御茶目新聞_17 
2015年(平成27年)4月1日(水曜日) 
新御茶目新聞社 名古屋市中区本丸1の1 The Ochame Times
2015.April.1(WEDNESDAY)
今日のモットー ★その手があったか!
 
自衛隊、米軍に編入へ。
自衛隊基地を米軍基地化。隊員は全員米国籍取得。
日本から「軍隊」消滅 九条問題も解決へ


AB内閣は、日本の自衛隊を米軍に編入すると発表した。すでに米軍、米政府とも合意ができており、年内に編入作業は完了するみこみ。自衛隊員は全員日本国籍を離れ、米国籍を取得する。また、国内の自衛隊基地はすべて米軍基地となる。なお、隊員の給料や装備品など、関連予算はすべて日本側の「思いやり予算」でまかなわれる。
自衛隊が米軍に編入されることにより、日本国は「軍隊」を持たない状態となる。したがって、ここに、日本国憲法九条の条文との間に完全な整合性が実現されることとなった。また、議論の多かった集団的自衛権の問題も、問題自体が消失することとなった。
さらに、国内の自衛隊基地がすべて米軍基地となるため、これまで沖縄にかたよっていた「米軍基地比率」が日本全体に分散され、「本土の沖縄化」が実現されることとなった。米軍編入後も隊員・基地・装備はすべて日本に残るため、安全保障面には全く問題は生じない。
また、靖国神社は米国のアーリントン墓地所属の慰霊施設となるため、「靖国問題」も根本的に解決された。
予算面からしても、これまで米国から買いつけていた高額装備品がすべて「国内調達」となるため、かなりの金額が浮くのではといわれている。
またさらに、日本は軍備を全く持たない国となるため、近隣諸国、とくに韓国と中国にも、この決定は好感をもって迎えられるものと期待され、「近隣外交」にも大きく資することとなる。

ABソーリの談話
ボクって、アタマいーよねー!なんでみんな、この手を思いつかなかったんだろー?
石原元都知事の談話
ナサケナイ!

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最近のニュースを聞いていると、「自衛隊米軍編入」の一歩手前まで行ってるような気がします。まあ、身分的には「日本軍」なんでしょうが、実質は「米軍の一部」になろうとしている……そういうことなら、名目上も「米軍」になった方がスッキリするんじゃありません?ということです。いちばんいいのは、憲法九条との整合性が完全に取れるということ。これは最大のメリットではないでしょうか。日本は、この理想的な憲法を失うことがないし、かつ「安全保障」は今までどおり、いや、今まで以上に強固になる……なんせ、「米軍」がいっぱい日本にいることになるんだから、どこの国もうかつに手を出せない……と思っていると、かえって攻撃目標になったりするから、実際はやっかいかもしれませんが……中曽根さんが言ってた「不沈空母」そのもの……とすると、どっかの国なんか、すぐにミサイル打ってきそうな気もしますし……

それと、「集団的自衛権」の問題が雲散霧消するのも大きいかなと。もう、「米軍」になっちゃってるんだから、「集団的」というのはありえないわけで……「沖縄問題」も、本土と沖縄が、より平等な状態に近づきます。ただしこれは、「本土の沖縄化」という「最悪の」方向への平等なんですが……「靖国問題」は、アーリントン墓地付属の慰霊施設とすれば根本解決でしょう。今まで祀られていた「英霊」にもすべて米国籍を与えれば、全員「米軍英霊」に昇格?できます。難しいのは、太平洋戦争で米軍と戦って戦死した方々の「英霊」ですが、これは、太平洋戦争を米国内の「内戦」と考えればいいのかなと。「内戦」が終わればすべて「自国の兵士」ということで……ただ、「A級戦犯」は難しいかもしれませんね。なんせ「内戦の指導者たち」ということになるから……「A級戦犯」は祀らないということにすれば、さらにさらに問題は解決へ……

これから、いろんな国と戦争をやるようになると、「戦死者」をどこに祀るか……それは大きな問題になると思います。今の自衛隊では、「戦争しません」がタテマエなので、たとえ戦闘行為に巻きこまれて亡くなっても「戦死」にはならず「事故死」なんですと……「実質戦死」の「事故死」であっても、靖国に祀られることはなく、それぞれの家のお墓に入る。市ヶ谷駐屯地の慰霊碑で慰霊されることはあるらしいですが……1968年に事故死した自衛官の方が、遺族の反対にもかかわらず山口県の護国神社に祀られてしまったという例があって、裁判沙汰になりましたが……護国神社は靖国神社の地方組織みたいなもんですから、そこまでは行っても、なかなか「靖国へ……」というところまではいかないようです。しかし、自衛隊が米軍の一部になり、靖国神社がアーリントン墓地の付属になってしまえば、これはもう自動的に「靖国へ……」ということに……

