「たすけたい」「ささえたい」という気持ちの裏側には、「依存心」が隠れている

 
 
「たすけられる側」「ささえられる側」の「依存」につい目が向きがちだが、
 
「たすける側」「ささえる側」も実は「依存」している
 
 
「たすけること」「ささえること」に、依存している
 
 
そうすることで、自分には価値があるということを証明したい
 
逆に、そうしないと、自分の価値を感じることができないのだ
 
 
だから、たすけられる人、ささえられる人を、常に必要としている
 
 
まさに、わたしがそういう人間だった
 
 
あえて過去形で言う
 
 
じつはまだ完全には抜けきれていないのだけど
気づいたから
抜け出すと決めたから
過去形にする
 
 
「たすける側」「ささえる側」の「依存」のほうが、厄介だとおもう
 
隠れているぶんだけ、本人が自覚できない
 
 
気づかないと、自覚しないと、抜け出すこともできない
 
 
やたらと子どもの世話を焼いてしまう親もね
実は子どもに依存してるんだよね
 
 
その依存から抜け出すには
なにもしなくても自分に存在価値があることに気づくことなのかな
 
なにもしない自分を認めることなのかな
 
 
わたしは
そのへんができるようになってきたら
自分の「依存」が自然と見えるようになってきたから
自分が「依存」していたことを認められるようになったから


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