一旦風邪になると、私の場合、一ヶ月くらい続きます。ノドが良くないので、咳とかがずうっと尾を引く……それでも、徐々に良くなっていくのですが……

一旦引いた風邪が直りかけて、でもなにかの拍子にぶりかえす……そのときのみじめさ……私のモナドが支配権を確立しかけていたのに、再び風邪のモナドに奪還される……まるでイスラム国との戦争ですが(イスラム国のみなさん、風邪に見立ててすんません……)、なんかそんな感じ。

病気って、なんでもそんなものかな……と思います。一年に何回か、こりゃ、ホントに調子いいぜ!と思える日があるんだけれど……そう思える日が年々少なくなっていく。これが、年をとるということなのか……

で、そういう「調子いい日」のことを思いだしてみると、自分が自分として、完全にまとまってる……そんな感じです。よし!今日はなんでもやれるぜ!という……でも、何時間かたつと疲れてきて、ああ、やっぱりアカンではないか……と。

昔、ある前衛アーティストに会ったときのこと。彼は、「自分は疲れない」と公言した。疲れるのは、どっかがオカシイんだ!と。その言葉どおり、彼は疲れなかった。

目の前で、「書」を書く(というか描く)のですが、何枚も、何枚も、延々と描く。それも、まったく同じスピードで。紙を傍らに大量に積み重ねておいて(300枚くらいあったかな)、パッと取って前に置いてササッと描いてハイ!次の紙……これを、機械のようにくりかえす。しかも、描く内容が毎回違う。

スピードが変わらないのが脅威でした。ふつう、人って、白い紙が前にあると、書きたいものが決まっていても、若干のインターバルがあってから筆を紙に降ろして書くもんですが……彼の場合、そのインターバルがゼロで、紙を置くと同時に描く。しかも、毎回違うものを。その動作を、機械のように正確にくりかえして、スピードがまったく落ちない。作品の大量生産……


見ている方が疲れてきます……なるほど……前衛アーティストというものは、こういう特殊な訓練をみずからに課しているものなのか……感心しました。フツーじゃない……なんか、人間ではないものの行為を見ているようだった。

で、彼は疲れたかというと、全然そんなことはなく、前にもまして元気。行為が彼に、無限のエネルギーを与える。いわゆる、ポジティヴ・フィードバックというヤツですね。こういう人は、きっと死なないんじゃないか……そんな感さえ受けました。

死なないので有名なのが、ロシアの怪僧ラスプーチンさん。青酸カリを食わしても、頭を割ってもピストルで撃っても死なない。オソロシイ生命力……いったいどこが、われわれと違うんだろう……


やっぱり、モナドの支配力がケタ違いに増強されている……そんなふうにしか感じられません。いったいどこから、その「支配力」を得ているんだろう??

でも、ライプニッツによれば、モナドそのものが「死ぬ」つまり消滅することはありえないのだから、それは、やっぱり相対的なものなのかもしれません。モナドは、「一挙に創造され」、「滅ぶときもやはり一度に滅ぶ」。

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(仏語原文)Ainsi on peut dire, que les Monades ne sauraient commencer ni finir, que tout d'un coup, c'est-à-dire elles ne sauraient commencer que par création, et finir que par annihilation; au lieu, que ce qui est composé, commence ou finit par parties.

(英訳)Thus it may be said that a Monad can only come into being or come to an end all at once; that is to say, it can come into being only by creation and come to an end only by annihilation, while that which is compound comes into being or comes to an end by parts.

日本語訳(河野与一訳)して見ると単子は生ずるにしても滅びるにしても一挙にする他ないと云ってもいい。言換へれば、創造によってしか生ぜず絶滅によってしか滅びない。ところが合成されたものは部分づつ生ずる、もしくは滅びる。(旧漢字は当用漢字にしてあります)
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つまり、部分的に、あるモナドが消滅し、別のモナドは残る……ということはありえないんだと。

これは、とてもおもしろい考え方だと思います。われわれは、どういうふうにしてかはわかりませんが、時のはじめ(神の創造時点)からずっと存在している。この宇宙のモナドはすべてそう。で、滅ぶときは一挙に滅ぶ。

われわれの肉体は、合成物なので……合成物のレベルだと、「この人は死んだ。でも、この人は生き残っている」ということはありえます。というか、それが当然の世界。しかし、「わたし」というモナドは、モナドである限り、「わたしだけがなくなる」ということが原理的にできない。もし「わたしがなくなる」ということが起こるなら、それは、「世界がなくなる」、つまり、すべてのモナドが消滅する……それ以外の方法ではありえない。

この論理は、原理的に否定不可能なものであるように思います。要するに、モナドは「一性」そのものであって、この「一性」が否定されるということは、原理的にありえない。なぜなら、「一性」は、普遍中の普遍、最大の普遍であるから……

したがって、もし、私というモナドが消滅することがあるとするなら、それは「一性」そのものが否定されるという事態が発生したということで、そういうことになれば、わたし以外の「一性」、すなわち他のモナドの存在も、すべて否定されざるをえない。「最大の普遍」というところから、かならずそうなる。

