仙台育英が準優勝した1989年は、秋田経法大附属もベスト4になり、東北勢が甲子園をにぎわした年だった。

 

秋田経法大附属の背番号11番の1年生ピッチャー・中川くんが大活躍し、その甘いマスクで甲子園のアイドル的存在となった。

 

わたしもこのとき、おなじ東北勢ということで、秋田経法大附属のことを応援はしたが、まだ高校野球にのめりこむ前だったので、中川くんファンとまではなっていなかった。

 

その後、高校野球への関心が高まり、「甲子園の星」などの高校野球雑誌を購読するようになってから、中川くんについて詳しく知るようになった。

 

高校野球雑誌では、まるでアイドルタレントのような扱いで、人気球児たちが特集されている。

それらの雑誌の特集記事を読み、わたしは中川くんファンになっていった。

 

正直、中川くんの甲子園での試合は、北陽高校の寺前くんのときほどは、印象に残っていない。

 

北陽高校の寺前くんが活躍した1990年のセンバツのとき、開幕戦だった秋田経法大附属の試合も見ていたような気はする。

今回、過去の記録を調べていて、「内之倉選手率いる鹿児島実業高校に敗れた」と書かれているのを見て、当時の記憶がよみがえった。

 

1990年夏、3季連続で甲子園に出場した中川くんは、初戦の育英(兵庫)戦は延長13回の末に勝利をおさめたが、3回戦の横浜商(神奈川)戦では延長の末に敗れたと過去の記録にある。

このあたりも、言われてみればそうだった気がする、という程度にしか残ってはいない。

 

一方で今も鮮明にわたしの記憶に残っているのが、1990年の秋に開催された翌春のセンバツ出場校を決める東北大会である。

 

この年は、東北大会の会場が偶然にも仙台だった。

 

秋田経法大附属も出場すると知り、わたしはその試合を観戦に行くことにした。

 

直接本人と話ができるわけでもないが、わたしはその日のために洋服を新調するという入れ込み用だった。

初デートにでも行くかのように、中学2年生のわたしは緊張していた。

 

試合会場には、わたしとおなじような中川くんファンが、大勢押しかけてきており、バックネット裏は中川くんファンの女の子で埋まっていた。

 

「おまえら、仙台人だろ!東北を応援しろよ!」

と見知らぬおじさんにヤジを飛ばされながら、

わたしたちは黄色い声援で中川くんを応援した。

(はっきりおぼえてないけど、おじさんがこんなヤジを飛ばしていたということは、この日は東北高校戦だったのかなあ)

 

当時わたしは、通信教材の伝言板コーナーに

「わたしは高校野球が好きです。秋田経法大附属高校の中川選手について情報交換できる方、文通しませんか。」

みたいな投書をし、それに反応してくれた何人かと文通もしていた。

 

今思うと、なんて古風なのだろう。

 

当時はまだインターネットも普及していなかったから、情報を手に入れるために、こうした手段しかなかったのだなあ。

 

中川くんは、高校3年生の年は、センバツにも夏の大会にも結局出場できなかった。

 

中川くんの高校最後の試合となった夏の秋田県大会決勝戦。

わたしはその試合の録画ビデオを、文通相手だった秋田市の女の子から送ってもらって見た。

 

秋の東北大会で撮影した中川くんのピンぼけの写真と、いくつかの試合の録画ビデオが、しばらくわたしの宝物だった。

 

母の知人のむすこさんが仙台育英の野球部員だったので「甲子園の土」をおすそわけしてもらったこともある。

この「甲子園の土」は、おそらく今も実家の物入れに眠っている。

 

何があのころのわたしをここまで熱くさせたのか、今となってはわからない。

 

自分が野球をしていたわけではないが、「甲子園」とそこで活躍する球児たちは、当時のわたしにとって憧れの存在だった。

 

寺前くんや中川くんのほかにも、当時追っかけていた選手がたくさんいる。

 

わたしは47都道府県の地図上の位置を、甲子園出場高校の名前とセットでおぼえたほどだった。

 

そして、野球部のマネージャーになって甲子園を目指したいと、高校受験では野球部がある男女共学校を選んだ。

 

甲子園アイドルの存在は、わたしの進路にまで影響を与えるほど、大きかった。

 

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