空を飛ぶ土竜  安田屋旅館は明治20年創業の老舗旅館。静岡県沼津市内浦三津にあります。国道414号をひたすら下り、淡島マリンパークを過ぎた三津シーパラダイスのすぐ近くです。

 太宰治は昭和22年、この旅館に滞在し、『斜陽』を書き始めています。「文芸読本 太宰治」(河出書房新社)の年譜が分かりやすいので、引用します。


2月21日、神奈川県足柄下郡下曽我村の大雄山荘に太田静子を訪ねて滞在。その間静子と病臥中の尾崎一雄を見舞った。26日、静子に見送られて大雄山荘から田中英光の疎開していた伊豆の三津浜に向かう。静岡県田方郡内浦村三津の安田屋旅館に止宿。静子から借りた日記をもとに、三月上旬までかかって『斜陽』の一、二章を書いた。


 太田静子の日記とありますが、太宰は太田静子宛てに次のような書簡(昭和22年1月)を出しています。


 二月二十日ごろにそちらへお伺いいたします。そちらで二、三日あそんで、それから伊豆長岡温泉へ行き、二、三週間滞在して、あなたの日記からヒントを得た長編を書きはじめるつもりでおります。最も美(かな)しい記念の小説を書くつもりです。


 したがって小説のモデルは太田静子であり、また、この小説の舞台となっている「ちょっと支那ふうの山荘」は太田静子の下曽我の家を三津浜の背後の峠にあるように描いたもののようです。


 『斜陽』の概要をまとめてみました。

 終戦の昭和20年。没落貴族となったかず子とその母は、家を売り伊豆で暮らすことになります。戦地に赴いたまま行方不明になっていた弟の直治が帰ってきますが、放埓な生活を重ね、東京の小説家、上原二郎の元に入り浸り、荒んだ生活を送っています。そんな中で、結核で日々弱っていた母は結核で亡くなってしまいます。悲しみにくれながらも、かず子は上原への「恋」に向かい、逢瀬を遂げます。しかし、そのかず子の留守に乗じて、苦悩に満ちた遺書を残し、直治は自殺。やがて、かず子は上原の子を妊娠しますが、上原は自分から離れて行きます。しかし、かず子はやがて生まれてくる子と強く生きていく決意を上原への手紙にしたためるという小説です。

(『斜陽』の本文は青空文庫で読むことができます。http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person35.html


『斜陽』は貴族の没落を描いた作品で、前半はほとんど太田静子の日記をそのまま書き写しています。頽廃的な空気を感じさせながら、逃れられない深みに陥っていく人間の姿は太宰と重なり、むしろ、かず子が生きる意味を発見し、強く生きていこうとするラストに、むしろ僕は違和感を抱いてみたりもしました。

 この小説は昭和22年の新潮7月号から10月号に連載され、年末に新潮社によって単行本化されています。



以下は安田屋旅館の写真。


空を飛ぶ土竜  

旅館前庭に『斜陽』の一節を刻んだ碑があります。平成13年建立。

「海は、かうしてお座敷に坐ってゐるとちやうど私のお乳のさきに 水平線が さわるくらゐの 高さに見えた」と刻まれています。







空を飛ぶ土竜 畳の敷かれた廊下。

大正期につくられた螺旋状の階段。

空を飛ぶ土竜  

空を飛ぶ土竜  

 太宰の逗留していた部屋は「松の弐」(現月見草)。そこから海をのぞんでみます。左写真、中央上部に海に浮かぶ空を飛ぶ土竜 のが淡島。その対岸との間にきれいに晴れていれば富士が見えます。
 政治家尾崎行雄はこれを以て、ここを「対岳楼」と名付けたと言います。


 太宰の執筆したこの部屋は解放されていて、空いていれば宿泊することができます。

 日帰り入浴(800円)で、運よく空を飛ぶ土竜 部屋が空いていれば、見学することもできます。僕も日帰り入浴で2回、立ち寄りました。内湯と露天風呂。小さいながらも温まる温泉でした。


 安田屋旅館では太宰を偲んで、6月19日(玉川上水で入水した二人が発見された日、奇しくもそれは太宰の誕生日であった)前後の日曜日を定めて、平成元年以降、『沼津桜桃忌』が行われています。