これって、「死」というものに対する、いちばん合理的な答だと思います。私が今まで知る範囲では……というか、これ以上明解な答はありえないなあ……これは、論理的に、どう考えてもくつがえせない。

つまり、「死」は、肉体という合成物が否定されるということで、この否定は合成物のレベルで起こるものであり、モナドのレベルではない。したがって、モナドの「一性」は、まったく否定されていない。だから、「肉体の死」は、個別に起こる。あの人は死んだけれど、この人はまだ生きている……という具合に。

ただ……ライプニッツは、宇宙のすべてのモナドは、一挙に創造され、いっぺんに死滅する……と言ってるんですが、その「宇宙」の範囲が、問題になるとすれば、唯一問題になるんだと思います。「宇宙」って、どこまでなの?……ライプニッツの時代においては、「宇宙」はすなわち「世界」のことであって、これは即、「神が創造された世界」ということになる。

しかし、現代においては、「宇宙」概念はかなり違ってきていると思います。今の科学では、地球 ー 太陽系 ー 銀河系 ー 小宇宙群 ― 大宇宙……となって、「宇宙」といえば最後の「大宇宙」をさす。まあ、これが一般的な受け取り方ではないでしょうか。

しかし、私は、ここに、「人間は、地球から出られないのではないか?」という問題が、どこまでもついてまわるような気がします。この問題は、前にも取りあげましたが……「え?人類は、もう月にも降り立っているんじゃないの?」ということなんですが、でも、ホントにホントにそう、なのかな……??

アポロ11のアームストロング船長が月面に着地したとき(小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩、と言ったアレ)、彼は、「宇宙服」を着ていました……当然じゃん! なんで、そんなことをモンダイにするの? と笑われそうですが、私はこれは、大きな問題だと思う。


アームストロングさんは、自分の素足で、月面を踏んだのではなかったのでした……当然のことながら、宇宙服の内部は、「地球環境」になっています。そうでないと、彼は死ぬ。要するに、アームストロングさんは、「地球環境を着て」、もっというなら、「地球を着て」、月面に降り立った。だから、「宇宙服」という名称は、本当は正しくなくて、「地球服」というべきでしょう。

それって、リクツじゃん!と言われるかもしれません。でも、われわれの肉体は、地球からできている。地球のものを食べ、地球の空気を吸い、地球の水を飲んで……その、一時的な結実の連鎖として、われわれの肉体というものがある。これを考えるとき、われわれの肉体という「合成物」は、実は「地球」という惑星の一部……どころか、地球という惑星そのものであると考えざるをえません。

そう考えるとき、われわれは、この肉体として生きているかぎり、原理的に「地球の外に出る」ということが不可能だ……地球の一部であり、地球そのものでもあるものが、地球という範囲を離れるということ、それ以外のものになるということは、原理的な矛盾にほかならないからです。もし、地球以外のものになってしまえば、われわれの肉体は、その本質を失ってしまうということになる。

では、わたしというモナド、はどうなんだろう……ライプニッツの時代においては、漠然と、宇宙と世界は同じであって、それが地球という範囲を出るか否か……そういう議論も、意味のあるものとしては成立しえなかったように思います。しかし……アポロ以後のわれわれにとっては、これは重大なモンダイとなる。

結論からいうなら……私は、わたしというモナドは、地球という最大のモナドの範囲を出ることができない……そう思います。要するに、私は、今の状況としては、「外界を知る」ためには、私の今の肉体を媒介とする以外にありません。しかし、今の私の肉体が地球から出ることができない……つまり、「地球限定」である以上、わたしというモナドも、やはり地球限定、つまり、地球の範囲を出ることができない。

思惟、思弁では、私は、いくらでも「地球の外」に出ることができる。しかしいったん、延長の世界、かたちや大きさがある世界においてモノを考えるということになりますと、結局、わたしは「私の肉体」を媒介として考えざるをえなくなり、そうすると、結局、世界……考えうる最大の範囲は「地球」であるということになる。

ここは、もう明確だと思います。モナドには「窓」がないので、本質的な「外界」というものはありえない。しかし……延長の世界、かたちも大きさもある世界において、延長の世界に対する「支配力」を用いて相互に「自己表出」を行うことにより、モナド相互の「交通」は可能となる。より正確にいうなら、「交通が可能となったかのような状態を現出しえる」。

ライプニッツは、すべて「宇宙単位」でものごとを考えましたが、この「単位」が、今のようなリクツで、本当は「地球限定」だったら……彼の論理は、この地球上のモナドは、すべて一挙に創られ、そして滅ぶときには一挙に滅ぶ……ということになる。そして、私は、これが、この地球という星が、一つの単位としてこの「宇宙」に存在する、その根源的な理由であるような気がします。

私というモナドからはじきとばされた「風邪のモナド」は、しかし、この地球から飛びだしたワケではなく……周回軌道を描いてまた戻ってくる……それが、私に戻るのかどうかはわかりませんが……というか、ソレはイヤなんですが、そういうことになるのかもしれない。