「戦争」は、一歩一歩、確実に近づいていますね。「世界秩序の組み替え」なのか……日本は「もう二度と戦争はしない!」という決意で戦後を踏みだしたんですが、それは、実は、「もう二度と<アメリカとは>戦争はしない!」ということだったのでした……ふつう、「軍隊」を持ってるということは、「自分以外」のどことでも戦争をやりまっせ!ということを即意味すると思うのですが、その中に一国だけ、「絶対にココとは戦いません」という国がある……というのはオカシナことで、もし、そんなことが実際にあるんだったら、その国は、タテマエ上は独立国でも、実質は「ココだけは……」というその国の「属国」であるということになります。ABくんは、「日本の自衛隊がアメリカに助けてもらうなら、米軍を自衛隊が助けてこそ平等」みたいなことを言ってますが、軍隊同士であれば、「いつでも敵になりまっせ」ということがあってこそ「平等」じゃないですか。

一方が他方に向かって「アンタとは絶対に戦争しません」という。しかも、「武力」には圧倒的に差がある……これで「平等」なワケないじゃないですか……ということで、「米軍とは絶対に戦いません」というのが「自衛隊」なら、それは実質「米軍そのもの」であるということになります。だったらとっとと「米軍」になっちゃったらいいのでは……ナサケナイ話ですね。「維新の志士」たちが聞いたらどー思うでしょーか……自分たちは、こんなナサケナイ国をつくるために命をすててしまったのか……残念、悔しい……今の自衛隊の中にもそう思ってる人は多いのでは。アメリカとだけ、なにがあっても戦争できないなんて……それで独立国の「軍隊」といえるんだろうか……「北」は平気でアメリカを敵に回すと宣言してますが、「軍隊の姿勢」としては、あっちの方が絶対に正解だと思う。やっぱり、「軍隊」は、持ってしまったら最後ですね……

私が毎日ご飯を食べているお茶碗です。「YOKOHAMA CHINA」と書いてあって、Oの字が桃になってます。もう20年近く前に、名古屋のお店で買いました。白い陶器製(もしかして磁器製?)の小ぶりなお椀で、けっこう気にいって長く使っています。見込み(内側の底)に中国風のかわいい建物の絵があって、山や雲なんかも中国の山水画風?雷文まである……「横浜チャイナ」というからには、横浜のチャイナタウンと関連があるんでしょうか……

ということで、調べてみてもよくわかりません。少なくとも、検索上位にはあがってこないなあ……もうこのメーカー(あるいはブランド?)、つぶれてしまったんだろうか……買った当時は、ご飯茶碗だけじゃなくて、お皿とか湯のみとか、この絵柄でいろいろ並んでいたという記憶があるのですが……売ってたお店の方ももうないみたいですし、今となってはこれ一個しかない「幻になりかかっているお茶碗」? だいじにしないと……ちなみに実物はこんな感じです。


お茶碗で思い出すのは、宮崎さんの『もののけ姫』でアシタカ(北の国の青年)が旅をしているときに、ジコ坊(あやしい旅の坊さん)と火を囲んで夕餉のシーン。で、アシタカが取りだしたのが「マイ茶碗」。当時は、自分のお椀を持って旅をする習慣があったんでしょうか……その茶碗は、陶磁器製ではなく木製、つまり木地椀でした。なるほど……陶磁器だと重いし、ちょっと落としたら割れてしまう。木製なら軽いし、落としてもだいじょうぶ……

なんとなくデッサンがおかしくなってしまいましたが、こんな感じかな……このお椀、けっこうふしぎな形をしています。これを見て、ジコ坊が「みやびな茶碗だなあ」とかいう。「ン?みやび??」ということで、ちょっと調べてみましたら、このアシタカの木製のお茶椀、弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡で発掘されている、高杯(たかつき)という器にちょっとかたちが似ています。むろん発掘品の方は木地椀ではなく土器なんですが。

