個展(
リンク)展示作品紹介の第6弾は、現代美術の世界では知らない人はいない、マルセル・デュシャンの『大ガラス』から、その主要部分である「花嫁」と「独身者」をとりあげて emon 化してみました。まずは、「花嫁」ですが、こんな感じになりました。
そして、「独身者」は、こんな感じ。
デュシャンは、20世紀前半を代表する現代美術家で、フランス生まれですが、アメリカに渡り、ニューヨーク・ダダの中心人物となり、その影響は戦後も続き、その作品の解釈をめぐって、いまなお多くの研究が行われていますが、完全に解明されているとはいえない……もう、その存在自体が一個の神秘現象となってしまっている、「神話の人」……「神話の……」という肩書きはけっこうよくききますが、この人ほどそれにふさわしい人はいないんじゃないかと……
で、彼の代表作とされているのが、通称「大ガラス」(The Large Glass)、正式名称が、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even)という長~いタイトルのガラス作品。高さが3m近くあるでっかいものですが、上下に完全に2分されていて、上が「花嫁のパート」、下が「独身者のパート」となっています。この作品、実は未完で、完成をみないままに作者がお亡くなりに……
作品の全体像は、いろんなサイトで見ることができますが、ウィキの写真がきれいなのでリンクをのせておきます。日本語版は残念ながら内容が削除されてしまっているので、英語版になりますが……
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Bride_Stripped_Bare_by_Her_Bachelors,_Even
この写真で、「花嫁のパート」の左側にある図像が「花嫁」(The Bride)、「独身者のパート」の左側にある群像が「独身者たち」(Bachelors)です。花嫁は一人ですが、独身者は複数形で、数えてみると9人います。デュシャンによると、みなさん「制服」を着用されておられるようで……こんな感じです。
さらによく見ると、9人の独身者たちのそれぞれの頭の部分から細い線が伸びています。この線は、デュシャンが独自に開発した「停止原器」というモノサシの3D投影になっているのですが、その線が右の方で一カ所に集まり、そこには漏斗状の円錐があります(ここから先は、上の絵には出てきません)。この円錐は、弧を描いて7個つらなり、右へ伸びています。右にいくにしたがって色が濃くなっているのがわかりますが、これは、「停止原器」によって集められた「独身者たちのガス」が濃縮されているんだとか……
そうなのです!独身者たちは、頭からガスを漏らす……これって、なんか悲壮というか悲哀というか、独身男性の生理を、その精神的な妄想の部分までそっくりとらえて流しこんでいるような……まあ、アイロニーといえばそうなんですが、それにしても切実な……この「濃縮過程」を稼働させるエネルギーは、独身者たちの右下にある水車によって与えられます(水車は「落ちる水」によって回る)。水車の回転は、ソリのような装置を通じて七つの漏斗の上にあるクロスした2本のバーを開閉させ、その力が、下方にあるチョコレートグラインダー(3つの筒のある装置)を回転させる……
こうして濃縮された「独身者のガス」は液体状となって七つ目の漏斗の先端から発射され、画面右下の部分に落ちて再び上昇し、「眼科医の検診」と呼ばれるリング状の部分を通って、画面を二分するバーを越え、ついに「花嫁のパート」に到達し、銃弾となって打ちこまれます。「花嫁のパート」の右には、よく見ると銃弾が打ちこまれたあとの穴があいてます。一方「花嫁」は、独身者たちの働きかけを受けて、「内燃機関」によって稼働をはじめる……このあたりは、20世紀初頭に登場して、あっというまに世界中を席巻した自動車のイメージがあるのでしょうか……「花嫁」の図像はこんな感じです。
このように、この大ガラス作品は、直接的には男性と女性の性的交渉を描いたものであることはまちがいないんですが……実は、それだけにとどまらず「奥の意味」がいろいろあって、一時は「錬金術的解釈」が話題になりました。まあ、ユングみたいな感じになるんですが……もう、いろんな人が、いろんなことを言ってるうちに、この作品は、どんどん神秘のベールに包まれて……当のデュシャンは、そんな様子を笑ってみているのかもしれませんが、かしましいことです。実物大のレプリカも3体つくられて、その一つは日本の東京大学にあるそうですが……
私は、この作品の実物は見ていないんですが(実物はフィラデルフィアにある)、こどもの頃、美術全集で写真を見て、「なんてヘンな作品だろう……」と思ったことを覚えています。その作品は、美術館にある状態を撮ったもので、背後に窓があって外の風景が見えていた。最初は洗濯物を干した風景の写真?と思って、かなり長い間そのイメージが定着していました。大人になって、現代美術に興味を持ってからいろいろ調べてみたんですが……なんか知れば知るほど、これは無限に奥が深い作品かもしれない……と思うようになって、完全にデュシャンの術中にはまった人の一人に……
私は、やっぱりこの作品は、人間の持っている「芸術衝動」の根元みたいなところにあるものかなあと思います。それはおそらく、身も蓋もない言い方をすれば、常に「性的衝動」とリンクしているんですが……人間の文化って、実はかなりの部分がそこに根ざすのかもしれない……というと、フロイトみたいになるんですが、フロイトのように文章で言われると「ン?それはちょっと……」となっても、この大ガラスみたいな感じで提示されると、「うーん、それはそうかも……」となるからふしぎです。
この作品については、考えたり思ったりすることはそれこそ無限にありそうですが、そのあたりはまた別の機会に……最後に、emon 化してみて思ったのは、やっぱり図像としての構成が、ものすごく考え抜かれているなあ……と。いろんな図像を emon 化してみましたが、図像としての構成は、ゆるいものもあれば緊密なものもある。emon は、基本的に同じ図像をくりかえし描くので疲れますが、図像の構成によって、その疲れ方がだいぶちがいます。総じて、構成のゆるいものほど疲れが大きい……描いていて、だんだんいやになる速度が早いです。
ところが、このデュシャンの花嫁と独身者は、どちらもなかなかイヤにならない。描いていると、なるほど……という発見がけっこうあります。つまり、そこまで形が絞られ、研ぎすまされて提示されている。やってみて、「かたち」というのは、人間の精神にとってはけっして平等ではないなあ……ということを思いました。カメラの目なんかは、それこそどんな形も平等に扱うのでしょうが、人間の目は、そのまま精神につながっているからそうはいかない。われわれがふだん、いろんなものを見ているときも、見るという「積極的行為」において、すでに選択や思考をしてしまっている……
現象学なんかでは、「現象学的還元」(エポケー)ということをいいますが、あらゆるものを、いっさいの価値観抜きに見るということは、これは実は、ほんとうに難しいことだと思います。見たものをなんどもなんどもくりかえし描いてみる……つまりemon 化をやってみると、そのことが実感されてきます。精神によって鍛えられていないかたちはゆるく、すぐに崩れていきますが、このデュシャンのかたちのように、もうこれしかないというところまで突き詰められたかたちは丈夫だ……なんど描いてもびくともしない……スゴイ……と思ってる私は、またデュシャンに笑われているかもしれません。「ン? キミの思いこみなんじゃないの?」とか……