新聞の紹介記事を読んで、この作品にいたく興味を持ちました。
特に惹かれた箇所を引用して記事に上げたところ、既に読まれた方(omさん)から、「期待すると肩すかしを食うかも」とのコメントをいただきました。
期待とは…
昨今のBLブームを当て込んでの70年ぶり文庫本化というのは否めないでしょうし、実際購買層は30~40代の女性とのことですから、やはり、「エモい」とか「萌え」ということでしょうか。
結果、おっしゃりたいことはよく分かる、でした。
「美しい彼」からはほど遠いものです。
また、男性の同性愛者の方(jimさん)からは「『同性愛』と『少年愛』は似て非なるモノ」とのお言葉もいただいていたのですが、その点についても深くなるほど、と思い知りました。
その領域に手を伸ばしだしたら、収集がつかなくなりそうなので、
ここでは
ノーベル文学賞を受賞するまでに世界的名声を博した作家、川端康成の自伝的小説といわれる「少年」を読んで、私が感じたことを書きます。
文学を専攻したわけでもなく、熱心な文学少女でもなかったので、あくまでもこの小説から受けた個人の感想であることをお断りしておきます。
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まず、読む動機になった一番の疑問というか興味は、
えっ、あの川端康成が⁉︎ でした。
存命中に全集が刊行されるくらいの国民的作家ともいえる立場にいながら、なぜわざわざ、ある意味若気の至りのような秘め事をさらけ出そうとしたのだろう、と言うことでした。
長年連れ添った配偶者もいるというのに…
"同性愛者"であるというカミングアウトではないからそれほどハードル高くないということだったのでしょうか
それにしても…
知る人ぞ知るだったにしても、
もし後年ノーベル賞を受賞することが分かっていたら、そんなことをしていただろうか、と単純に思いました。
かなりの偏見を承知の上で
こんなことを考えるのは、子どものころ美醜に過敏で、男女の恋愛でさえ、見た目が絵になるカップルしか認めようとしなかった自分の名残りかもしれません。
もちろん今はそんなことないです 笑笑
あの風貌からどうしてもイメージができないのは事実ですが…
でも、歴史が教えてくれるように、少年を愛でることは遥か昔から社会通念上限定的にでも許されていたようですから、川端にもやはり恥ずべきことという感覚はなかったのでしょう。
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で、読み始めたはいいものの、
なんと読みづらい構成。遅々としてページが進みませんでした。
50歳になった川端が過去の自分の日記や少年からの手紙、また手紙の体裁を取りながら学校に提出した作文などを、思いつくままに並べたという感じで、執筆当時と過去が地続きになったような境界の曖昧さといえば良いでしょうか。
回想にしても現在からなのか、それとも過去のある時点のものなのか、その辺が油断していると分からなくなってしまい翻弄されました。
私の集中力が足りなかったせいもあるのでしょうが…
日記や手紙などには年月日が記されているとはいうものの、通りいっぺんの読み方では断片的で流れを作りにくいし、でも案外意図的にそうしているのかも、という印象も拭えませんでした。
読み手に踏み込まれるのを拒んでいるというか…
こんな大胆なこと明かしながら、臆病な人間なのかもと思ったりしました。
清野少年に対する気持ちは、同性愛というよりはやはり少年愛ですよね。
それは確かに日記の文言からもわかります。行為は描写されているし、もちろん性愛を含めた感情を抱いていたと受け取れもするのですが、私からすれば妙に淡々としたものを感じました。
読んでいて熱い感情のほとばしりで身体が疼く(笑)というようなこともありませんでした。当然なのかもしれませんが、あの抜粋された表現の箇所に至っても妙に感覚は醒めていました。
かといって切実さにヒリヒリするということもなく…
解説者が、「川端康成の描く女には体臭がない」と書かれていました。
あ、分かるです。
文学的ではあるのですが、
どこか優等生の衣を脱ぎ捨てることができなかったのか、美少年に惹かれる川端康成は、普通の異性愛者でもそれはあるだろうくらいにしか私は感じませんでした。人よりは高い美意識を持っていて、さすが言語化能力は素晴らしいとは思うのですが…
清野少年の顔はどうも川端の美意識を満足させるものではなかったということも途中で分かります。
ではなぜそこまで川端が清野少年に惹かれたのか…
男性の少年に対して抱く感情が、女性の少年に対して抱く感情と違うのは、自己投影があることではないかと考えます。
期限付きの、汚してはならない純粋で美しいものへの憧憬は同じでも、男性は自らの男性性を確認することにもなるような気がするのです。支配にしろ思慕にしろ、いわば内に向かう自己愛の変形のような気がします。
と、これはあくまでも私の考えです
川端康成は幼くして父、母を亡くし、祖父母の元で育ちますが、やがて祖母も亡くなり、中学に入るまでは目の見えない祖父と二人暮らしでした。
今でいうヤングケアラーだったということですが、親族から愛情は注がれていたのではないでしょうか。
祖父が亡くなったことで親戚をたらい回しにされたとかもなく、ほどなくして寄宿舎に入ったようですし、伯母さんから大学の入学金なども捻出してもらっているようです。
そんな境遇であったことも大きく、性根がさもしくねじ曲がることはなかったのだと思います。
でも肝心の自分が一番ほしいものは得られなかった。内面は、いわばぷっくらと膨らんだドーナツのような心持ちだったのではないでしょうか。情は深かったように思うのですが…
寂しくて、夜祖父を一人置いて仲の良い友だちの家でその兄弟や家族と一時を過ごすことを何度もしたそうです。それで心満たされて家に帰ると、祖父に申し訳ないことをしたという罪の意識に苛まれたりしたというのことを書いています。
その少年たちには、異性に対するような思慕に似た感情を持ち、「少年の愛情はたいていそのようだ、しかし同性愛はなかった」と記しています。
その直後の日記紹介で、「同性愛の記事がある」といきなり始まるので、面食らいました。
経緯はもちろん、匂わせも触りもなく、で
後になって、それもあえてだったのかな、と思いました。
寄宿舎という閉ざされた濃密な空間では、どうしたって親密な関係になりやすいでしょう。むせかえるような思春期の男子たちが集う雰囲気の中で、色々とくっついたり離れたり揉めたりがあったようで、その辺はまさに「実録ギムナジウム」といったところでしょうか。真性の同性愛者もいたようです。
同室となった2歳年下の清野少年はというと、何の疑いも持たずに自分を慕い、川端からの肉体的接触を拒まないどころか、十分に応えてくれるのです。何を意味するのかという自覚もあるのかないのか、たぶんないのでしょう(?)
