に正確な像を結んだ」とあり、それは「彼の境地が自他の別・時空の框を超えていたからだ」「芭蕉の境地において、芭蕉の生涯が生きられることによってのみ導出可能な何かである」とされている。整理すれば、「芭蕉の句=自然のありのままの姿が身体に流入して結実=それは「自他の別」「時空の框」を超えた境地・芭蕉の生涯が生きられることで」できたということである。

 

設問五

「数学研究が即ち自己研究なのである」はどういうことか、本文全体を踏まえて説明せよ。(四行)

 

解答例数学研究は、記号的計算だけでなく、対象と交差する身体を介した非記号で瞬間的な認知に依拠するものであることを考えれば、身体的思考過程の精度をあげるために地道に自己変容を遂げる自己研究そのものと言えるということ。

■解答メモ

・「数学カラ自己研究ニ入ツタ」「数学研究を捨てて自己研究に移るのではない」が若干気になるが、基本的には「数学研究」は「自己研究」そのものであることを全体を通して説明する。

・骨格は「数学研究=記号的計算+身体的非記号的認知→身体的思考過程の精度を上げる(自己変容)必要=自己研究」ということになる。