この地球のものは、すべて、この地球から脱出することはできない……太陽系を超えてどっかにいっちゃったように見える人工衛星でも……というか、原理的にそう。地球のものは、その本質からいって、地球から脱出することはできない……

これは、「限定」なのかもしれないけれど、それゆえに、もしかしたらこの「地球」という世界が成立している。しかし……

さらにもしかしたら、原子核の中の世界は違うのかもしれません……まあ、妄想と思われてもしかたありませんが、この物質の世界は、原子核の中で「抜けて」いるように感じられます……ということで、正月早々、モナドな妄想で失礼しました……。

ライプニッツの『モナドロジー』にある、有名な言葉。『モナドには、そこを通じてなにかが出たり入ったりできるような窓がない。』

Les Monades n'ont point de fenêtres, par lesquelles quelque chose y puisse entrer ou sortir.
(The Monads have no windows, through which anything could come in or go out.)

そりゃ、そうだと思います。モナドというのは、ギリシア語のモナス(1という意味)から来ていて、単一性そのものを現わす言葉だから。

もし、モナドに窓があって、そこからなにかが出たり入ったりする……ということになりますと、「単一性」は崩壊します。つまり「自分とちがうもの」が自分の中に入ってきたり、「自分」が自分の外に出ていったり……これを許せば、「単一性」という概念自体が無意味になる。

では、モナドは、他のモナドといっさい「交流」はできないんだろうか……いろいろ考えていくうちに、モナドを「波」として考えれば、これは可能ではないかということに思いあたりました。

ヒントは、先にノーベル賞を受賞された梶田先生の研究。ニュートリノ振動……でしたっけ、μニュートリノが、いつのまにかτニュートリノになり、またμニュートリノにもどり……このふしぎな現象を説明するためには、ニュートリノが基本的に、3種の波の組み合わせでできていると考えるほかないというお話……(リンク

つまり、3種の波の振動がうなりを生じ、そのうなりの各部分が、μニュートリノに見えたり、τニュートリノに見えたりするという解釈……なるほど、これだ!と思いました。

モナドも波であると考えるなら、モナドは究極の単一体であるから、単一の周波数しか持っていないはずです。もし、複数の波の集合体であるとするなら、それは、モナドが複合体であるということになって、モナドの定義自体に反してしまうから。だから、一つのモナドは、それに固有の振動数しかない「一つの波」であるはず。

波の世界では、固有の振動数をそれぞれ持つ複数の波が合成されると、全体の波形は、個々の波の波形とは当然異なってきますが……にもかかわらず、その中においても、「個々の波形」はきちんと保全されており、「全体の波形」は、「個々の波形」の複合に分解できるといいます。これを、数学的には「フーリエ解析」と呼ぶときいたことがありますが……(リンク

名称はともかく、合成されたときにはその波形が元の個々の波の波形とまったく違うものになったとしても、その中には個々の波の波形がそっくり保全されていて、また分解すれば個々の波に戻る……そうであるとすれば、個々の波は、結局、他の波からまったく影響を受けていないことになる。

これは、まったくモナド的な現象だと思います。要するに、「固有性」というものは、いかにしても破壊できない……モナドには窓がないから当然そうなのですが、しかしモナドを「波」と考えるなら、固有性を完全に保ちながらも、他のモナドと「合わさること」ができる……これは、おもしろいと思います。

ライプニッツによると、モナドは、「自然の本当の原子」であるとのこと。たしかに、物理学の「原子」は、アチラ語では「atom」で、これは、「a-tom」、すなわち「できないよー切断」という意味なんだと。それ以上分解できないもの……そういう意味だったんですが、あっという間に分解されて、原子核と電子に……

で、その原子核というのがまた分解されて陽子と中性子に……じゃあ、「本当の原子」というのは陽子、中性子、電子の三つだったのか……というと、それがそうではなく「クォーク」と「レプトン」という究極の素粒子からできているんだと……ということで、どうやらこのゲームは「キリがない」みたいです。つまり、自然科学の方法で「本当の原子」を求めるというのは、その方法自体がもしかしたらアヤシイのではないかと……

理系じゃないのでそれ以上はわかりませんが……でも、ライプニッツの「モナド」はわかります。要するに「モナド」は大きさを持たない。つまり「延長」という属性には無関係に存在する。「延長」という属性を入れてしまうと、分解して、分解して、それをまた分解して……というふうに際限なく続きますが、「大きさを持たない」ということであれば、そういうかたちでの分解はできません。

しかし、「大きさを持たない」ということでも、「振動はする」ということは可能だと思います。「振動」ということを、どういうふうに考えるか……ですが、振動という概念は、「延長」という概念と不即不離というわけではないでしょうから、「大きさをもたないけれど振動はする」というものは、十分に考えることはできると思う。

とすれば、それぞれに固有の振動数で振動する波である一つ一つのモナドが、相互に「影響しあって」、あるいは「影響しあうようにみせかけて」、その全体が合成された「相互影響合成振動」みたいなものを考ええることも可能ではないか……つまり、モナドは、窓は持たないけれど、固有振動を合成することによって、ある一つの「場」を共有することが可能になるのではないだろうか……

