本のドミノ倒しについて、もう少し書いてみます。

いちばん最初の本は、いばれるんだろうか……たしかに、いちばん最初の本が2番目の本を倒し、2番目の本が3番目の本を倒し……ということで、何千冊、何万冊の本が倒れていく……その最初のきっかけとなる本が、1番目、最初の本であることははっきりしている。なので、このマンガみたいに「オレはすべての本を倒すが、どの本にも倒されないんだゼ」といばることは可能かもしれません。

しかし……最初の本も、やっぱり「倒される」ということには変わりがない。それは、本からではないにしても、なにかの「外部存在」から……しかも、自分が倒されるタイミングを、自分自身で「コントロールできない」。ここ、重要だと思います。最初の本が「さあ、オレを倒せ」と命令して、その命令によって倒されるのではなく、自分がまったくあずかり知らないところからくる「力」によって……

有無をいわさず倒される。しかも自分のまったく計りえないタイミングで……世の中、いろんな人がいて、いろんな社会的地位があって、「上」にいけば自分の命令で、たくさんの人が動く……私は「上」にいったことがないのでよくわかりませんが、ここで、錯覚をすることもあるんでせうか……「オレは偉い」とか……でも、「本」であるかぎりは「本」であることを逃れられない。この点では他の本とまったくかわらない。要するに、「ドミノの一つのコマ」にすぎません。

この問題、以前にとりあげた「デミウルゴス」のことを思いだします。プラトンに出てくる「創造神」なんですが、実はニセの「創造神」で、彼自身も「造られたもの」であって、ホントの「唯一神」は別にいるんですね。しかしデミウルゴスは、自分が人間や動物や、あらゆるものを自在に造れるので、自分自身を「唯一神」であり「最高神」であると錯覚しているわけです。こういう「ヘンな神様」が造ったので、この世界は悪のはびこる「ヘンな世界」になっちゃった……

ここで思うのは、たしかに、「この世界」にかかわりをもって、つまり「この世界」の中に手をつっこんで、いろんなものを造る……そういう行為をやるかぎり、それをやる者は、「この世界の中のもの」であって、他のものと本質的な違いはないんじゃないか……この点ですね。なので、「造物主」とか「創造神」といった瞬間に、それは「この世界のもの」になる。いくら本人が、「オレはこの世界を超越した最高神じゃ」と思っていたとしてもですね……

本のドミノのたとえを見るならば、最初の本は、他のすべての本を倒す「第一動者」なので、「オレがすべての本の支配者」みたいな錯覚を持つのかもしれません。しかし、彼もまた倒される。その動きによってしか、他の本が倒れるということが発生しない。そうである以上、彼は、<本質的>には、他のいずれの本とも変わるところがない。ちなみに、「第一動者」というのはアリストテレスの用語だと思いますが、ちょっとウィキとかで調べてみますと……

ギリシア語の原語だと、「ト・プローテー・アキネートン」ということで、英語に直せば「first mover」なんだそうです。これはわかりやすい……まさに、マンガの最初の本だ……まあ、ここで、ホントの「第一動者」は、「最初の本」をつん!と突いたイカくんじゃないの?と思われる方もおられるかもしれませんが……それは、また後で……ということで、この「第一動者」は、「第一原因」(プローテー・アイチア)とか「不動の動者」(ト・キヌーン・アキネートン)ともいうそうです。

「不動の動者」というのは、要するに、自分は動かずに、他のものを動かすもののことをいうそうな。しかし、そうなってくると、これは上のマンガの「最初の本」には当てはまらない。明らかに、自分が倒されるという動きで、他の本を倒す(動かす)ということだから「不動」じゃない。じゃあ、最初の本をつん!とやったイカくんはどうかというと、この方も、明らかに自分が動いているので、「不動の動者」とはいえませんね……そうなってくると、「不動の動者」っていったい……

ここで私は、やっぱりプラトンの「デミウルゴス」のことを思いだしてしまいます。デミウルゴスは、自分が「この世界」の造物主であると錯覚するんですが、「この世界」になんらかの仕方でかかわっていろんなものを創造するかぎりにおいて、「不動の動者」ではありません。そうなると、ホントの「不動の動者」というのは、やっぱり「見えない神」の方なんだ……こちらは、「世界にかかわること」はいっさいデミウルゴスにまかせて、自分は楽隠居??

