昨日の法事から、無事に帰って来ました。
先祖供養…
結局のところ故人の為ではなく、
残された者のためなのか…
そんな感じがする。
「決められた形さえやっておけば問題ない…」
だが、その考えは故人の為ではなく、
生きている者が創り出している。
届かぬお経に何を託すのか…
私には知る由もない。
その解決の糸口は私には見えなかった。
お昼に料亭でご馳走を頂いた。
どれもすばらしく美味しかった。
計算された文句のつけようがない味。
しかし、この美味しいに感動はなかった。
この問題は私の心の中にある。
食べる事に関して「もういい」と感じている。
芸能人のブログでもよく見かける食べ物の写真。
私も何度か食べ物を載せたことがある。
「こんなに美味しいのに、ここではないのだ…」
それが料亭で食事をした時、感じたことだ。
お腹が空いた時に食べる日常の食事。
好きな人と分け合って食べるパン。
そこには未知の味が隠れている。
その味は自らが創り出す味だ。
どんなに腕のいい料理人でも、これは生み出せない。
「もういい…」
私の求めているものはこれではない。
誰が何を食べていようが、羨むことはない。
これが、私の正直な気持ちであった。
息子や娘は美味しそうに食べていた。
それを見ると私も楽しくなった。
子供達にとってはこちらが未知の味。
滅多に食べられるものではない。
結局…
先祖供養は故人の為ではない。
残された者の心の問題である。
形にこだわる必要はない。
お経だって届かないのだ。
「これでいい…」
そう思えることが大切ではないだろうか?
今回のことでそれがよく見えた。
決めるのは自分。
やはり、答えは自分の中にしかないのだ。