ロシアのウクライナ侵攻は一年前から周到に計画が進められてきたとか…
これでプーチン大統領がもはや対話可能な相手ではないということが証明されたような気がする。
指導者は鉄壁の要塞で選択や決断をするだけで、その誤った判断の犠牲になるのはいつだって無辜の民だ。兵士ならいいのか、というとやっぱり本当は違うと私は思う。
ある日突然爆弾が降ってきて、昨日まで当たり前に続いていた平凡な日常があっけなく粉々に破壊されてしまう。それが侵略、戦争
実は当たり前ではなかった日常に背を向けられ、怯え慄き、逃げ惑うウクライナの人々の映像を私たちはこの数日見せつけられている。
訳もわからず大人に手を引かれていく幼い子どもたちの姿は肌や目の色が違っていても胸が締めつけられる。
世界の各地で戦争反対のデモも行われている。
いてもたってもいられない人たちが意思表示をしている。
心がざわつくけど、
現実的にいえば私がそこに加わることはない。
自分の日常だって何の保証もなくて、それを維持していくのが精一杯だ。多くの人がそうだろう。
今の私たちが向き合わなくてはいけないのは、よその国からの脅威だけではない。
じゃあ、私には何もできないのだろうか…
そんなことはない
世界で何が起こっているのか
耳を塞がず、目を逸らさずにいることはできる。
どんなにイヤなことでも、知りたくないようなことでも、事実を事実として受け止めようとすることはできる。
そのとき生じる負の感情に負けないでいようとする姿勢が、いざというときにたとえ迷いがあったとしても、人間としての瞬発力を発揮することになると私は思う。
それは何に支えられるのだろうと思ったとき、私が敬愛する写真家の藤原新也さんが、近著「日々の一滴」の中でひとつの光を示してくれていた。
藤原さんはずいぶん昔に、
ある若い女性読者から、インドという宗教に厚い国で実施された核実験をどう考えるかと問いかけられたそうだ。
しばらく黙した後
「聖なる意識は悪のヤスリによってますます研ぎ澄まされる」
これが藤原さんの返答だったらしい。
なんて深い思想だろうと私は畏まった。うろたえるんじゃない、と静かに諭されたようにも感じられた。
力を力で抑止しようとすると際限がなくなる。
かつて友人を胡散臭い自己啓発セミナーから足を洗わそうとじたばたしたことがある私は、そのとき嫌と言うほど思い知った。
戦争に発展しないように、政治的なことは国民が選んだ人たちに頑張ってもらうしかないけど、その一国民である私ができることは何だろう。
のさばる悪に対して、その存在を否定できないからこそ、そんなものに揺るがない己の内なる善の意識を磨き続けることなのだと思う。その意識を持ってものごとを考えることだと思う。
何を悠長なことを言っているとお叱りを受けそうだけど、生きる心構えとして、私はそう思う。
直接立ちむかわざるを得なくなったとしても、大事なのは心ない蛮勇ではなく、本当の意味で未来を見通した知恵だろう。それがあるべき人間の姿ではないだろうか。
社会がここまでシステムや関係が複雑に絡まりすぎていると、「言うは易し」なのは十分承知している。でも持つべき姿勢はそう。人間は考える葦なのだから。
即戦力にはならなくても、ひとりずつはちっぽけでも、善なるもの、美しいものを信じる心や意識の集合体が作り出す流れは、歪なものや邪なものを凌駕する。私はそう信じたい。
そこを諦めてしまえば、早晩人類に未来はなくなるだろうと思うから
直接声を上げることが必要と感じたときにはそうできるように、様々な問題に取り囲まれ日々の生活に追われている自分でも、心すさまずにいる努力をすることは、実はとても大切なのではないだろうか。そんなふうに感じる。
今回の出来事で私の心は波立ち、一編の詩を書いた。
取るに足らないものだけど、
それを読んで何かを感じてくれた人もいたのではないだろうか…
そういった善なる心の、健全な精神の連鎖をせめてつないでいけたら…
文化や芸術に寄り添う精神を蔑ろにせず、喜びを求める心を衛り、隣りにいる人に優しさを示すこと、それも立派な平和を求める意思表示だと私は思う。
いきなり爆弾落とされたらおしまいだけど、そうならないようにするためにも、子どもたちを賢い人間に育てていかないといけないと思う。
愛と教育と環境が人を作っていく。
この数日、宇多田ヒカルの新しいアルバムを車通勤の間流している。
このアルバムについてのレビューは改めて書こうと思っているけど、余りにも素晴らしくて、車中がひとつの満ち足りた小宇宙のような感覚に包まれる。
昨日もそうだった。
美しい音の世界に浸っていた。
そして、はたと現実世界を思い浮かべたとき、この落差は何だろう、こんなに美しい音楽を生み出すのも人間なら、偏った考えを顧みようともしない愚かさで罪なき人々の命をコマのように扱っているのも人間
同じ人間なのに…
そんな痛みに胸が疼き、気づけば涙が止まらなくなっていた。
本当ならウクライナだけではない、世界中の虐げられている人たちも、それぞれの小宇宙で心もごちそうをほおばり、満ち足りる幸せを味わっていいはずなのに、現実はそうじゃない。
いつも弱い者ばかりが苦しめられ、ささやかな幸せですら遠いところにお預けになっている。
藤原さんは15年以上前に、NHKの番組"日曜美術館"で、「夜の画家」と言われた、17世紀前半に活動したフランス人画家ラ・トゥールを取り上げていて、奇しくもその動画を私は数日前に見た。
ラ・トゥールはルイ13世のお抱え画家だったらしい。
「荒野の洗礼者聖ヨハネ」
ものすごいプレッシャーと閉塞の時代に何かを信じようとしながら最終的には挫折を味わった画家であるというのが藤原さんの見立てだった。それが絵にも出ている、と。
でも救いは、この画家自身が挫折しながらも光っている。この絵には希望がある。世の中の大きな状況は変えられなくても、目の前の子羊に草を与えることができる。その小さな祈りを、発見した人だと評していた。
この現状において、なんと示唆に富んだ考察だろうと改めてその言葉を噛みしめた。
これがちっぽけな私にでも出来ることだ。
各国がウクライナ問題にどう関わっていくかによって、世界の辿る道がどこに続いていくのか、大きく変わっていくのは間違いないだろう。
そして、ひとりひとりも日常の中でその意識をどう磨いていくか、試されていくことになるのだと私は思う。
しんどいけど…