世界には、いっさいかかわらないし、手を出すこともむろんありません。ただ、グノーシスでは、この神が、デミウルゴスが造った(というかデミウルゴスに造らせた)世界のあまりの悲惨さを見るにみかねてイエス・キリストを「派遣」する……ということになってます(キリスト教グノーシス主義の場合ですが)。ここらへん、ちょっとビミョーで、それって代理人にやらせて卑怯じゃないの?とか、じゃあキリストって、どんな存在なの?とか、いろいろギモンが湧くわけですが……

で、ここからは、最初の本と、それを突っついて倒したイカくんとの関係を考えてみます。最初の本が、「倒される」という点では他の本とまったく変わりがないのは明白ですが、じゃあイカくんはどうなのか……彼は、別に倒されたワケじゃないから、最初の本や他の本より「上位」の存在なんでしょうか……でも、同じ世界にいて、自分が動いて最初の本を倒しているわけだから、この点では、デミウルゴスみたいに「実はいっしょなんじゃない?」みたいな存在なのか……

最初の本は、自分が他の本より「エラい」と錯覚していたとしても、自分も倒されるし、そのタイミングもコントロールできない。しかしイカくんは倒されないし、最初の本を倒すタイミングを「自分で決められる」。つまり、自由意志を持っているかのように一見みえる。しかし、ホントにそうなんだろうか……実は、彼は「倒す係」にすぎないのであって、彼に指示を出して倒すタイミングを決める人物が他にいるかもしれません。そうすると、イカくんもまた自由意志がない……

じゃあ、その「カゲの人物」がホントの「神」なのか……いやいや、彼もまた、いろんな条件に縛られて、「ある範囲内」で倒すタイミングを出しているかもしれません。本を全部並べ終わらないと「go!」と言えないし、本の整列が完了しても、カメラの準備がまだかもしれないし、見物人が揃っていないとダメだったりするかも……と、いろんな条件を考えていくと、結局、この「本のドミノ」は、すべてにおいていろんな条件が重なっていて、「なにからも自由な、ホントの自由意志」を持った者というのは、ここには存在しえないんじゃないかと……

つまり、一つの世界の中では、「オレは完全に自由」で「他を完全に支配してるゼ」という存在はありえないワケです。とすると、「オレがいちばん」と思いこんでる最初の本と、イカくん(および他のスタッフ)とのちがいはなんなのか……これを考えてみる必要がある。やっぱり、最初の本とイカくんでは、なにかが決定的に異なる。それは……最初の本は、「ドミノの系列」の枠内だけで「オレはなんたら」といろいろ考えてるんだけど、イカくんはその系列の「外」にいて、系列全体を、それが属する「世界の中」で見渡し、考えることができる……

そこなんじゃないかと思います。なので、イカくんの心の中には、「このドミノを成功させなくちゃ」という思いがメインなんでしょうが、「本を、こんなドミノに使っていいのかなあ……」という思いも湧くかもしれません。要するに、自分が今、とりかかろうとしている仕事に対して、それを阻害するような「逆の思い」だって自由に湧く。だけど、ドミノの系列の中に組み入れられてしまった本には、そのへんはどうなんでしょうか……本を「ブッタイ」と考えれば、そういう思いはない、としかいいようがありません。というか、あっても検知できない。

イカくの場合、自分の心の中の葛藤が大きくなれば、当然行動に変化が出てくる。「本って、こんな目的のタメに使っちゃダメなんじゃ……」という思いが募ってくれば、「3、2、1、Go!」という指示があっても動かず……「オイ、聞えてねーのかよー」とか言われてビクッ!として指示を出した人の方を振り向き、「で、で、できねえ……オイラには、こんなこと、できっこねえ……」とか必死の思いで言ったりするかもしれません。まあ、いくら彼がそう言っても「ナヌ?できねえだと?じゃあ、おめえはひっこんでな」といってかわりの人に指示を出す……

