『世界という現象が、前現象学的な視野へと入りこんでこないことがあるだろうか。主題的に存在論的な解釈を要求することはないにしても、世界という現象が、すでにつねに前現象学的な視界に立ちいっているのではないか。』

 

『存在と時間』の中のハイデガーの文章の一部です。(第1巻第1部第16節。熊野純彦訳 岩波文庫)

 

ここを読んだとき、カンディンスキーのことがぱっと閃きました。

カンディンスキーが、抽象画を「発見」した、あの有名なエピソード……

 

ある日、彼は、外出から戻った自分のアトリエに、「スゴイ絵」があるのを発見します。

ぱっと見た瞬間、その絵は強烈なオーラを放って彼の心をとらえた……なにが描いてあるのかまったくわからない。けれど、ものすごい魅力がその絵から発散されていて、心はぐんぐんその絵に吸いこまれていく……

で、よく見たら、それは自分の描いた絵。ただ、それが、さかさまに置いてあった。

 

ちょっとドラマチックに脚色して表現しました。でも、こんなふうなことがあったらしい。

 

絵は、当然、「なにか」を描く。

人物画、風景画、静物画……描かれる対象が具体的なものとしてちゃんとあって、それはモチーフとか呼ばれたりする(のかな?)

 

なにを描いてあるのかわからない絵は、「ヘタな絵」ということで、「もっとちゃんと描け」とか言われたりする。

 

ちゃんと描くと、「うまい!お上手!」とか言われたりする。で、「オレはうまい!」と得意になったりする。

しかし、そこで、自分が無意識に「世界を限定」していることには気がつかない。

 

なにかを描けば、絵は、その「なにか」に限定される。

 

ヨーロッパの絵画には、伝統的に「イコノロジー」というのがあって、たとえば絵の中にドクロが描いてあったりすると、それは「死すべきもの」としての人間の生命のはかなさやむなしさ(ヴァ二タス)を表わす……というように、「お約束」があるようです。

近代絵画は、そういう「お約束」から自由になろうとしていろいろもがいた?けれど、まだ、「なにか」を描いていた。具体的な「なにか」を。

ところが……カンディンスキーが見た「その絵」は、なにが描いてあるのかわからなかった。

それが、彼に、「どこか」へとつながっていく通路を開いた……

『世界という現象が、前現象学的な視野へと入りこんでこないことがあるだろうか。主題的に存在論的な解釈を要求することはないにしても、世界という現象が、すでにつねに前現象学的な視界に立ちいっているのではないか。』

 

再びハイデガーの、あの文章。

 

『世界という現象が、前現象学的な視野へと入りこんでこないことがあるだろうか。』

 

カンディンスキーが、さかさまになった自分の絵に見たのは、まさにこれだったのでは?

 

「なにか」が描いてある絵は、その「なにか」が拒否する。

なにを?

『世界という現象が、前現象学的な視野へと入りこむ』ことを。

 

人の視線は、常に、「なにか」をとらえようとしている。

それは、自分が馴れ親しんだ「なにか」を。

 

人は、その「なにか」をとらえる代償として、『世界という現象』をとらえることを放棄している。

それはもう、日常の一秒一秒において。

 

ところが……自分の知っている「なにか」に全然当てはまらないものに出くわしたりすると……

その瞬間に、ガタン!とカギが外れて、「世界」がどっと押し寄せる。

ハイデガーのいう『前現象学的な視野』へ。

 

いや、こういうのは正しくないかもしれません。

「世界」は常に「前現象学的な視野」に入りこんでいる。

しかし……人は、自分の知っている「なにか」を盾として、それに気づこうとしない。

うーん……それほどに、「世界」はオソロシイ?ものなんでしょうか……

 

しかし、ハイデガーの文章は、次のように続きます。

 

『現存在が配慮的に気づかいながら、手もとにある道具のもとに没入するとき、その没入の圏内で現存在自身が或る存在可能性を、つまり、配慮的に気づかわれた世界内部的存在者とともに、その存在者の世界性がなんらかの様式で現存在に閃いてくるような存在可能性を有しているのではないだろうか。』

 