ということで、ここから話は突然とびます。エヴィデンスのまったくない話で恐縮ですが、私は、このモナドの共有する場の最大のものが、この惑星地球ではないか……そういうふうに「飛躍して」思ってしまうのでした。

ライプニッツは、「モナドの支配」ということを言ってます。つまり、私が、私の肉体をもって日々生活できているのは、私というモナドが、私の肉体を構成している他の無数のモナド(細胞や、細胞内の要素もすべてモナド)を支配しているからだと。このことは、前の項(リンク)に書いたとおりです。

なるほど……こう考えれば、生も死も、とても理解しやすくなる。「生」というのは、私が他のモナドを支配して、自分の肉体を保持している状態。これにたいして「死」は、私が他のモナドに対する「支配権」をすべて喪失して、元々の「自分」という一つのモナドだけの状態に戻っていく過程……

ライプニッツは、「死は急激な縮退」と言ってる(これも、前に書きました)。つまり、それまでたくさんの他のモナドを支配してきた力が急速に緩んで、しゅしゅしゅ……と、自分のモナドの中に縮まっていく状態……これは、今まで私が聞いてきたいろんな「死の解説」の中で、もっともなっとくできる説だ……

これをさきほどの波の話にしますと……ともかく、「自分のモナド」がなぜか中心になって、他のおびただしいモナドの波の全体を「指揮している」……そんなイメージが浮かびます。

オケの指揮者は、メンバーとしては他の団員と同じく「一人の人間」なんだけれど、にもかかわらず演奏においては、他の団員は全員彼に従い、「一つの合成された波」を形成する……

で、演奏が終わると、指揮者もメンバーも、すうっとそれぞれの人間に戻る。音楽が演奏されている間だけは、彼らは指揮者を中心に一体となっていたわけですが、しかし演奏が終わってからも……たとえば、メンバーの肉体どうしがくっついて離れないということはない。ちゃんと肉体としては一人一人別々……そんな感じなのでしょうか。

だから、私の肉体というのは、実は、ものすごくたくさんのモナドたちが、私という指揮者の元に、それぞれの固有の振動数を合わせて、全体で「私」という一つの音楽を奏でている……そう考えればわかりやすい。私の肉体というのは、一つの「場」になっている……

これは、すべての生命においてそうなんですね。動物も植物も……しかし「全体」ということで考えると、その境がよくわからないようなものもある。これが、石や岩、土、水、空気……みたいになると、ますますわからない……でも、それらを総合して総合して、さらに総合していくと、最終的には「地球」といういちばん大きな「場」にたどりつきます。

人間の想像力というのは、実はアヤシイもので、概念を少しずつ膨らませていくうちに、いつのまにかそこに「架空」というエアーが入ってしまう。

たとえば、私にとっては、「私の肉体」は、まあ、「架空」が入りこむ余地がかなり少ない「現実存在」なのかもしれない。ではしかし、「他の人の肉体」というのはどうなんだろう……アチラの人は、よく握手したりハグしたりしますが……

これは、「肉体の確認」みたいなことなのでしょうか。オマエもオレと同じ肉体を持っておるな……と。まあその証拠に、人間以外の動物と握手することは少ないし(ハグはあるけど)、植物と握手している人は、私は見たことがない。岩や水や空気との握手……は、ちょっと考えにくい(岩のハグくらいはあるかもしれない)。

実体感覚でわかるもの……から遠ざかっていけばいくほど、そこには、アタマで考えただけのもの、つまり「架空」が入りこんでくる。しかも、人間のおもしろいところは、その「架空」をなんの検証もなしに「現実」だと思いこんでしまうところ……おそらく、人の社会は、こういった「架空の合成」によって成り立っているのでしょうが、これはよく考えれば、とてもふしぎなことです。

なので……言葉で「地球」とか言った場合、そこには、もうおびただしい「架空」が入りこんでいる。

だれも、本当の「地球の姿」なんか知らないのに、なぜか知っているような錯覚に陥って、いろいろ環境問題とか資源問題とか論じている……ちょっと引いて考えれば、とてもオカシイ空しいことを、なぜか真剣に議論しているわけです。

なので、この論はこれくらいにしたいと思いますが……物理学で、粒子か波動かということが問題にされたり、振動する超弦理論みたいなものができたり……ということで、モナドも波の性質を持っているとしても、おかしくはない気がします。

ライプニッツは、一つのモナドは、宇宙全体のモナドのすべてを反映するということを言ってますが、モナドが波であれば、それもふしぎではない。ただ、やっぱり「宇宙」というのがひっかかるのであって、私は、ここはやっぱり「地球」だと思うのです。ふしぎなことに。

お正月に、こんなん知ってる?と見せられたスマホ画像が、すべて木彫りの自販機。すごい迫力……実はコレ、山本麻璃絵さんという彫刻家の作品で、昨年秋に、町田の東急ツインズというところに展示されていたのでした。

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この木彫り自販機の画像を見せられたときに、ちょうど読んでいたのがハイデガー。『存在と時間』のはじめの方にある、次のような文章でした(熊野純彦訳・岩波文庫・第一巻352p~)