で、代わりの人がやろうとすると、イカくんは敢然としてそれをはばむ。「だめだ、やっちゃだめだ、本をドミノにするなんて、バチがあたるだ!」とか言って涙ながらに止めようとするが、スタッフ全員に袋だたきにされて簀巻きになって寒い川にポイ……いささか想像力が暴走?しましたが、イカくんはこういう「行動」をすることもできる。それはやっぱり「自由意志」であって、そこで彼は「自由な存在だ」と叫ぶわけですが……でも、本には、これはできません。本がドミノをいやがって、系列から「逃げ出す」……それは、現実には起こらないでしょう。

要するに、ここで、本は、「自由意志」を根源的に喪失しているというか、自由意志とは無関係な状態に、ハイデガーの言葉でいえば「集--立」(Gestell)されてしまっているワケです。つまり、「ドミノ」に最適な状態に「集--立」されていて、それ以外の状態を取りようがない。これに対して、イカくんの方も、同じく「ドミノ倒し係」として「集--立」されているんですが、土壇場になって「イヤじゃ!」と逆らうことができる。つまり、「自由意志」を爆発?させることができてしまう……これは、もしかしたらなにかが根源的に違うんだろうか……

ハイデガーは、結局「存在」ということをモンダイにするんですが、彼のいう「存在」というのは「存在者」とはちがうということのようです。原語でいうと、「Sein」(ザイン)と「Seiend」(ザイエント)のちがい、みたいなことらしいんですが……だから、本の方も、たとえば、ドミノの系列の中の1冊の本の著者が会場に駆けつけて「オレのだいじな本をドミノなんかに使うんじゃねー!」とか言って身体をはって阻止すれば、それは本の「Sein」なのか……それって、著者の「Sein」なんじゃないの?と言われそうですが、自分の書いた本の「運命」によって著者が動かされているとも考えられないだろうか……(ン?考えられないですか……それはそうかも)

もうすでに、なにを言ってるのかワケがわからなくなってきましたが、要するに、この世界では、本のドミノみたいにみんなが「一連の系列」の中に並べられていて(集--立)、「最初の動者」というのが結局わからなくって、みんな、なぜかわからないけれど「要求されていること」をこなすように「命令」されている……そして、他にそれを「要求」し、「命令」する……それが、この世界の「あり方」であるという、すごくアタリマエのことなんですが……しかし、それを、ハイデガーさんは「存在の忘却」なんだという。社長も部長もヒラも、みんな「系列」に「集--立」されていて、いちばん大切な「存在」を忘れてしまっているんだと……

「あいつらいいよなー……オレらは不幸だよな……」こういう思いって、今、この世界に働いている人はみな持ってると思います。自由にお金と時間を使って、自由に人生を楽しむセレブ生活……それに憧れている人の、いかに多いことか……自分が苦しいのは、どっかで楽してるヤツがいるから……ここで、昔は、「じゃあ、ヤツらを倒せ!」となったんですが、今は、「なんとか這いあがってヤツらになるだ!」ということらしい。でも、結局どっちでもおんなじことであって、ハイデガーさんに言わせれば、「キミたちみんな<存在>を忘れてるんだよ」と。ハイデガーさん、<存在>って、なんですか?

「それは、オレの本を読めばワカル」と言われそうですが、そうなると、今、いろんなブログで「つづきはココ、をクリック」みたいな誘導リンクと変わらない気もします。クリックすれば家元にはいくら……なのかな? ハイデガーさんはもうお亡くなりになってるので、印税は翻訳者や出版社に入るのかもしれませんが……それは冗談ですが、現在、人間の世界のすべてが、はげしく「本のドミノ」化しているのは事実ですね。もう、コンテンツの「神秘性」はとっくに剥がれ落ちていて、その場で楽しめればいいや……という……逆に、重要になっているのがアーキテクチャの方で、こっちにはやたらにお金をかける……