ここで、ハイデガーの世界は、またフワッとカンディンスキーの世界を離れる。

両者は、一瞬のニアミスのあと、互いに遠ざかっていく……そんなイメージです。

 

ハイデガーの『存在と時間』の初版は1927年。しかし、1923年にはもう草稿ができていたようです。

これに対して、カンディンスキーが抽象画の世界に入っていったのは、1911年くらいかららしい。

時間的にも、10年のニアミスがあったといえるのかな……

 

よく、芸術は理論に先行して、その定かならぬかたちをとらえる……みたいなことが言われます。

つまり、なにかが理論や思想として結晶する前に、その傾向性をいち早くとらえるのが「芸術」なんだと。

10年の先行……というのを、そういう風に解釈することもできるかもしれませんが……この見方はなにかおかしい。

そうではなく……両者は、時間に関係なく「同じもの」をとらえ、「同じもの」の中から生まれてきた……と考えた方がいいのかもしれません。

 

先のハイデガーの文章を、原文で見るとこんな感じです。

 

Kommt dieses Phänomen nicht in einen vorphänomenologischen Blick, steht es nicht schon immer in einem solchen, ohne eine thematisch ontologische Interpretation zu fordern?

 

邦訳で「前現象学的な視野」とされている部分の原文は「einen vorphänomenologischen Blick」だと思いますが、ここに使われている「Blick」という言葉は、辞書を引くと、男性名詞で、閃光、眼光、まなざし、眼力、光景、ながめ、瞬間、刹那……という訳語が当ててあります。また、動詞形の blicken には、輝く、きらめく、というような意味があり、雲間から太陽がちらっとのぞく……そんなイメージがあるようです。

 

カンディンスキーが、さかさまになった自分の絵を一瞥した瞬間……は、まさにそういうイメージだったのではないか……雲間から太陽が射しこむように、覆われたものから「世界」がちらっと顔を覗かせる……絵には、それだけの力がある。そういうことではないか……

 

ここで、まさに世界は逆転するわけです。そして、ハイデガーの世界とカンディンスキーの世界が切り結ぶ……これはまた、もしかしたら「近代」と「現代」が切り結ぶ……そういう瞬間だったのかもしれません。

 

さらに……ハイデガーの言葉は続きます。

 

『現存在のそうした存在可能性が配慮的に気づかう交渉の内部で提示されるとき、そのように閃いてくる現象の跡をたどり、その現象をいわば「引きとめて」、その現象がじぶんにそくしてみずからを示す構造に問いかけることをこころみる、なんらかの途が開かれる。』

 

カンディンスキーは、このあと、「コンポジション」(構成)という名を持つ抽象画の世界を、まさに「構成」していきます。ハイデガーが上の文章で使っている「構造」の原語は「Strukturen」ですが、これは、カンディンスキーの「コンポジション」とは、良く似ているようでやっぱり違う気がする。それは、もしかしたら絵画と哲学の違いなのかもしれませんが……

 

後年、2人の道は大きく分かれ、カンディンスキーはバウハウスの教授となるもナチスに追われてフランスに移住、かたやハイデガーはナチスに深く加担し、その経歴に大きなキズを残す……いずれにせよ、「現代」を拓く作業というものは、やはりものすごくつらい、大変なものだったんだなあ……と思います。

 

では、「現代」の、その先を拓く作業は?……

 

『いままでなんかいも死のうとおもった。でもしんさいでいっぱい死んだから つらいけどぼくはいきるときめた』

 

最近、もっとも心に残った言葉です。

 

原発事故で、今まで平和に暮らしていた福島を追われ、横浜に避難した小学生。新しい学校で、名前に「菌」を付けられるなどのいじめに……どんどんエスカレートして「賠償金あるだろ」と金をせびられ、被害額がなんと150万円に……

 

学校が動かなかったということで避難ゴウゴウですが、テレビである評論家の方が、こんなことを言ってたのが印象に残りました。

『こどもが「賠償金あるだろ」とかいうわけないから、これは、その子らの親が、家でしょっちゅう「あいつらは賠償金あるから」とか言ってたんじゃないかな。』

 