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利用できないことがこうして発見されることで、道具は〔かえって〕目立ってくる。手もとにある道具が目立ってくるのは、なんらかのしかたで<手もとにはない>というありかたにおいてである。
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うーん……これは、まさにシンクロニシティというヤツではないでしょうか……もうちょっと、引用を続けてみましょう。

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ここにふくまれているのは、だが、使用できないものがただそこにある、ということである ー つまり、使用できないものは、道具である事物としてじぶんを示すのであって、そうした道具は、これこれのように見え、その<手もとにあるありかた>においてそのように〔道具として〕見えながら、頑としてまた目のまえにありつづけていたのだ。
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もうこれ、この木彫り自販機そのもの……というか、ハイデガーさんが、この木彫り自販機を見て書いたとしか思えない……まあ実は、なんかの道具が壊れてて使えない……みたいな場合のことらしいのですが、この自販機を見せられると、やっぱりコレそのものになってしまいます。

なお、ここでよく出てくる「手もとにある」とか「手もとにない」とかの原語は「zuhanden」ツーハンデン、で、zuという前置詞(英語の to に相当)とHand(手)の合成語のようです。まあ、手ですぐつかんで使える……といったようなニュアンスで、ハイデガーにおいては、日常に使う器物や道具を表わすこともけっこう多いようです。

これに対して、「目のまえにある」という言葉は「vorhanden」フォアハンデン、で、vorという前置詞(英語のfor、foreに相当)とHandの 合成語。目の前にごろんと転がってるのが見えるけれど、「zuhanden」ツーハンデンのように、つかんで使えるというものでもない……というニュアンスでしょうか。


ドイツ語だと、哲学用語も英語みたいにラテン語やギリシア語から借用することが比較的少なくて、ごく普通の日常用語をそのまま哲学用語として使っているのが多いみたいですが、ハイデガーの場合は、それがとくに多いのかなという気がします。そこまでいろいろ読みこんでないので、当たってないかもしれませんが……

彼は、現象学の流れで(というか現象学そのものの立場で)、「日常」とか「生活」というものを特に重要視する。なんでも、日常から出発しないと「正解」にはたどりつけない。それはもう、信念みたいなもので、空虚な理論、空理空論をきらい、「目の前にあるもの」、「手もとにあるもの」から出発しようとする。

この傾向は、日常生活の器物や、ものつくりに使う道具から「存在」へ至ろうとする彼の姿勢にもよく表われていると思います。世界は、とにかく目の前にあるもの……抽象的な「世界」ではなく、とりあえず手で、触ろうと思えば触れるもの、さらには操作できるもの……そういう感覚なのかな?

ということで、もう少し引用してみましょう(358p~)。

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手もとにあるものの、こうした変様された出会われかたのうちで、手もとにあるものが有する<目のまえにあるありかた>が露呈される。
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「目のまえにあるありかた」(Vorhandenheit フォアハンデンハイト)……これは、いったいどういうことでしょうか? 私にとっては、この木彫りの自販機が、ごろんと目の前にある、その「ありかた」としか思えない。よく知っている自販機に似ているけれど、ちがう。使えない。ボトルも缶も、実物に似ているけれどちがう……「zuhanden」ツーハンデンにならない……

とすると、これは、いったい「どういうもの」として目の前にあるんだろうか……

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目立ってくること、押しつけるようなありかた、手に負えないことにおいて、手もとにあるものは、ある種の様式でじぶんの<手もとにあるありかた>を失ってゆく。
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フツーの自販機に対して、「押しつけるようなありかた」(Aufdringlichkeit アウフドリンクリヒカイト)と思う人は、あんまり多くないと思います。自販機の出現当初はそんな感じもありましたが、近頃ではもう、すっかり街の風景の一部にとけこんでいて、だれも自販機で飲物を買うときに、「おお、これは、なんと、自販機という、お金を入れると飲物が出てくる機械ではないか!」と自問自答しながら買う人はいない。自然にお金を入れて、フツーにボタンを押して、なにごともなく買って、それで終わり。

だけど、この木彫りの自販機は……どっか違う。変。買えない……そんな「不必要な思惟」をめぐらせなければならないようにできてます。「目立つ」とか「押しつける」とかいう感覚は、そんなところを言ってるのか……英語で、機械や道具が不調のときに、「アウト・オブ・オーダー」という言い方をすることがありますが、そんな感じなのか……とすれば、この木彫り自販機は、全身アウト・オブ・オーダーのカタマリ。オーダーになってるところがなに一つない。

「ある種の様式でじぶんの<手もとにあるありかた>を失ってゆく。」という文章は、そういうニュアンスかな?「ある種の様式」(im gewisser Weise イム・ゲヴィッサー・ヴァイゼ)というのは、つまりは「オーダー」のことなのでしょう。その道具や機械がきちんと嵌りこんでいるべき「オーダー」……それを、失っていく……つまり、「手もとにあるもの」から、「手もとにないもの」へと変容していく……