要するに、本をどれだけ並べてドミノにできるか……もう、本のコンテンツなんてどーでもいいワケです。「これをきっかけに読書を……」なんて言い訳にしてますが、ホントにその本の内容を大切に思ってたら、やっぱりできんでしょう。内容はいろいろありますが、とにかくギネスに乗るだけの冊数をきちんと並べてスムーズに倒す……こっちの方がとりあえずだいじ……これって、まさに「存在の忘却」だ……本は、もはや「ドミノ集--立」しかなくって、その「集--立_構造」のためのアーキテクチャの構築……これ、やっぱり、今の世界の縮図ですね。半世紀以上も前に、世界がこうなっていくことを「予言」していたハイデガーさんは、やっぱ、タダもんじゃないなあ……かなりコワい人ですけど。

このあいだ、テレビで、「本のドミノって、どう?」みたいな番組をやってました。岐阜市立図書館のオープン記念イベントとして、本を並べてドミノ倒しをやるという企画らしいですが、これに対して賛否両論が……「本でドミノ?とんでもない!」と怒る人と、「おもしろそう……いいんじゃない」と寛容な人と……図書館側としては、各家庭で読まれずに眠ってる本を集めてまわって、それでドミノをやって、後は古書店に売って収益で図書館に入れる本を買う……ということで、「これをきっかけに、本を読もうという人が少しでも増えれば……」ということらしいです。

まあ、今は、「本離れ」というか、みんなネットにいって、本を読まない。出版社も書店も苦しい……ということで、世界中でこの「本のドミノ」をやっていて、ギネスには今のところ、2015年1月にイギリスで記録された5318冊が……岐阜市立図書館は、これを超えようともくろんでいるらしいですが、さて、あなたはどう思います? いくら「読書喚起キャンペーン」だといって、本でドミノをやっていいの? 実際の映像(シアトル公共図書館)がyoutubeで見られますが、このときは2131冊。でも、けっこうスゴイです。
リンク

テレビで見たときから、ヤだなあ……と思っていたんですが、この映像を見て、ますます下ー呂下呂という気持ちになりました。本って、こういうことに使うもんじゃないですよね。かなり傷みそうな……いや、それ以前に、中身にカンケイなく「ブッタイ」として扱ってる……というところで、やっぱり私は、本に、「ブッタイ以上のなにか」を感じてるんだなあ……ということが、自分でわかってきました。ちょっと極端にいえば、「人格」をドミノ倒しされてる気分……たとえば、人間を並べてドミノ倒し……でも、これは「ありうる」という気がします。ただし、参加者がみな納得して、自発的に参加しているかぎりにおいて、ですが……

本のドミノは、人のドミノより、根源的に「ヒドい」気がする。人には、「自由意志で参加しますか?」ときくことができるけれど、本には聞けない。各家庭に「眠っている」本が、「強制的に」徴発される……そう、まさに「徴発」です。私は、この「本のドミノ」の話をきいて、最近読んでいるハイデガーの『技術への問い』という本に書いてあったことを思い出した。ここでも、「徴発」というのがキーワードになっている……ここで「徴発」と訳された言葉は、原語(ドイツ語)では、Gestell(ゲシュテル)と書かれているそうですが(名詞なので、正確に訳せば「徴発性」)、この言葉は、ge-stell であって、stell は stellen(シュテーレン)から……

stellen を辞書で引いてみると、「立てる」「置く」「据える」という意味が出てきます。この語には、また、「直す」とか「調整する」という意味もあって、要するに、横に寝ていたものをひきずりだして、<なにかの目的のために役立つように>きちんと「立て」直す、というか「据える」というか……私はここで、先の大戦の徴兵の「アカガミ」を思い出しました。むろん自分で体験したわけではありませんが、映像ではよく見ます。どっかの街でフツーに暮らしていた青年が、それが、突然、ある日、「アカガミ」が来る。「キミを兵隊として徴用する!」という国家の断固たる意志……ここでもう「個」は永遠に抹殺され、彼は、国家の「戦争道具」として「立てられる」……まさに stellen そのもの……オソロシイ……

