一、総記  

 古へは、相模の国の足柄のより東の諸々のは、すべて吾妻の国と呼んでゐたもので、常陸と言ふ名の国もなかった。ただ新治筑波茨城那賀久慈多珂の小国には、朝廷よりが派遣されてゐた。
 後に、難波の長柄の豊前の大宮に天の下馭しめしし天皇(孝徳)の御世に、高向臣や中臣幡織田らを派遣し、足柄の坂より東を八国として総轄統治せしめた。その八国の一つが、常陸の国である。
 行き来するのに、うみを渡ることもなく、また郷々の境界の道も、山川の形に沿って続いてゐるので、まっすぐ行ける道、つまり直通ひたみちといふことから、「ひたち」の名がついたとも言ふ。

 また、倭武やまとたけるの天皇が、東のえみしの国をお巡りになった時、新治にひばりの県を過ぎる頃、国造の毗那良珠命ひらなすに、新い井戸を掘らせたところ、新しい清き泉が流れ出た。輿を止めて、水をお褒めになり、そして手を洗はうとされると、衣の袖が垂れて泉に浸った。袖を浸したことから、「ひたち」の国の名となったとも言ふ。諺に、「筑波嶺に黒雲かかり、衣手ひたちの国」と言ふ。

 常陸の国は、国広く、山も遥かに、田畑は肥え、広野の拓けた良き国である。海山の幸にも恵まれ、人々は安らぎ、家々は満ち足りてゐる。田を耕し、糸を紡ぐ者たちには、貧しき者はない。左方の山では塩が取れ、右方の海では魚が取れる。また、後方の野には桑原が広がり、前方の原には麻が栽培されてゐる。海川山野の幸の豊な所である。ただし水田は上質のものが少ないので、長雨が続くと、苗が育たないことがある。程よい日照りがあれば、穀物の実りは充分豊かである。

 

五、信太しだ

  碓氷から西に行くと高来の里がある。昔、天地の初め、草も木も言葉を語った頃に、天より降り来たった神があった。名は普都ふつの大神と言ひ、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和めた。それを終へて天に帰らうとして、身に着けてゐた厳いつの鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉を、全て脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行った。
 諺に、「葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ」と言ふ。山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。
 の浦の津は、東海道常陸路の入り口で、駅家が置かれてゐる。伝駅使はゆまづからひらは、この地に着くと、まづ口と手を洗ひ、東に向き直って
香島の大神を遥拝し、そののちに国に入ることができる。

 

六、茨城うばらき

昔、山の佐伯、野の佐伯と言ふ国巣、俗に、都知久母つちくも、夜都賀波岐やつかはぎがゐた。普段は穴を掘ってそこに住み、人が来れば穴に隠れ、去った後でまた野に出て遊んでゐた。まるで狼か梟ででもあるかのやうに、あちこちに潜んでゐては、物を盗み、祭に招かれても様子がをかしく、風習が全く異なってゐた。ある時、の臣の一族の黒坂命が、野に狩りに出て、予め彼らの住む穴にの刺を施し、突然、騎兵を放って彼らを追ひ立てた。佐伯たちは、慌てて穴に逃げ帰ったが、仕掛けられた茨の刺が体中に突き刺さり、あへなく皆死んでしまった。この時の茨から、茨城の名となった。諺に「水泳くぐる茨城の国」と言ふ。
別の話では、山の佐伯、野の佐伯は、山野の賊を率ゐて自ら長となり、国中を盗みや殺しをして廻ってゐた。彼らと戦ふために、黒坂命は、茨をもって城を造った。その土地の名を茨城と言ふやうになった。

(割註 茨城国造初祖 祁許呂命に子八人あり。中の男、筑波使主は茨城郡の湯坐連等の初祖なり。)

 

七、行方なめかた 

 昔、斯貴の瑞垣の宮に大八洲馭しめしし天皇(崇神)の御世に、東の国の荒ぶる賊を平ことむけむとして、建借間たけかしまを遣はされた。即ち此は那賀の国造の初祖なり。建借間命は、軍を率ゐて賊を言向けつつ、安婆の島に宿を設けた時、海の東の浦を遥かに望むと、煙が見えた。軍人たちはこもごも賊軍ではないかと疑った。建借間の命は、天を仰いでして、「もし天人の煙ならば、立ち来たって我が上を覆へ。もし荒ぶる賊の煙ならば、遠ざかって海へ靡け」と言ふと、煙は、海へ向かって遠く流れて行った。かうして賊であることがわかったので、軍兵皆に命じて朝飯を早く済ませて、軍は海を渡った。一方、二人の国栖夜尺斯夜筑斯は、賊の長となり、穴を掘り、小城を造って、そこに住んでゐた。官軍を見るとこそこそと抵抗し、建借間命が兵を放って駆逐すると、賊は一斉に小城に逃げ帰って、門を固く閉ぢて立て篭もった。すぐさま建借間命は計略を立て、勇敢な兵士を選んで山の凹所に潜ませ、武器を造って渚に並べ整へ、舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹と靡かせ、天の鳥琴・天の鳥笛は波の音と調べ合はせて潮と流し、杵島ぶりの歌を七日七夜歌ひ踊って、遊び楽しんだ。この楽しき歌舞を聞いて、賊どもは、家族も男女も揃って出て来て、浜辺に群れて楽しみ笑った。建借間命は、騎兵に城を封鎖させ、背後から賊を襲って捕らへ、火を放って滅ぼした。痛く討つ言った所が、今の伊多久(板来)の郷であり、ふつに斬ると言った所が、布都奈の村であり、安く斬ると言った所が安伐の里であり、く斬ると言った所が、吉前の邑である。

 