この言葉を聞いたとき、私にはかすかな違和感があった。この評論家の方は、いつも的確な論評で、私はかなり信用してるんですが、このときのこの言葉だけは、「えっ?そうだろうか……」と思った。

 

なんか、こどもを、かなり理想化して見ているんじゃないかな……と感じました。こどもって、そんなに「純」なんだろうか……いや、むしろ、「賠償金あるだろ」は、その子の率直な思いがそのまま表われた表現だったのかも……

 

このことにかぶさって、浮かんできたのは、やっぱり「トランプ現象」ですね。評論家やマスコミ……つまり、「インテリ層」がほぼ全員読み違えた。この「ミス」の中には、先の評論家の方の、「こどもがそんなこと言うはずがないから大人が……」という感覚が、やっぱり重なってきます。

 

大人は、むしろ率直な物言いはしないのではないか……「賠償金あるだろ」と心の中では思っていても、「理性」がそれを言葉にして口に出すのを止める。そんなことを口に出して言うのは、とても恥ずかしいことで、自分が「大人なら当然持っているはずの理性」を持っていないことを公言するようなものだ……

 

しかし……トランプ現象や、世界中での「右翼化」を見ていると、もうすでに、その「歯止め」はとっくに乗り越えられていたのかも……という気もします。「大人のこども化」。これが、社会の深部でどんどん進行していて、ついに表層に表われてものすごい地滑りを引き起こしはじめた……なんか、そんな感じです。

 

日本でも、生活保護を受けている人たちに対して、かなり風当たりがきつくなってきている。私自身、ある人(むろん大人)から、生活保護の受給者を口汚くののしる言葉を聞いて愕然としました。彼は、ある医院でリハビリを担当している整体師で、ものすごく腕がよく、私も受けていて、すっと身体が楽になるのでたいした人だ……と思っていたのですが……話が生活保護のことになったとたんに悪口雑言……あいつらは、働けるのに働かんで、オレたちの税金をかすめとってのうのうと……もう、耳をおおいたいくらい……

 

生活保護だとたしか医療費も免除されるから、彼自身、そういう患者を担当して「なんだコイツ、こんなに健康な身体で怠けて生活保護かよ」と思ったのかもしれませんが……しかし、ここにある構造は、あの事件の「賠償金あるだろ」と同じだ……

 

人間って、心の奥底では、やっぱりいろいろとヘンなことを考えるもんだと思います。現に、今これを書いている私もそうで、もし人に知られたら人格を疑われるんじゃないか……というようなことまでやっぱり思っちゃう。でも「理性」があるので、それを口に出して言うようなことはしません。それこそ「口が裂けても」……

 

でも、それは、一面からいえば「大人」なのかもしれないけれど、他面からいえば「不純」なのかもしれない。自分の「ほんとうの気持ち」をおしかくして、外づらよく世間とつきあってる……いかにも自分が「理性ある」存在のごとく……

 

「隠れトランプ」……この人たちは、典型的にそういうタイプだったんでしょう。ポリティカル・コレクトをよく知ってるから、「理性」でそれに従ってるように見せているけれど……自身の「奥の心」との矛盾に耐えきれない。有色人種ってヤダなあ……とか、同性愛?うえーキモチわるいー……とか、イスラムって、怖いよなあ……とか……そういう「ホンネ」を「理性」で覆い隠して生きてるって、どうなのよ……

 

で、選挙でカミングアウト。ここには、まさに「マイノリティの構図」さえみられる……んだけれど、トランプさんが勝っちゃったから、彼らはやっぱりマイノリティとはいえないのかもしれません……

 

ということで、複雑に錯綜しているようにみえるけれど、見方を変えればものごとは単純で、一言でいうなら、「みんなどんどんこどもになる」ということでしょう。世界中で、これが進行しつつある。人類が、長い間、多大な犠牲を払ってようやく獲得した(かのようにみえる)理性が……もう、みんな、そんなもんにはかまっておられぬ、「奥の心」をストレートに出すのだ……ということで、これからは「こどもの時代」が始まるのかもしれません。

 