このかたちは、今は仏具なんかに残っているようですが、弥生時代から古墳時代にかけては、「だいじなところはグラウンドラインから浮かせる」という考え方があったのでしょうか……この高杯のかたちは、高床式の建物なんかとも共通点があるような気がします。アシタカの時代、つまり室町時代には、もう、こういう形は古代の……というか、神々の、あるいは貴人の器のかたちになっていたのかもしれません。だからジコ坊が「みやびな」といったのか……

アシタカは、おそらく東北地方(当時の蝦夷?)から日本列島のほぼまんなかを、山の尾根ぞいに伝って関西、さらに中国地方まで旅をしてきたという想定でしょうか。当時の日本においては、関西を中心とする列島中央部はすでに「文明開化」が進んで生産力も高まり、都市の開発も進行していた。しかし、列島の東北の端と西南の端には、まだ古代の文化が残されている……アシタカは「西の森」の危機を悟って列島を西南に下りますが、その地では……

戦国武将の争い……そして、それに伴う古代の文化の破壊……「シシ神の森」は、近くに、たたら製鉄を行う城塞のような村落があるところを見ると中国地方(おそらく出雲?)という想定なのかもしれませんが、このあたありが、「古代」と「中世」の(あるいは近世の)境目という想定だったのか……いずれにせよ、この物語は、ある面では「日本の近世化」(平安末期から室町、戦国時代)を描くものであり、アシタカの「みやびな椀」は滅びゆく古代の象徴……

そして、時代が江戸期にうつると、今の飯茶碗につながるプロトタイプの茶碗の形は完成の域に入りますね。でも、やっぱり現在の飯茶碗と、その形状はどっか違います。NHKの『美の壺』という番組でそのことを詳しくやっていましたが、明治になるまでの飯茶碗の形は「半球形」が基本だったとか。それが、明治期以降はどんどん底が浅くなってきて、今の皿形に近い、口が広く底の浅い形に近づいていきます。番組では、この「茶碗の形の変遷」を……

その中に盛られる「主食」の変遷と関連付けていました。つまり、明治になる前は、庶民の主食はヒエやアワなんかの雑穀で、しかもそれを粥状にして食べていた。だから、流動物を盛りつける飯茶碗の形も汁椀に近い半球状の底の深いものでなくてはならなかったのですが、それが、明治期以降、庶民も、炊きあげた白い飯、銀シャリを普通に食べるようになる。この「主食の変化」にしたがい、底が浅く、皿に近い形の茶碗にご飯を盛りあげるスタイルが一般的に……

おそらく当時は、「白いご飯」と「底が浅い飯茶碗」はセットになって「進んだ、いい暮らし」を象徴するものだったんでしょう。江戸時代の、底が深い半球状の茶碗には「白いご飯を食べられなかった時代の暗い記憶」がまとわりついていたのかもしれません……日常、なにげなく使っているご飯茶碗のかたちにも、こんな「歴史」があったとは……私が愛用している「YOKOHAMA CHINA」の小さなお茶碗の形も、まさに底の浅い現代風だ……

これがどんどん進行すると、ついにご飯も皿で食べるようになるのでしょうか……そういえば、昔のデパートの食堂なんかで洋食を頼むと、ご飯は皿に盛られ出てきました。でも今は、街の食堂で「ナントカ定食」と注文すると、ご飯は普通にご飯茶碗に盛られて出てくる。しかも、家庭で使っている広口の底の浅い飯茶碗ではなく、けっこう底の深い丼風の茶碗だ……これって、江戸回帰?……いや、これはむしろ、「丼もの」への接近とみるべきか……

たしかに丼の器は今でも底の深い半球状になっています。「たくさん入る」ということがポイントになってるからなんでしょうが……ということで、底の浅い現代風の飯茶碗の形態は、「家の食事のマイ茶碗」としてのみ定着しているといえるのかもしれません。そして、これはまた、「ご飯はあんまりいらないや」という現代的な食生活の象徴でもあるような気がします。でも、このかたちは、使用頻度が減っても、「マイ茶碗のかたち」として残っていくのか……

うちにくる、宗教勧誘のNさんです。毎週木曜日の午後2時きっかりに、おだやかな声で「こんにちは」と……もう、ホントに2時ピッタリなので、いつもおどろいてます。今、テレビでは、昔のように時報を流しませんが、それは、デジタル化でパケット送信になったためにホントのリアルタイムにならず、ごくわずかにずれるからだとききましたが……そういうナサケナイTV事情に比べますと、もしかしたらNさんの方がはるかに正確かもしれない……そう思わせるほど2時ピッタリ……