八、香島かしま  

 昔、難波の長柄の豊前の大宮に天の下馭しめしし天皇(孝徳)の御世に、大乙上 中臣の子、大乙下 中臣部兎子らが、惣領 高向大夫に申し出て、下総の海上の国造の領内である軽野より南の一里と、那賀の国造の領内である寒田より北の五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たにの郡を置いた。そこに鎮座する天つ大神の社と、坂戸の社と、沼尾の社の三つをあはせて香島の天の大神と称へた。ここから郡の名が付いた。国ぶりの言葉に、「霰ふる香島の国」と言ふ。

 

 浮かぶものと沈むものが入り交じり、天地がひとつに溶け合ってゐた頃、賀味留弥、賀味留岐の神が、八百万の神たちを高天原に集へ賜った時のことである。賀味留弥、賀味留岐の神は、詔して、「今、わが御孫の命の知らすべき豊葦原の水穂の国」と言ひ、この言葉によって高天原より天降って来た大神の御名を、香島の天の大神と言ふ天では、日の香島の宮と称へ、地では豊香島の宮と称へた。豊葦原の水穂の国を任せ与へむとの詔に荒ぶる神たちも、岩も木立も草の片葉も、言葉多くて、昼は五月の蝿のやうに騒がしく、夜も火の燃える国であった。これを平けるべき大御神として、天降り仕へた。
 その後、初国知らしし美麻貴の天皇(崇神)の御世に至り、奉納された幣帛は、太刀十口、鉾二枚、鉄弓二張、鉄箭二具、許呂四口、枚鉄一連、練鉄一連、馬一匹、鞍一具、八咫鏡二面、五色の絁あしぎぬ一連であった。

美麻貴の天皇の御世に、大坂山の頂に白妙の大御服を着てお現れになり、白鉾の御杖を取り、下された御神託に、「我が御前を祀れば、汝が聞こし食すべき国を、大き国も小さき国も、事を任せよう。」とあった。そこで天皇が、八十の族長を召し集へて、御神託を言挙げて問ふと、大中臣の神聞勝の命が申すに、「大八洲国は天皇が馭しめすべき国と平け給った、香島の国に鎮まる大御神の下された御神託です」と答へた。天皇はこれをお聞きになり、驚き恐こんで、先の幣帛を神の宮に奉納したのである。
 淡海の大津の大宮(天智天皇御世)に初めて使ひを遣はして、神の宮を造らせた。それ以来、式年に改修されてゐる。

 毎年七月に、舟を造って、津の宮に奉納してゐる。その謂れは、昔、倭武の天皇の御世に、天の(香島)大神が、中臣の巨狭山命に、「今、御舟を仕へ奉れ」とおっしゃった。巨狭山の命は、「謹んで大命を承りました。敢へて異論はございません」と答へた。大神は、夜が明けて後に、「汝の舟は海の上に置いた」とおっしゃった。そこで舟主の巨狭山の命が、探して見ると、舟は岡の上にあった。大神は、「汝の舟は岡の上に置いた」とおっしゃった。そこでまた巨狭山の命が探し求めると、舟は海の上にあった。こんな事を何度も繰り返してゐるうちに、巨狭山の命は恐れ畏み、新たに長さ三丈余りの舟を三隻造らせて献った。これが舟の奉納の始まりである。

 

 神の社の付近には、卜氏が住んでゐる。東に鹿島灘、西に霞ケ浦を臨むこの広い台地の森や谷に囲まれて、所々に集落が連なってゐる。野山の草木をそのまま垣根にして家を建て、朝夕には泉や谷川の流れに水を汲む。岡の裾野に家を構へ、松と竹で門を守り、谷の腰に井戸を掘り、その上に蔦蔓を敷く。春にその村を通れば、どの草も美しく花を咲かせ、秋に山道を行けば、どの木々も鮮やかに色づいた葉を飾す。神仙の幽居する境、霊異の化誕する地と言ふべきである。その美しさ、見事さは、なかなかうまく説明できるものではない。

 社の南に郡家があり、反対側の北側には沼尾の池がある。翁の言ふには、神代に天より流れ来た水がたまって沼となった。この沼で採れる蓮根は、他では味はへない良い味である。病気の者も、この沼の蓮を食ふと、立ち所に癒えると言うふ。鮒や鯉も多い。ここは以前郡家のあった所で、橘も多く、良い実がなる。

 郡家の東二、三里の所に高松の浜がある。むかし東の大海から流れくる砂や貝が積もって、小高い丘ができた。やがて松の林が繁り、椎や柴も入り混じって、今ではもうすっかり山野のやうである。東南の側の松の下には、周囲八、九歩ばかりの泉が湧き出で、清き水を湛へてゐる。慶雲元年に国司の采女朝臣鍛は、佐備の大麻呂らを伴って、若松の浜で砂鉄を採り、剣を作った。ここから南の軽野の里の若松の浜までの三十里余り一帯に、松の山が続き、伏苓まつほど、伏神ねあるまつほどなどの薬草も毎年採れる。この若松の浦は、常陸と下総の国堺の安是の湊の近くである。剣を作るのに砂鉄を使ふのはよいが、香島の神山なので、みだりに入りこんで松を伐ったり砂を掘ったりすることはできない。

 

 

風土記逸文

 黒坂命が陸奥の蝦夷を平け、凱旋して多珂郡の角枯之山まで来た時、病のためここで亡くなった。このとき角枯を黒前山と改めた。黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かった。葬列の赤旗、青旗は入り交じって翻り、雲を飛ばし虹を引いたやうで、野や道を輝かせた。このことから幡垂はたしでの国と言ったが、後に縮まって信太しだの国と言ふ。

 

 新治郡の駅の名を大神おかみと言ふのは、大蛇おかみが多かったためである。