私がここで思うのは……やっぱりこれは、明確な「理性批判」なんだと。ついこの間、「パリの同時多発テロから一年」ということで各局が特集してましたが……あのときのフランス市民の対応は、とにかく「理性」なんだと。だけど、自分たちが「究極の価値」であると思っている「理性」が実はものすごい「暴力装置」で、その影に、おびただしい人々が苦しんでいることはまったく省みない。だから、マホメットを平気で茶化すようなことをやって、それは「エスプリ」(知性、つまり理性)なんだという……

 

そんな安物の「理性」は、これから始まる「子供化した人々」の圧倒的な「理性批判」にはとうてい耐えられない。あっというまに崩壊してしまう。はっきり言って、イスラム過激派のテロも、トランプ教徒も、「賠償金あるだろ」もみな同じ。それらはすべて「こども化」した人々による「理性批判」なんだと思います。

 

これからは、その傾向がどんどん強くなる。蓋があけられたら最後ですね。……人間の「理性」は、これに耐えて、生き残ることができるのだろうか……カントが『純粋理性批判』を書いてから200年余。彼が2世紀前に書物の中で試みたことが、今、実践に移されようとしています。たぶん、ホントに悲惨なことになるのでしょうが……

 

みんなが「こども」になっちゃった社会……200年もあったんだから、その間に、みんなでカントが提起した問題を真剣に考えときゃよかったんでしょうが……『純粋理性批判』の書き方が難しすぎたのか……ある意味、カントさんももうちょっとわかりやすく書いてくれていたら……とも思いますが、やっぱりあの時代では、ああいう書き方しかなかったのかなあ……

 

ということで、思いがけぬ「実践」になってしまった。おそらく、これからかなりの間続くのでしょう、「みんなこどもになる世界」。

 

 

 

『いままでなんかいも死のうとおもった。でもしんさいでいっぱい死んだから つらいけどぼくはいきるときめた』

 

最後にやっぱり、この言葉。すごいなあ……小学生の言葉なんですが、これはもう、立派な「大人」の決意表明ですね。今の大人がどんどん「こども化」しているなかで、次の世代のなかに、ちゃんとしっかり「ホンモノ」が育っている。

 

トランプ現象で、世界はどうなっちゃうんだろう……と、みんな不安に思っていますが……私は、この言葉の中に、「新しい時代を開いていくもの」を見た気がします。そして、今のへなへなの「理性」ではなくて、これから開花するホンモノの「理性」のきざし……

 

彼が、この言葉にたどりついた道程……それは、身を切り裂く苦しみだったと思う。ベートーヴェンじゃないですが、やっぱりホンモノは、苦しみを避けては得られない。これからの人類……どんな道を辿るのかわかりませんが、地獄の苦しみの果てに得られるもの……それが、すべての人が納得できる「理性」。そうなるのでしょう……

トランプくん、ついに大統領に……

これで、長かった19世紀もついに終了……

J.S.バッハの死の年、つまり1750年から、なんと266年続いた。

ナンマンダブ……

 

私は、「拡大版19世紀」という妄想?を持っていて、19世紀というのは、実は百年ではなく、数字の19世紀(1801年~1900年)をはさんで前後に伸びているのではないか……と、そう思っていました。(リンク)

 

じゃあ、拡大版19世紀のはじまりは?というと、これは、J.S.バッハの亡くなった年、つまり1750年に置くことができる。これは、私のなかではなぜかすんなりと、疑いの余地のないスタート地点として、ずっとありました。

 

しかし……19世紀の終わりは?というと、これが見えない。第二次大戦の終了した1945年かな?と思ったこともありましたが、でも、戦後の人々の暮らしは、やっぱり戦前の暮らしを継承しているように思える。「暮らし」という観点からすると、ホントに世の中が大きく変わったのは、高度経済成長が終息を見せはじめる1970年くらいじゃないか……

 

しかし、このピリオドも、やっぱり完全に正確とはいえない気がした。はじまりのJ.S.バッハの死の年、1750年にくらべると全然ボケてる。「21世紀」に入っても、なんとなく19世紀がまだ延々と続いている……そんな感じがしていました。

 

