どの高校を受験するかの選択のとき、ちょっとした『違和感』を感じたわたし。
しかし、自分なりに行きたい理由があった高校を選択できたことで、その『違和感』はそのときはうやむやになってしまった。

志望した高校へ合格することができ、高校受験は自分としても満足できた。
それは親や学校の期待にも応えることのできる結果だった。

「自分の望み」と「周囲の望み」の折り合いがついたから、わたしが当時感じた『違和感』は、「ま、いっか」と影を潜めたのだった。

しかし、その『違和感』が、その三年後、高校三年生となったときに、ふたたび浮上することになるのだが。。。
その話をする前に、今度は、わたしの父の話に脱線させてほしい。(一体何回脱線するんだ、笑)

わたしの父は高卒で就職し、定年を過ぎた今も同じ職場で働いている。
父は子どものわたしから見ても、仕事が大好きだ。
働くことがいきがいといった印象で、仕事に必要な知識を得るために学ぶことへも意欲的だ。
定年後の今も重要なポジションで仕事をしているところを見ても、職場からも必要とされる人間なのだと感じる。

しかし、父はずっと自分が高卒であることになんらかのコンプレックスを感じてきたような印象をわたしは受けている。
資格取得などのために必死になって勉強していたのも、そんなコンプレックスからなのかなあと。

わたしは小さなころから「大学に行け」と言われながら育った。
わたしが勉強好きで成績もよかったことから、ますます父はわたしに期待した。

わたしは第一子なのだけど、「第一子あるある」で「親の期待に応えたい」「親の期待に応えねば」という思いがとても強かった。

わたしの中には、「父のためにも、大学に行かねば」という思いが、幼いころから自然とすりこまれていた。
わたしは、「父が叶えられなかった夢を、父の代わりに叶える」という使命を、自分に課して生きてきたのだった。

わたしはずっとそんな風に育ってきたので、わたしにとって「父の意見」というのは、なかなか逆らうことのできないとても重い縛りなのだった。

話があちこち脱線するので、一体なんなんだと感じているかもしれませんが、「わたしの大学受験」について語るためには、こうしたいろんな要素が不可欠なもので、どうかもうすこしおつきあいくださいませ。

では、次回へつづく。

 

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