茨城県つくば市へ転勤になる恋人を追いかけ自分も移住し、そこで新しい仕事を見つけ楽しく働いていたが、急展開があり、わたしはわずか3ヶ月で再び仙台に舞い戻った。
仙台には戻ったものの、実家には戻らず、市内で恋人と一緒に生活を続けた。

今度は仙台のハローワークに行き、そこで見つけた設計事務所の求人に応募し、そちらも面接してすぐに採用となった。

「設計事務所の設計」という求人だったので、設計の仕事ができると思っていたが、実際はそこは「図面屋さん」とよばれる事務所だった。

 

スーパーゼネコンの下請けとして、設計図や施工図をひたすらCADで描くのがお仕事。

 

「設計」とよべる仕事ではなかったけれど、それまで素人に毛が生えた程度の図面しか描いたことのなかったわたしには、実施設計図や施工図を一からCADで描くやり方を学べることがうれしかった。

 

結果的に、この事務所には通算で7年近くお世話になった。

 なぜ「通算」かと言うと、実は二度退職して出戻っているから。笑

どうしてそんな出戻り劇を繰り返したかについては、別の機会に話すことにする。

 

ひとまず、これまで、ほぼ数ヶ月単位ごとに職場を転々としてきたわたしが、それなりに腰を落ち着けたのがこの職場だった。

 

この職場では、スーパーゼネコンが手がけるいろいろな建物の実施設計図を描いたし、時には現場に常駐して施工図を描いたりもした。

 

関わった仕事は大きなプロジェクトが多く、図面を描いた建物は全国各地にたくさんある。

特に関東の仕事が多かったので、関東に遊びに行くと以前図面を描いた建物を実際に見ることができて、今でもうれしい。

 

確認申請用の図面の作図をするためには、法規的な知識も必要となるため、そういった知識も仕事を通して身につけることができた。

 

CADはAutoCADというソフトをメインで使用していたけれど、仕事によっては別のCADソフトでの作図を求められることもあり、何種類かのCADソフトが使えるようになった。


ただ、ほんとうは「設計」をしてみたい身の人間としては、「図面屋さん」とか「CADオペさん」と呼ばれる仕事であることに、どこか悔しさを感じてはきた。

 

それでも、たとえ「図面を描く」というかたちではあっても、大きな建築をつくる仕事の一端を担えることをうれしく思おうと、自分に言い聞かせながら仕事を続けてきた。

 

わたしは「図面」というのは、ひとつの言語みたいなものだと思っていて、たとえば「施工図」は、設計者の意図を施工者へと伝達するツールだと感じている。

だから、「CADオペさん」とか「図面屋さん」と呼ばれる仕事をしていたころは、自分は「通訳」の仕事をしているのだと思いながら楽しむようにしていたことを思い出す。

 自分がやりたいと思ってきた「設計」の仕事とは少しちがうけれど、その仕事をすることに対する誇りをもちたくて、そんな風に考えていた。

そこには、「CADオペ」「図面屋」という職種に劣等感を感じ、逆に「通訳」という職種に憧れを抱いていた当時の自分が垣間見れる。

 

この職場をどうして辞めることになったかは、二度の出戻り事件の話と一緒に、次回以降の記事で書くことにする。

 

(次回へつづく)

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