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手もとにあるありかたは単純に消失するのではない。利用できないものが目立ってくるときに、いわばじぶんに別れを告げている。手もとにあるありかたはもう一度じぶんを示し、まさにその告別において、手もとにあるものが世界に適合していることが示されるのである。
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冒頭で紹介したサイトの中に、こんなことを書いている人がいました。
「ICカードリーダーがあったので、試しにかざしてみましたが、PASMOは反応しませんでした。Suica専用かもしれません。……とか、しれっと言ってみる。」
うーん、まさにこの感覚……上の、ハイデガーの言葉を具体的に説明しているとしか思えない。

カードリーダーをかざす人は、当然、そんなことをやっても「買えない」のは知ってるのにそうする。それだけでも足りずに、「PASMOがダメだからSuica専用かも」とか「しれっと」言ってみるわけで……まさに、「手もとにあるありかた」が単純に消失しているのではない、その感覚ズバリです。ハイデガーさん、さすがによく見てますなあ……以下の引用は、少しとんで364p~。

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世界が手もとにあるものから「成立している」のではないことは、とりわけ以下の点において示される。つまり右のように解釈された配慮的な気づかいの様態のうちで世界が閃くこととともに、手もとにあるものの非世界化がおこり、その結果、<たんに目のまえにあるもの>が、<手もとにあるもの>にそくして、おもてにあらわれるということである。
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世界は、手もとにあるものから「成立している」のではない……つまり、まっとうな自販機だけで世界は成立しているのではなく、こんなふしぎな「使えない自販機」もちゃんと世界の中に入っている……そこで「世界が閃く」(Aufleuchten der Welt アウフロイヒテン デア ヴェルト)。そして、手もとにあるものの「非世界化」(Entveltlichung エントヴェルトリフング)……

これまで、ある種の秩序の中で、<手もとにあるもの>だったもの……しかし、この木彫りの自販機! ここには、まさに、<手もとにあるもの>、つまり、自販機のように見える、その見え方にそくして、なにかふしぎな、わけのわからない<たんに目のまえにあるもの>が出てきてしまっている……ということは、普通の自販機も、こういう見方をすれば、そこに、ごろんとした<たんに目のまえにあるもの>が出てくるのだろうか……

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「周囲世界」を日常的に配慮的に気づかうことにあって、手もとにある道具がその「自体的存在 An-sich-sein」において出会われうるためには、目くばりがそのうちに「没入している」さまざまな指示と指示全体性が、この目くばりにとって ー まして、目くばりをすることのない「主題的な」把捉に対しては ー 非主題的なものにとどまっていなければならない。
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指示と指示全体性……ここでは、自販機を使う場合に、1、まず金を入れる。 2、次に、欲しい飲物のボタンを押す。 3、受け取り口にごろんと出てきた飲物を、つかみ出す……といった一連の操作、一種のマニュアルを言ってるんじゃないかと思います。「目くばり」は、普通はこういう一連の操作の中に没入して、いちいちそれを意識することがない……

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世界がじぶんを告げないことが、手もとにあるものが目立たないありかたから踏みださないのを可能とする条件である。さらに、この目立たないありかたのうちで、手もとにある存在者の自体的存在が有する現象的構造が構成されるのである。
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なるほど……ということは、「世界がじぶんを告げる」ということがおこるためには、手もとにあるものが、「目立たないありかたから踏みだす」ことが必要になるのか……まさに、この木彫り自販機そのものですね。この木彫り自販機は、「木彫りである」「使えない自販機」として、「目立たないありかたから踏みだす」道を選択した(というか、作者によってさせられた)……その結果として、「世界がじぶんを告げる」ということが、ここでおこってしまっているわけです……

ということは逆に、フツーの「使える自販機」においては、「目立たないありかた」のうちで、「手もとにある存在者の自体的存在が有する現象的構造が構成され」ている。まあようするに、そういうものを「自体的存在が有する現象的構造」と呼んでいる……この箇所は、さらに次のように説明されます。

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目立たないこと、押しつけてはこないこと、手に負えなくはないこと、といった欠如的な表現は、さしあたり手もとにあるものの存在が有する、積極的な現象的性格を意味している。これらの「ない」が意味するのは、手もとにあるものが控え目にじぶんを持しているという性格であって、このことこそが、私たちが自体的存在というときに注目しているものである。
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なるほど……フツーの「使える自販機」は、「控え目にじぶんを持している」のか……ここから、論は、私たちが日常的に、「アタマで考えて」やってしまう誤りの指摘に入っていきます。

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私たちは、にもかかわらず特徴的なことに、主題的に確認されうる「さしあたり」目のまえにあるものに、この自体的存在を帰属させてしまうのだ。
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「自体的存在 An-sich-sein」とは、それが、自分自身としてそのままにあるありかた……みたいなものだと思いますが、先に「控え目にじぶんを持している」と訳されていた箇所の原語は、「Ansichhalten アンジッヒハルテン」で、元の言葉の感覚からいうと、「自分自身である存在」(アンジッヒザイン)が「自分自身を保っている」(アンジッヒハルテン)ということなのでしょうか……どうも、このあたりから、なにやらハイデガーさんお得意の「言葉の魔術」に巻きこまれていくような予感がするのですが……