しかし、昨日、トランプくんが大統領になった!その報道をきいて、「ああ、これで、あの長かった19世紀が、ようやく終わった!」と、そう感じました。

 

これからは、「素の時代」、「ホンネの時代」になるんだと思います。

 

彼の勝利のかげに、「隠れトランプ」なる人々がいた……そういうことも言われていますが、「オレはトランプに入れるぜ!」というのが恥ずかしい。インテリがそうだったと言われますが……自分の素の部分、ホンネではトランプ氏の言ってることにおおいに共感しながら……でも、やっぱりそれを口に出していうことはできない……なぜなら、それは「理性」に反するから。

 

人種差別、イスラム排斥、女性蔑視、マイノリティ抑圧、保護主義……「白」のオレたちだけが良ければそれでいい、違うヤツらは出ていけ!……こういう考え方は、たしかに「ヒュマ二ティ」には大いに反します。アメリカには、「ポリティカル・コレクト」という言葉があると聞きましたが……これはつまり、「人種差別? そんなのフツーにダメじゃん」とか「女性蔑視? アンタいつの時代の人?」とか、そういう「政治的には当然正しい」という考え方をさすらしい……

 

そこらへんの「低賃金労働者」ならトランプ的な「アホな考え」もしかたないけれど、あんたは立派なインテリでしょ? インテリがそんな考えでいいの?……ということで、「トランプ支持」をなかなか人前で言い出せないインテリ……そういう人が、今回の「大崩壊」のきっかけになった?……

 

あるいはそうかもしれません。しかし、私は、今回の「番狂わせ」は、今、世界で起こっている一つの大きな流れの一環……それも、もっとも目立つ形で突出した巨大な波ではないか……と、そう感じます。

 

イスラム国、テロ、各国が保護主義になって時代錯誤のヘンな右翼が台頭……だれもが自分のことしか考えられなくなって、「社会が悪いのは、オレの暮らしがいかんのは、アイツのせいだ! アイツらが悪い!」と叫びだすこの社会……もう、理想も理性もどっかにふっとんで、みんなが自分やまわりのことしか考えず、ああ、人類って、こんなにナサケナイ種だったのか……と思わず嘆息……

 

しかし……よくよく考えてみれば、その「理想」や「理性」が、それほどに完璧なものだったのか……人類のいろんな考えやものの感じ方を、無条件に突破して「上位」に置かれるほどにすばらしいものだったのか……かなり厳しい言い方になりますが、その「メッキ」がどんどん剥がれつつある……そんな時代に入っているなあ……と、そう感じます。

 

そして……考えてみれば、そういう「理想」や「理性」が、「絶対のもの」として確立されてきたのが19世紀……その「準備」と「残響」の時代を合わせて、1750年から今年、2016年まで266年間も続いた「19世紀」だったのでした。

 

この「拡大版19世紀」のあいだに、人類の科学技術は信じられないほどの「進歩」をとげましたが、それを支え、またその果実によって形成されてきたのが、「19世紀思想」だったと思います。万博やオリンピックもぜんぶここに入る……

 

この長い「19世紀」の間に、人類は、現在「ポリティカル・コレクト」として形成されているさまざまな「理性的考え方」を築きあげてきたのだと思います。たくさんの人々の悲惨な苦しみを代償として……だから、そういう「理性による支配」は、もうすでに盤石なものと思われていた。

 

しかし……人間の心の根っこに根ざすものというのは、そう簡単に、理性ごときにやられて根だやしにされてしまうものではなかったのですね……やっぱり、その傾向が顕著になってきたのは、最近、とくに21世紀に入ってからではなかったか……あの、9.11がツインタワーの崩壊により印象的に世界の人々に見せつけた「アンチ理性」の反乱……それは、世界中で同時に噴き出し……ついに、今年、「トランプ大統領」として結集した。

 

「理性?ポリティカルコレクト?なにをキレイゴトばかり言っとるんじゃ。そんな絵に描いた餅より、もっとだいじなのは、オレの生活が良くなることじゃ!」と叫ぶ人々が世界中に……

 