いやもおうもないワケです。こういう「究極の強制」としての stellen に、ge が付いて Gestell……ge は、辞書によると名詞につく前綴で、「集合」とか「共同」という意味らしい(ラテン語の co、con、cum に相当)。「集めて立てる」ということで、街や村から「フツーの青年」を徴集して「立たせ」、「並べて」、軍事訓練を施して戦場に送り出す……そういう、オソロシイイメージ……Gestell を辞書で引くと、これは中性名詞で、骨組みとか足場という意味が出てきます。人体とか骨格という意味もある。しかし、動詞の gestellen(ゲシュテーレン)には、法廷に出頭させる、とか調達する、引き渡す、という意味もあって、ハイデガーはこの Gestell という言葉を、どうもそちらの方で使っているようです。したがって、日本語訳が「徴発性」ということになる……まあ、穏当に訳すなら「徴用性」ということかな?

なぜ、ちょっと過激な「徴発性」という言葉を使ったかというと(加藤尚武さんの訳)、どうも、「自分の前のものに<徴発>されて、自分の次のものを<徴発>する」ということが、技術(テクノロジー)の本質ととらえられているかららしい……加藤尚武さんの本(『ハイデガーの技術論』)から、ちょっと引用してみましょう。
…………………………(以下引用)
近代技術社会はつぎのような構造になっている。
町に出て、誰かをつかまえて、質問する。
「貴方は、何番ですか。」
「私は、n番ですが、nプラス1番に要求しています。」
「どうしてですか。」
「nマイナス1番に要求されているからです。」
…………………………(引用おわり)

ここで、なにを「要求」し、「要求」されているのかというと……それこそまさに「stellen」で、ふにゃふにゃしとらんで、きちんと「立って」、自分の役割を果たさんかい!ということらしい……各家庭に「眠っていた」本を「徴用」して、会場に「立てる」。どの本も、「前の本」(nマイナス1番)が倒れてきた、その圧力を身に受けて、みずからが倒れることによって、圧力を「次の本」(nプラス1番)に伝える……それだけのために、そこに「立たされて」いる……その本の中に、なにが書いてあろうが、それはどうだっていい。ただ、あの平べったい直方体という「カタチ」だけが必要で、「要求」されているのは、「そこで立ってなさい」ということと、「その時がきたら、きちんと倒れなさい」ということだけ……これが、まさに「Gestell」……オソロシイ……兵隊さんは、使命を果たして死ぬ。ただそれだけ。

だれも、自分に要求されている「役割」が、根源的に「どんなものか」ということは知りません。会社の要求……取引先の要求……そういうものの連鎖で、自分が「立たされている」仕事の意味を究極に至るまでわかっている人はいない。そういう「stellen」の緊張関係の中で、この、人間の社会は成立している。人が、それに反発して、本来的な意味で「立ちあがる」ことがないのは、ある範囲内で、自分が「わかっている」と思いこんでいるから……会社で成績を上げれば、売上げ向上に役立ったということで、自分の地位も上がり、給料も増える。自分のため、家族のために、それはだいじなことだ……しかし、自分の仕事が、「究極的に」社会、環境、自然に対してどんな影響を与え、どんな意味を持つのか……だれも、そこまでは考えない。もし考えたら「stellen」が維持できなくなって、倒れてしまう……

ドミノの最中に、個別の本がモゾモゾしはじめたら、ドミノ倒しにはならない……本は動くことはできないが、人間はできる。しかし、それを押え、きちんとその位置に立たせておくことができるのは、ニセの「自由意志」を感じさせることができるから……自分の仕事の意味や役割について、ある範囲内でそれを考え、納得できるのなら、「要求される」ことも「要求する」ことも、このニセの自由意志の範囲内でごまかして納得できる。そしてそれは、「隊列を離れようとするもの」に対して、正当性を感じながら「叱責」できるということにつながります。「Gestell」を「徴用性」ではなく「徴発性」と訳すのは、おそらくそのニュアンスがあるからではないか……そこには、ニセの自由意志とともに、「全体に奉仕せよ!」という言葉……全体のタメに、オレたちは戦ってるんだから、オマエもちゃんとヤレ!という……