それくらいおぼこいというか、川端自身、肉欲を遠ざける抑制を強いても、可愛くて仕方ないといった感じです。
それまでに川端が他の少年に同じような感情を抱いたのか、それとも初めてだったのかは読み取れませんが、恐らく清野少年だけだったと思います。そして、触れることはしても交わることはなかった。それを自分の臆病を理由にして、清野少年との間に起きたことを日記は綴るだけです。
勿論内面の吐露もあります。自己肯定は少ないと感じられます。
恐らく清野少年だからこそ成立した関係なのでしょう。清野少年を通して自身を肯定していたのではないかと思います。そこに愛を見出そうとしたのかもしれません。空洞を埋めようとするかのように
そしてその清野少年の特異性は、川端が作中で「生まれながらの宗教の子」と表現していますが、そこにつきるように私は思います。
信仰心を持つ者の寛容は、人生のある時期には救いであり、魅力的だったのではないかと思います。
中学時代、一高時代、そして大学生になってから、合計3回清野少年について日記や手紙、作文を書いているのですから、よほど自分の肉体以上の精神的拠り所となる存在だったのだろうと思います。
本人もどこか他人事のように、半ば呆れるようにそのことを振り返っています。
でも、その経験を通じて作家の目を築いていったように私は感じました。
それがなければもっと淡白な内面世界の主になっていたのではないでしょうか。ほかの作品ろくに読んでいないのに、偉そうなことは言えませんが、そんなイメージがあります。
表現されるものが清らかだとしても、濁りを含んだものの上澄みか、底に至っても澄んだままなのかでは大きな違いはあると思っています。
ほとんど昔の生々しい感情を、記憶が悪いと断って、呼び戻そうとはせずに、日記などをあくまでも客観的に俯瞰している感じですが、本当にそうなのかはわかりません。
全集を刊行するに当たって原稿を整理していたら見つかった日記の類を、記録として残しておこうとの意図でこの「少年」を書いたという体です。
清野少年はその後どうなったのか、というのはとても気になりました。
最後の方に彼の手紙が何通も続くのですが、その文面から察せられる彼の厚い信仰心からすると、恐らくその道に邁進することになったのだと思います。
結果それ以来30年近く音信不通というのも頷けるものがありますが、だからといって、公に発表するに当たり、そんな有耶無耶さで良いのだろうか…
その疑問は残りました。
淸野少年は本当に存在したのだろうか…
そんなふうにも考えてしまいました。
川端康成は「よく五十まで持ったものだ」と自分自身のことを書いています。両親のことから早世の怯えがあって、常に死が傍で意識されていたのかもしれません。
陰か陽かでいうと圧倒的に陰が勝る人格だと思いますが、それでも持ち堪えられたのは肉体的幸運と言うだけでなく、その陰を作品に昇華できたからではないでしょうか。小説家として走り続けられたからではないかと思います。
その人となりはおぼろなイメージでしかありませんが、読みながらずっと感じていたのは、寂しい人ということでした。
どんな人間でも根源的に抱えている孤独感というものではなく、確実に何かが足りない寂しさをずっと抱えて生きてきた人ではないかということでした。でも、そこから数々の名作も生まれたということではないでしょうか。
何故だか読んでいる間、私にはずっと書いている川端康成の視線というか、意識というか、そんなものがつきまとっていました。
そして最後の一文を読んだときです。
作家の業というものをまざまざと見せつけられた思いがしました。
言葉に尽くせない色んな思いが交錯しました。
これは小説と呼んでいいものなのか、それともやはり反古を処分する前にただ記録として残したものなのか…
宮本さん(作中の川端康成)、私には永遠に謎ですよ。
この作品で川端康成に少し触れてみて、三島由紀夫とどこか相通じるものがあるのかも、と思うようになりました。
なんだかノーベル賞授賞式でのスピーチを読んでみたくなりました。
「美しい日本の私」
これを読めばもう少し作家の内面に近づけるかもしれないという期待とともに
ありがとうございました😊