インテリは、「お前たち、自分のことばっかり考えてて、恥ずかしくないのか!もっと世界全体、人類全体のことを考えないと……ナサケナイやつらじゃのう」と言いますが……そして、21世紀を迎えるまでは、けっこうそういう考えも通用してきたように思いますが……もう、ここに至るとダメですね。で、「理性の大崩壊」が起こって、とうとう「トランプ大統領」……

 

長い19世紀の間に、人類がおびただしい犠牲を払ってつくりあげてきた「理性の殿堂」……それが、あっけなく崩壊した。もう世界中、人々はみな「自分のこと」しか考えられなくなっている。インテリにとっては、これは「世界の崩壊」であり「人類の終末」と映るかもしれませんが、それは、ホントにそうなんだろうか……

 

私は、もしかしたら、もうちょっと違う傾向なんじゃないか……と思います。今まで「理性」でムリヤリ抑えられてきた人々の「ホンネ」がついに噴出……第一次、第二次大戦の「クスリ」がもう切れかかって、戦争を知らない世代が人口の大部分となった今、「苦しみの実感」ははるか遠くに流れ去り……

 

ということで、これからは、「理性というタテマエ」が外れた「ホンネの時代」に入るんじゃないかと思います。人々の「素の心」はいったいなにを求めるのか……それはまた、今まで血と汗と涙で築いてきた「理性」に対する批判にもなると思う。人類が、266年という長い「19世紀」の間に苦労して造りあげてきた「理性」。その正体が、これから明らかにされます。そして、これからはじまる「大洪水」のあとにはどんな世界が来るのだろうか……たぶん私は死んでますが、もしかしたら生まれ変わって、その「新しい世界」にいるのかもしれない……ナンマンダブ。

 

 

オマケその1.19世紀のつめあわせ。理性、理想、理念、民主主義、オリンピック、万博、原子力、宇宙開発、EU、TPP、ポリティカル・コレクト、グローバリズム……いろいろ入ってます。でも……袋に書いてある「賞味期限」、よく見ると、なんと「2016年11月8日」でした。

 

まあ、「賞味期限」であって、「消費期限」じゃないから……ということで、まだ食べられるんじゃ……という意見もあるのかもしれませんが、衰退していくもの、消えゆくものをいつまでも追っかけるのもムナシイことかもしれません。いずれにせよトランプさん、「パンドラの箱をあけた男」になってしまいました。底に「希望」が入っていればいいのだけど……

 

オマケその2.12日のNHKの番組で、日本文学を研究されているロバート・キャンベルさんが、今回の「トランプ現象」について、おもしろいことを言っておられました。正確に再現はできないのですが……今回のことで、「これまで、地球温暖化の会議なんかを普遍的に支えてきた考え方が崩壊しはじめたというのがいちばんの問題」みたいなことを言っておられた。

 

ハッとしました。やっぱり、文学系の人って、見方が深い。今回の「現象」を、単に「分断」とかの表層的な観点からとらえるのではなく、これは、もしかしたら「普遍の崩壊のはじまり」ではないか……と、そんなふうにとらえておられるように思えた。

 

考えてみれば「普遍」というのも、元々からそこにあるものではなく、それはもしかしたら、人類が、長い歴史のあいだに「つくりあげた」ものなのかもしれない。元々そこにあるものを見出すのは「発見」ですが、新しくつくりあげるのは「発明」……

 

はたして、「普遍」は「発見」なのか「発明」なのか……もし、それが「発見」であるとしたら、今回一度失われても、それはなくなったワケではなく、底流にきちんと存在していて、将来またそれを「発見」することは可能です。しかし、もしそれが「発明」だったとしたら……一度失われたものは、もう二度ととりもどせないかもしれない……

 

そうすると、人類の歴史というものは、塗炭の苦しみのなかで、莫大な犠牲を払って、ようやく「普遍」を「発明」したのだけれど……それが、今現在、つまり「2016年11月8日」をピークとして衰退し、失われてしまう……ということは、「人類の歴史のピーク」もまたここにあったのか……

 

どうなんでしょうか……

 

オマケその3.アメリカ大統領選挙だけは、全人類が投票できるようにしてほしい。