そういうニュアンスが感じられます。関口浩さんの訳(M.ハイデッガー『技術への問い』)では、「Gestell」を「集ー立」と訳していました。集めて立てる……たしかにそのとおりですが、他に強制するという意味からは、加藤尚武さんの「徴発性」の方がいいのかもしれません。いずれにせよ……本のドミノ倒しを行うためには、本を「立てなければならない」。しかも、ドミノの連携がうまく流れるように、きちんとした配置で「立てなければならない」……まさに「Gestell」そのもの……集めて立てるということでは、たしかに関口さんの訳もそのとおりかも……ともかく、「本のドミノ」という一見「楽しそうな」企画が秘めている「戦時のアカガミ」とか「徴発」とか「技術の本質」とか……世の中、よっぽど注意して見てないといかんなあ……と思いました。ギネスでもなんでもいいのですが、今の社会、ますます「ドミノ」に近づいてるような気がします。だれかが、最初の1冊を倒せば……


ルドルフ・シュタイナーの第一ゲーテアヌムです。スイスのドルナッハにありました。ドルナッハは、バーゼルにすぐ近い小さな町ですが、このシュタイナーのゲーテアヌムがあることで知られている……というといいすぎでしょうか。シュタイナーは、自分たちの劇場を建てようとしてドイツ国内で土地をさがしたけれどみつからず、結局国境に近いスイスの町、ドルナッハに広大な敷地を求めて、このゲーテアヌムを建てたようです。しかし、完成して間もなくなにものかによって放火され、焼失……もったいない話です。

1922年の大晦日だったらしいですが、年越しで燃えつづけ、なくなってしまいました。放火犯はいまだにわかっていないみたいですが、ナチスだという説もあるようです。ただ、ナチスが盛んになるのはもう少しあとのことなので、どうなんだろうか……と思って調べてみましたら、けっこう詳しく書いているサイトがありました。リンク
これによると、もしかしたら放火犯ではないか……とされる人物がいるらしいんですが、その人物がナチとかかわりがあったかどうかはわかっていない……ということは、つまりわからんということらしい。

第一ゲーテアヌムは、結局今では写真しか残ってないんですが、その写真を見ると、こんなふしぎな建物があったのか……と思います。なんか、イメージとしては、第二次大戦のときのドイツ兵のヘルメットを思わせるような……木造のドームを二つつらねたような構造だったみたいですが、内部はステンドグラスと彫刻と天井画に飾られた美しいものであったらしい……もったいないことです。しかし、シュタイナーはめげずにすぐに再建にとりかかり、彼の死後、第二ゲーテアヌムが完成……

この建物は、第一ゲーテアヌムとはまった異なった外見で、素材も鉄筋コンクリートですが、内部装飾はできるだけ忠実に第一ゲーテアヌムを再現してあるんだとか……上にあげたサイトによりますと、第一ゲーテアヌムには多額の保険金(今の日本円にして数億円)が掛けられていて、それで、第二ゲーテアヌムの建設もできたんだそうですが……それにしても、政治的な力関係が文化財を破壊するというのは、今のイスラム国やタリバンにはじまったことじゃないんですね……もったいない……

シュタイナーについては、いろんな見方があるようですが、私はちょっとオソロシイかな……と思います。あんまりよく知らないので、彼の肖像写真を見たかぎりの印象なんですが……眼光鋭く、なんかめっちゃ強力なオーラを発している……これはタダモノではない……そんな感じを受けました。人智学……アンソロポロジーについてもよくしりませんが、日本でも学んでいる人はたくさんおられるようですね。そういえば、以前、愛知県の山里に住むオイリュトミストの女性に会いましたが……

まるで、天国に暮らしているような、なんか実体を持ってないみたいな物質的に希薄なイメージの方でしたね……シュタイナーについてては、学んでみたいという思いと、オソロシイという感じが交錯して、結局深入りせずにきましたが、もうここまできたら、これからも深入りすることはないんじゃないかと……ただ、第一ゲーテアヌムみたいな、この世に二つとないふしぎな建築が放火によって焼失してしまったのはホントに残念に思います。世界遺産……じゃなくて、人間の「精神遺産」ともいうべきか……