「主題的に確認されうる」のところは、原文では「als dem thematisch Feststellbaren」と書いてあります。つまり、これはナニ、これはナニ……と確認できるということでしょうか……これは自販機、これはゴミ箱……みたいな。そうすると、この文章は、私たちはほぼ無意識に、目の前の「これはナニ」と確認できるものが、「自体的存在」、つまりアンジッヒザインであると思いこんでしまう、それがわれわれの認識の特徴なのだと……

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目のまえにあるものに第一次的に、ひたすら方向づけられている場合には、「自体的なもの」は存在論的にはまったく解明されえない。だが、「自体的なもの」について語ることが存在論的に重要ななにごとかであるべきならば、なんらかの解釈が要求されるはずである。ひとはたいてい、存在のこの自体的なものを、存在的に強調するしかたで引きあいに出す。そしてこのことは、現象的には正しいのである。とはいえ、このように存在的に引きあいにだすことでは、そのように引きあいにだすことで与えられている、存在論的な言明の要求がすでに充たされているわけではない。
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ちょっと長いですが、「存在的」と「存在論的」の区別がここで出てきているので、一挙に引用しました。原語では、ontisch(オンティッシュ・存在的)と ontologisch(オントローギッシュ・存在論的)で、この区別は、ハイデガーにおいてはきわめて重要なもののようです。

私の理解では、単に在ること、がオンティッシュ(存在的)で、在ることについて意識する態度がオントローギッシュかな……と思うのですが……言葉の構造としては、ギリシア語の「on」(存在 Sein)がそのまま形容詞化されたのが「ontisch」で、「on」+「logos」(論)が形容詞化されたのが「ontologisch」ということになると思います。

たとえば、毎日の労働で、「つ、つれーえなー」とか「給料安いよ~」とか思うのが「ontisch」で、「オレはなんのためにこんなに働いているんだろう?」という思いがつのっていくと、最後に「人間って、なんだろう?」という、自分自身の存在を問いかけるようなモードになるのが「ontologisch」?

木彫りの自販機の例でいうと、「スゲー」とか、「なんだこりゃ?」とか思うのが「ontisch」で、「うーむ……これを見ていると、自販機って、今まで自販機だとばっかり思ってたけど、ホントはいったいなんなんだろう?」というモードに入っていくのが「ontologisch」?

「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」とホンキで思うなら、それは「ontisch」なんですが、その全体を「しらっと言ってみる」と突き放すモードはすでに「ontologisch」領域に……ということですが、ここでおもしろいのは、こう言ってる人自身、すでに「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」という自分の言葉をまるっと「信じてない」ということ。

つまり、地で「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」と思ってるわけではなく、すでに、はじめからこの自分の言葉に対して批判的な位置に立っている。かなり複雑にいうなら、「PASMOがダメだったからSuica専用かな?という思いが浮かんだとしても、それはもとよりウソの思いであって、自分はすでに、当然のように、そういう思いがホントではないと思える位置におるのだ!」という感覚が、「しれっと言ってみる」という言葉に表われている……

山本麻璃絵さんの木彫りの自販機は、人の思いを、すでに最初から、「ontisch」モードを離れて「ontologisch」モードに呼びだすような力を持っている……これが、<アートの力>なのか……

ハイデガーさんが、この木彫り自販機を見たら、なんと思うでしょうか……「おお!ワシが一生かけて言いたかったことが、ここに、しれっと表現されちゃってるじゃん!……スゲー!!……負けたゼ……orz」とか……

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これまでの分析によってすでにあきらかとなったように、世界内部的存在者の自体的存在は、世界現象にもとづいてのみ、存在論的につかみうるものとなるのである。
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しかし、ハイデガーさんの関心は、やっぱり「ここにある」木彫りの自販機を超えて、「世界」へと向かうのでした。この世界の中に在る、在るがままの存りかた……それは、世界現象(Weltphänomens)を基底(Grunde)としたところからしかとらえられないのだ……と。

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世界とはしたがって、存在者としての現存在が、「そのうちで」そのつどすでに存在していた或るものなのであり、現存在がなにかのしかたでわざわざ出かけていくにしても、つねにただ<そこへ>もどってくるしかない或るものなのである。
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ここで「現存在」(Dasein ダーザイン)と言われているのは、「PASMOがダメだったからSuica専用かな?」ということを「しれっと」言える存在、すなわち「人間」のことで、彼の有名な言葉である「世界内存在」In - der - Welt - sein という考えかたが、ここにも現われてきます。

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世界内存在とは、これまでの解釈によれば、道具全体の<手もとにあるありかた>を構成する、さまざまな指示のうちに、非主題的に、目くばりをしながら没入していることにほかならない。
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ここで、「非主題的に、目くばりをしながら没入していること」と訳されている部分は、原文では「unthematische, umsichtige Aufgehen」となっています。

