『わたしの就職』シリーズ
結婚も見据えておつきあいしていた恋人と別れることを決断したわたし。
心理学を学びはじめた今ふりかえると、あれはわたしにとって「癒着」と「依存」を切り離すプロセスのひとつだったのだろう。
とてもとても大きな痛みを伴ったし、苦しい日々だった。
当時のわたしはなんの知識もなかったけれど、自らその道を選んだのだなあ。
とても自己流のやりかただったし、あまりうまいやりかたではなかったけれど。
彼への依存をやめるきっかけに、わたしは別の人に恋をした。
要は別の依存先を見つけたわけだ。
ただ、当時すでに感じていたことだけれど、その別の人のことは、それほど好きだったわけでもなく、彼の代わりとなる何かにすがっただけだった。
まるで骨折したときの「松葉づえ」のようなものだったと感じる。
ひとりで歩くにはあまりにも心許ない自分を支える何かがほしかったのだと思う。
また、同時にわたしは、実家での生活からも離れたくて、勤務先で浮上した出張の話に飛びついた。
はじめは臨時でとある現場にお手伝いに行くだけの話だったが、その現場で働くみなさんと仲良くなれたこともあり、そのままそこに常駐させてもらうことにした。
横浜にある現場で、会社が近くに用意してくれたマンスリーマンションで一人暮らしをしながら、そこで働くことになった。
元恋人との思い出から離れ、家族から離れ、仕事に熱中し、わたしはなにかから逃れるように生活を送った。
人と深く関わることを避け、忙しい日々を送ることで、感情を極力感じないようにしていたのだと思う。
クリスマスの夜を、工事現場でおじさんたちとお酒を飲みながら過ごしたことは、今となってはよき思い出だけど。笑
横浜とは言っても、工業団地の中にある工場の建設現場で、殺伐とした雰囲気だったこともまた、あのときのわたしには居心地がよかった。
まるで、当時のわたしの心を映し出すような景色だったと、今ふりかえり思う。
そんな風に感情を切り離した生活を送るうち、次第に体調を崩すことが多くなってきた。
横浜での生活がはじまって一ヶ月くらい経ったころに、膀胱炎になって病院にかかったのだけど、なかなか検査の数値が良くならず、何度も通院した。
あれも、からだがサインを出していたのだと今ならわかるけど、そのときは気づけなかった。
大学受験のころ、わたしは睡眠障害、摂食障害、過呼吸発作など、さまざまな症状に陥っていたのだが、そのときと似た症状も出るようになってきていた。
わたしの心が発するSOSを、体は必死で伝えようとしてくれていた。
あるとき、いろいろと仕事を教えてくれて慕っていた現場の人(自分の父親くらいの年代の人)からセクハラ発言をされ、一気にその人に幻滅し、その現場でその人と一緒に働くことがイヤになった。
検査数値もいつまでたっても改善されずにいたこともあり、体調面のことやセクハラ発言のことを会社に話し、3カ月経ったところで仙台に帰してもらった。
(次回へつづく)
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