やっと「春の海」を観ることができた。
9月のある日、つけっぱなしのTVから「春の海」のメーキング映像と行定監督の特集が流れていた。
「GO」や「セカチュー」などのヒットメーカーというくらいの認識しかなかったので、「流行の映像を撮る方なのだろう」くらいのイメージしかなかった。
でもそこに映っていた行定監督は、何度も本番を撮り直し、丁寧に作品を作り上げる職人のような人だった。
その人が三島由紀夫の世界をどう表現するのか、興味が沸いた。
三島由紀夫が自決した日のことは良く覚えている。
学校から帰ってくると、TVから、何かを叫んでいる軍服を着た男性が映し出されていた。
小学生だったので、その人物が誰で、一体何をしている人なのかわからなかったけれど、事件の特殊性だけは、しっかりと脳裏に焼きついた。
実は私は、三輪明宏さんの「黒蜥蜴」の舞台は観たことがあるけれど、三島由紀夫の小説を読んだことはなかった。
せっかくだから、コレを機に、三島文学にも触れてみたいと思い、小説を読んでから映画を観ようと思った。
けれど、お風呂か電車の中でしか読書をしない私のスピードでは、小説を読み上げる前に映画の上映が終わってしまう。
仕方なく、小説の3分の一を残したままで、映画を観ることになった。
でも、私にとってはこれがよかったようだった。
原作は、比喩の表現がものすごく美しく、三島由紀夫の徹底的な美意識と、精神的な屈折が伺える華麗な小説だ。
あの自決事件と、一件結びつかないような気もするけれど、思いつめたような文体の中に、男性的で硬質であるが故のもろさのようなものも見え隠れする。
なので、女の私には、主人公の清顕の青年らしい心の闇が捉え切れず、なかなかその世界にのめりこめなかった。
映画は、最初は説明的で、主人公の清顕の幼さやワガママさが目立っていたけれど、後半は主人公二人のひたむきさに引き込まれ、美しい映像と音楽の中で繰り広げられる切ない愛の結末に、涙が止まらなくなってしまった。
最後まで小説を読んでいなかったことが、映画に没頭できた理由かもしれない。
また、映画では説明不足名面も、小説を読んでいたことでカバーできたりもした。
この年齢になってしまえば、分別も多少は出来てくるし、「大人の理由」というのもわかるし、「純愛」という言葉に気恥ずかしさもあったりする。
自分の中にどろどろと溜まった感情や、醜さに、嫌悪しながらも、「これが生きるってことなんだ」と、自分を肯定して、妙に納得したりもする。
でも、手に届かないからこそ、捕らえられないからこそ、美しいものがある。
このスクリーンの中に映し出された純粋なもの、儚いものを観たときに、そういうものに憧れたり、夢見たりする自分も、まだ心のどこかにいて、「お金や権力」では封じ込められないものの存在を、肯定したいという気持がある。
「どんなに引き裂かれても、離れても、必ず結ばれる。
そんな永遠の愛など、小説のなかだけのもの」
と、物知り顔で思いながらも、これから先、どんなに歳をとっても、どんな人生を送ったとしても、心の片隅では、そういうものを信じ続けたい、と思う。
この結末は、悲劇的だけれど、妻夫木クンも語っているように、私もハッピーエンドだと思う。
そしてそれは、永遠の魂を信じているものにのみ分かり合える、肉体を超越した幸福なんだ。
現実の世界の中に、そのような夢のかけらを探してみたい・・・。
映画を観終わって、ふとそう思ったりしたのだった。