「umsichtig ウムジヒティヒ」という形容詞は、辞書を引いてみると、「慎重に」、とか「思慮のある」という訳になっていますが、この言葉の元である「umsehen ウムゼーエン」という動詞は、接頭辞「um」(周囲)+「sehen」(見る)で、「見回す」とか「展望する」という意味もあるようなので、この「um」の意をとって「目くばり」と訳されたのでしょう。

実は、この箇所の少し前に、「Umwelt ウムヴェルト」という言葉が出てきて、これは「周囲世界」とか「環境世界」とか訳されるようですが、この言葉との関連も、ハイデガーの中では意識されているのかなとも思います。

また「Aufgehen」は、動詞「aufgehen」が名詞化されたものだと思いますが、動詞の aufgehen の一般的な意味は、「上がる」とか「昇る」ですけれど、in etwas aufgehen で、なにか(etwas 3格)に「没入する」という意味になる。ここでは、後に「道具全体の<手もとにあるありかた>を構成する、さまざまな指示のうちに」という文章があるので、その中に「没入する」という意味になる。

全体として、穴の中からアタマだけをちょっと出してあたりをキョロキョロ見回しているモグラみたいな姿が浮かんできます。「主題的になる」とモグラ叩きにあうので、「非主題的」になっているのでしょうか? ん……まさか……

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配慮的な気づかいは、世界との親しみにもとづいて、そのつどすでにそれがあるとおりに存在している。この親しみのなかで現存在は、世界内部的に出会われるもののうちでじぶんを喪失して、それに気をとられていることがあるのである。
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ここで、「配慮的な気づかい」と訳されている言葉は「Besorgen ベゾルゲン」で、これもハイデガーのキーワードの一つ。動詞の besorgen (恐れる、気づかう、配慮する)から来ているわけですが、語幹の「Sorge ゾルゲ」は英語の「sorrow」で、心配、不安、懸念、配慮、といった意味を持っています。

これについては、ネットで読める論文があります(リンク)。田邉正俊さんという方の『ハイデガーにおける気づかい(Sorge)をめぐる一考察』というのですが、簡潔ながら要領を得て、わかりやすい。なお、この田邉正俊さんという方は、立命館大学の先生のようです。

私のイメージでは、こどもの頃、夏の昼下がりに、それまでぎらぎら照っていた太陽が雲にさえぎられ、遠くからかすかに雷鳴が響いてくる……そんな状況に、この「Sorge」という言葉はぴったりです。あるいは、仕事で、失敗しないようにいろんなものに気を配って疲れはてる……そんな状況かな。

仕事をやっている最中は、まさに「世界内部的に出会われるもののうちでじぶんを喪失して、それに気をとられている」という状態なのでしょう。特に、わずかのミスが自分や他人を危険や損害にさらすような仕事だとなおさらだと思います。そういうときに、この木彫りの自販機の前を通ったとしても、たぶん振り返りもせずに通りすぎてしまう……

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現存在がそれと親しんでいるものとはなんであり、世界内部的なものの世界適合性が閃くことができるのはなぜだろうか。指示全体性 ー 目くばりがそのうちで「作動して」おり、そのありうべき破れが存在者の<目のまえにあるありかた>をおもて立てる、指示全体性 ー は、さらにどのように理解されるべきなのか。
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しかし、そんなぴりぴりした仕事も終わって、ほっとして家路につくときに、この自販機に出会ったら……「そのありうべき破れ」(mögliche Brüche)……

アート作品は、ハイデガーのように「全体的に考える」とか「思考を普遍性にまでもっていく」ということは、たぶんできない。しかし、「全体」とか「普遍」とかが登場するときに、人が知らずにつくろってしまうこの「破れ」を劇的に見せることはできる。ハイデガーのめざす思考というのは、おそらく、どこまで全体になっても、普遍をめざしたとしても、最初の「日常性」をけっして失わんぞ……と、それが軸になったものだったと思えます。

人は、思考の中で、鎖の環をつないでいく。そのはじまりは、必ず、今生きている「日常」や「生活」の中にあるのだけれど、鎖の環をつないでいくうちに、いつかそこを離れ、空中でそれをやってしまう……おそらく、ハイデガーさんは、そこで、人の思考は「存在」を離れる!と警告したかったんではないか……

存在……存在って、なんだろう……ヨーロッパの思考法では、それは元より「人間存在」なのかもしれない。しかし、ハイデガーは、たぶんそこのところに「イヤケ」がさしたんだろうと思います。彼の、ナチスへの接近は、そういうヨーロッパ的思考への反発の裏がえしだったのか……そこのところはわかりませんが、ここはたぶん重要な問題ではないかと、そう思います。

先に、「1700万円のアイスクリーム」という記事(リンク)で、最愛の奥さんをテロで殺されたフランス人男性の文章を掲げましたが、ああいう「無前提のヒューマニズム」って、どうなんでしょうか……あの文章を読むと、なんか無性に腹が立ってくるのは私だけじゃないと思うのですが……

ハイデガー氏が最後に到達しようとした「存在」。これって、なんでしょうか……人間が、存在の呼び声に召還される……9.11や3.11を境に?そういう時代が、もうすでに始まっているような気がします。