ソフトをかぶり、スーツにネクタイ。アタッシュケースを持ったすがたは、どこかの大手企業の部長さんみたい……なんですが、もうリタイアされて久しく、今はもっぱらみずからの宗教に身を捧げる日々なんですと……肉付きのよい精力的なお顔とハリのある声は、まだまだお若いなあ……と思うのですが、お年はもう70半ばとか。お元気ですねえ……で、Nさんの宗教はなにかというと、「ものみの塔」。キリスト教の一派のようですが、フツーのキリスト教とはかなりちがうようで。

「ものみの塔」は、今はもっぱら「エホバの証人」と名乗ってらっしゃるようですが、たぶん、自分たち以外のすべてのキリスト教徒を否定してらっしゃる。もちろん仏教とかイスラムとかは異教の極地……けっこう過激です。まず、三位一体を認めない。ここで、もう紀元325年の第1回ニカイア公会議にまでさかのぼってしまいます。この公会議では、キリストが「神」であることを認めないアリウス派が敗れて、神とキリストはホモウシア、すなわち「同質」であると確定されたのですが……

Nさんたちは、これを否定します。うーん……じゃあ、キリストは、いったいどういう方だったんですか?と問うていくと、最後にオドロクべき答えが……なんと、キリストは、大天使ミカエルだったんだと……これ、なんかスゴイです。こんな答えは予想もしてませんでした。へー、そう考えていたのか……と。Nさんたちは、もうとにかく「聖書原理主義」で、聖書(新約+旧約)がすべてだから、聖書に書いてある記述からこの答えを導いたんでしょうが……その詳細は忘れましたが……

もう、この時点で、他のキリスト教徒とは相容れない。カトリックもプロテスタントも、他の多くのキリスト教も、神とキリストと聖霊は一体であるという、いわゆるトリニティから出発しますから、出発時点そのものがくいちがってる……まあ、そのほかにも、「フツーの」キリスト教と異なるところはいっぱいあるようですが、おそらくこの点がいちばん決定的なちがいだと思います。ここが否定されるようなら、もう「キリスト教」とは呼べないかもしれないのですが、ここで思い出すのが例のグノーシス……

グノーシス主義は、キリスト教の範囲に限られない、もう少し広いエリアを持っているようですが、これがキリスト教に適用された場合、イエスはむろん神とは異なる存在です。ただ、グノーシス主義のキリスト教の場合、一般的に「旧約の神」を否定するので、この点はNさんたちの考え方とは大きく異なります。Nさんたちにとっては、旧約の神も新約の神(イエスの神)もむろん同じ存在なんですが、グノーシス主義からみると旧約の神は、実はデミウルゴスで、偽の神であると……ホントの神は身を隠して、この世界の創造はデミウルゴスによって行われたんだと……

なので、グノーシス主義によれば、この世界は偽の神によってつくられたんだから、悪がはびこる世になるのはアタリマエ……で、キリストは、身を隠してしまった「本当の神」から、この「悪の世界」で苦しむ人間を救うために遣わされた存在なんですと……細かいところはグノーシスの中でもいろいろ違うみたいですが、だいたいこの線が基本になってるようです。したがって、Nさんたちの考え方は、ここでグノーシスとも大きく異なっている……神は、ずっとエホバ(Nさんたちの発音)で一貫していて、キリストは、この神から遣わされた存在(実はミカエル)だということで。

ここらあたり、キリスト教徒ではない私にとっては、どうしても「宗派内の争いじゃん」としか思えないんですが……まあ、「絶対神」を立てる考え方からいけば、「絶対に」ゆずることはできない大事なポイントなんでしょうね……とにかく、聖書をものすごく詳細に読みこんでいらっしゃる。こちらがちょっと「ナニナニで……」というと、「それは、ナントカの第何章の第何節にこう書いてあって……」ときます。スゴいです。かなりのお年なのに強烈な暗記力……聖書って、新約と旧約を合わせると5㎝くらい?の厚さになりますが、そこから記憶で瞬時に引用……スゴイ……

ということで、訪問のたびに一時間くらい、熱く語って帰っていかれます。大阪生まれだそうですが、関西なまりのまったくない、みごとな標準語(というか東京アクセント)。これも、いろんな人に「正しく神の教えを述べ伝えたい」ということでみずから矯正されたそうな……スゴいです。私には絶対にできない……ということで、タイヘン立派な方なのですが……うーん、ただ、強制力がすごくて、毎回「ついてけない感」に満たされる……本人はツユほどもそんな風には思ってらっしゃらないと思いますが、もう教条主義、原理主義の強烈な嵐で、こちらはもうタジタジ……

