大和国山辺郡都祁。現在の奈良県奈良市の旧都祁村近辺に、
古代、闘鶏(つげ)国造が君臨した「闘鶏国」があったという。

都祁は闘鶏・都下・都介とも書く。


都祁は呉音で「つげ」と読むが、漢音では「とき」である。
「とき」は古代朝鮮語で、日の出を意味する。

古事記では、神沼河耳命(のちの綏靖天皇)に皇位を譲った神八井耳命の後裔氏族として、意富臣・阿蘇君らとともにその名がみえる。

 

闘鶏国は、やがて大和朝廷に統一され、大化の改新によって都祁郷となる。
中世になると、伊勢や伊賀に通じる交通の要所として栄え、斎宮頓宮も作られた。

 

都介野にある前方後円墳・円墳は、大和高原において、古墳期最大規模であり、

古事記・日本書紀に記された闘鶏国造との関連性が指摘されている。

 

都祁村の南端部に位置する都介野岳は古来から都祁富士として親しまれ、
都介野岳の西には小山戸(おやまと)という集落がある。
(地元では、おうやまと、と呼んでいる)

都祁山口神社
都祁直が闘鶏国造となり、小山戸に居住し氏神を祀ったのを起源とする。
江戸時代には小山戸明神と称す。
元慶3年(879年)、水分神が白龍となって降臨したと伝わる磐座は、
御社尾(ごしゃお)と呼ばれ、本殿の裏山にある。
磐座に向かう参道は、樹木の根が地表に張り出した「木の根道」が山頂 へと続いている。

古墳時代の祭祀遺跡が神社と神石周辺に多く発見されている。