舒明紀

2年春正月丁卯朔戊寅、立寶皇女爲皇后。后生二男一女、一曰葛城皇子近江大津宮御宇天皇 舒明天皇 即位2年春1月12日、寶皇女を皇后とする。后は2人の男と1人の女を産む。一人目は葛城皇子(天智天皇)という。十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩于百濟宮。丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯。是時、東宮開別皇子、年十六而誄之。即位13年冬10月9日。天皇は百済宮で崩御。18日。宮の北で殯。これを百済の大殯という。この時、東宮開別皇子は16歳で誄をした。

 

 

天智紀 

天命開別天皇、息長足日廣額天皇太子也、母曰天豊財重日足姫天皇。天豊財重日足姫天皇四年、讓位於天萬豊日天皇、立天皇爲皇太子。天萬豊日天皇、後五年十月崩、明年皇祖母尊卽天皇位、七年七月丁巳崩、皇太子素服稱制。

天命開別天皇(天智天皇)は、息長足日広額天皇(舒明天皇)の太子。母は天豊財重日足姫天皇(皇極・斉明天皇)と言う。天豊財重日足姫天皇は即位4年に位を天万豊日天皇(孝徳天皇)に譲った。天皇を立て、皇太子となった。天万豊日天皇は即位5年10月に崩御。その明る年に皇祖母尊(斉明天皇)が天皇に即位した。(斉明天皇)即位7年7月24日に崩御。皇太子は素服(白い服)で称制(マツリゴトキコシメス)。

 

七年春正月丙戌朔戊子、皇太子卽天皇位。(或本云、六年歲次丁卯三月卽位。)

即位7年春1月3日。皇太子が天皇に即位した。ある本によると、即位6年の丁卯年の3月に即位したという。

 

(即位十年)九月、天皇寢疾不豫。(或本云八月天皇疾病。)9月、天皇は病気で寝込んだ。(或る本では8月に病気になったという)

十二月癸亥朔乙丑、天皇崩于近江宮。癸酉、殯于新宮。12月3日、天皇は近江宮で崩御。12月11日、新宮で殯を行った。陵墓と殯期間の記載がない

 

『延喜式』では、「山科陵 近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡 兆域東西十四町 南北十四町 陵戸六烟」とあり、御廟野古墳(京都市山科区)に比定されている。
『扶桑略記』 一説に、天皇は山科の郷へ馬で行幸されたが、帰還することがなかった。永い間山林に埋もれて、崩御された所が分からなかった。そこで履いていた沓が落ちていた所を以って山稜とした。以来、諸皇はこの因果を知らず、常に殺害を事とせり。山稜は山城国宇治郡山科郷北山にある。

 

万葉集

一書に曰はく、近江天皇の聖躰不予御病急かなりし時に、大后(倭姫)の奉献れる御歌一首
青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直に逢はぬかも

※木幡山 京都府宇治市北部

 

宇治市(旧山科国)小倉町天王に天押雲命を祀る社があり、「天智天皇」 の石碑が建てられていた。現在、社は近くの巨椋神社、石碑は地蔵院に移転保存されている。山科盆地に発する山科川は、南の木幡で当時あった巨椋池に注いでいた。小倉町天王も、池畔にあった。

 

 

 

己卯、新羅進調使沙飡金萬物等罷歸。是歲、讚岐国山田郡人家有雞子四足者。又大炊有八鼎鳴、或一鼎鳴、或二或三倶鳴、或八倶鳴。

(即位10年)12月17日、新羅の調を献上する使者の沙飡金万物などが帰った。この年、讃岐国の山田郡の人の家に、雞子(雛)で四つの足があるものが生まれた。また大炊に八つの鼎があり、それが鳴った。あるいは一つの鼎が鳴り、あるいには二つか、あるいは三つが一緒に鳴った。あるいは八つが一緒に鳴った。

 

天智紀はここで終わる。