間人穴太部王(古事記) はしひとのあなほべのおう

泥部穴穗部皇女(欽明紀)はしひとのあなほべのひめみこ

穴穗部間人皇女(用明紀)あなほべのはしひとにのひめみこ

 

欽明天皇の第三皇女。母は蘇我稲目の娘・小兄比売(小姉君)。
異母兄・用明天皇の皇后となり、厩戸皇子・来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子を産む。

 

天理市の穴穂部神社が安康天皇の石上穴穂宮推定地であり、当地で生誕とされている。

一方、大阪府八尾市に鎮座する穴太神社。あのうじんじゃ

当地は河内国若江郡穴太邑で、『姓氏録』河内国の孔王部(あなほべ)首氏の出身地である。

安康天皇の設けた穴穂部の地であり、間人穴太部王の成人した地ともいわれている。


用明天皇 585年9月に即位するも疱瘡にかかり 587年4月崩御  和風諡号 橘豊日天皇

丁未の乱(蘇我物部争乱) 587年5月~8月、終息後、同母弟の泊瀬部皇子即位(崇峻天皇)

 

争乱を避けるため、間人皇女は、丹後に身を寄せたと伝わる。
大和へ帰るにあたり御名を賜るが、畏れ多いと考えた村人は御退座にちなみ

間人を「たいざ」と読むことにしたという。間人の地名が今も残る。

御所の内」という場所も伝えられている。

当地は、古来より港が開かれ、丹後海上交通の中心として、漁業が発達した場所。

『丹哥府志』(江戸後期)では、当地に御所の壷なる地があり

「丹後旧事記云、此里と間人媛の由縁ありよって以て村名とす、今タイザとよむ。或云。

間人媛は此村の人なり、蓋御所の壷は其跡なりといふ」と語られる。
 

用明天皇崩御後、

田目皇子(用明天皇第一子・多米王、母は蘇我稲目の娘 石寸名・意富芸多志比売)に嫁し、佐富女王を産んだと『上宮聖徳法王帝説』『上宮記』にある。記紀にはない。

上宮聖徳法王帝説』

聖王庶兄多米王 其父池邊天皇崩後 娶聖王母穴太部間人王生児佐富女王也
『上宮記』

多米王 父用明母蘇我女也 父天皇崩後 娶庶母間人孔部王 生児 佐富女王一也

中宮寺は、聖徳太子が母后のために創建した尼寺。
『聖徳太子伝暦』は、中宮寺は聖徳太子が母・穴穂部間人皇后の宮殿を寺としたと伝え
また、皇后自身が発願者であるという伝承もある。

上宮聖徳法王帝説』に推古29(622)年12月21日崩御とあるのみ、陵墓の所在は不明。

聖徳太子陵の磯長墓(大阪府南河内郡太子町)に石室三棺があったため、母后・太子・妃の膳部菩岐々美郎女との合葬とされるが、書紀に合葬の記述はない。

磯長墓で宮内庁が治定しているのは聖徳太子だけである。

 

 


間人皇女
舒明天皇と皇極(斉明)天皇の皇女であり、天智天皇の同母妹。

孝徳天皇(和風諡号 天万豊日天皇)の皇后となる。
天智4(665)年2月25日崩御、667年2月、天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女を小市崗上陵(越智岡上陵・奈良県高市郡高取町)に合葬したとある。

 

 

 

 

 

斑鳩の吉田寺は天智天皇の勅願により創建。

本堂の西側に「清水の古墳」があり、間人女王の陵墓と伝わる。

『延喜式』は、間人女王の墓は大和國平群郡に在る龍田清水墓と記載される。