「教え導いてあげませう」という「上から目線」のカタマリなんですが、どことなく憎めないのは、やっぱり本人が純粋にそれだけを追求してやまない……そのためには、自分の関西なまりも徹底的に矯正して……そんな姿勢なのかな。今の時代、すべてがいいかげんで、人は、自分の死が訪れたときにはじめて慌てふためく……まあ、Nさんが「みずからの死」をどう受けとめられるかはわからないのですが、毛嫌いされる「宗教」も、やっぱり「存在の核」の部分では、どんな人でも「宗教的感情」は、多少は持つんじゃないでしょうか……宗教を嫌って「人前結婚式」をする人もいますが、それでもやはり、多かれ少なかれ、「儀式的雰囲気」は漂う……

人間、身を正すというか、エリを正すというか……そういうときは、だれにでもあって、そこには、遠くから漂ってくる焼き鳥屋のにおいみたいに「宗教的感情」がそこはかとなく生まれてしまう……そういうものから完璧に逃れられる人はいない以上、私はNさんのことを「狂信」といってわらうわけにもいかないと思います。これ、いったいなんなのでしょう。悪と善。信念。そしてその信念の強制……人と人の争いって、「ちょっと、それだけは許せんなあ……」というところから起こってくるような気がします。「いいですよ、お互いに自由なんだし……」ということで、どこまで行けるのでしょうか……とにかくこれは「微妙な問題」だと思います。

それともう一つ、Nさんたちに特徴的な考え方は、「終末は近い」ということで、これは要するに「終末論」です。まあ、キリスト教はもともと終末論で、最後の審判があって、「良い実」と「悪い実」がよりわけられ、良い実は天国に……そして、悪い実はどうなるのかというと、Nさんたちによれば「存在そのものが消滅する」ということらしい……要するに、肉体はおろか、魂までなくなってしまう……完全消滅なんですと。コレがこわくて神を信じる……そうだったら、神はヤクザの脅しと変わらないわけなんですが、そう言うと、Nさんはさすがに不快そうでした。でも、「異教」の私からするとそう見えます。「恐怖による支配」の要素はけっこう強いかも……

で、Nさんたちは、この「終末」がごく近い将来に到来すると考えておられるようです。戦後しばらくは、「ハルマゲドン」を喧伝して、終末の年号まで確定して「悔い改めよー」とやっておられた時期もあったらしいんですが、その「終末の年」がなにごともなく過ぎてしまったので、戦術転換して、「ハルマゲドン」はあんまりいわないようにして、終末の年号なんかもむろん封印して、終末論はできるだけ表に出さない方針に切り替えられたそうですが……まあ、「ハルマゲドン」なんか、別の宗教が「実践」しようとしてタイヘンなことになって、それ以来、かなりイメージの悪い言葉になってしまいましたし……過激な中でもちょっと「穏健路線」に転換か……

でも、集団の中というか、個々人の頭の中ではガッチリ「終末論」が確立されているのはまちがいありません。まあ、人は、「終わり」を区切ってもらわないと「立派な生活」はできないということなのかもしれませんが……新約聖書の最後に置かれている『ヨハネの黙示録』がけっこう典拠になってるみたいです。この書のことをNさんたちは『啓示の書』と呼んでおられますが、たしかに原語(コイネーのギリシア語)からするとこの訳でないといけないのでしょう。ヨーロッパの各国語の訳もみなそうなっている。「黙示録」というのは日本語だけにある意訳のようですが、このあたりも「聖書、きっちり読みますぜ」というNさんたちの心意気は伝わってきます。

まあ、それはともかく、この「終末論」くらいやっかいなものはありませんね。年号を区切ると外れた場合に複雑な言い訳をしなくちゃならないし、かといって「近い将来」とばっかり言ってると、あんまり士気があがらないし……でも、以前の痛切な失敗に懲りて、このあたりはウヤムヤにする作戦に転換されたようで……まあ、客観的にみれば賢明なご判断なのかもしれません。……ということで、Nさんは今日もどこかを回っておられるのでしょう。定年後の自由な時間をすべてこの活動に費やすと語っておられましたから……で、こんどの木曜日にはまた、2時かっきりにうちの玄関で「こんにちは」と……それにしても、私自身もよくおつきあいするなあ……と自分でも思います。まあ、キリスト教のことはいろいろ勉強できますが……