きめられない政治……ABくんは、民主党から政権を奪還して、「決められる政治になったぞ!」といばってる。でも、「決められない」って、ホントにそんなに「悪いこと」なんだろうか……
「決められる政治」の究極は独裁。ABくんが、なんでも勝手に思いどおりに「決める」。ほかの人は、それにしたがうだけ。北朝鮮みたい……「決められる」は、決める側にとっては常に「善」だけど、決められる側は迷惑。お前にとってはこれがいいのだ!と、他の人に決められて従うしかない。地獄です。
昨今、なんでも「決められる」が「いいこと」だという風潮が、あまりに安易にいきわたりすぎてるんじゃなかろうか……政治でも、会社の仕事でも、いろんなサークル活動でも……トップの力量を「決められる」で測る。まあ、そりゃ、団体だったらそれもアリかもしれませんが、万事そうなりつつあるような気がしてコワい。
哲学の本なんか、読んでてわからんという声をよくききます。私もワカラン。私の頭がアホなのか、それとも…… 絵描き仲間と、昔、カントの『判断力批判』を読んだことがありました。数ページ分をプリントして、みんなで少しずつ読む。『判断力批判』は、美学について書いてあるので、みんな興味をもったワケです……しかし、ワカラン。
数行、いや、一行だって、コレ、なにが書いてあるの? というくらいワカラン。むろん日本語訳(岩波文庫)で、日本語の文章なんだけれど、やっぱりわからない……で、ある人が、「これって、ボクの頭が悪いからワカランの? それとも、実は、無意味なことが勝手に書いてあるだけだからワカランの?」と……
なるほど……言われてみればそのとおりです。これだけワカランと、そうも思いたくなる。哲学書って難しいから、やっぱ、こっちの頭がついていかない……と、最初はみなそう思うのですが、なんべん読んでもワカラン。ふつうだったら、くりかえし読めば、なんとなくわかる……あるいは、わかりそうな気分になってくるもんなんですが、カントさんは鉄壁のごとく立ちはだかって、「わかるかも……」という気がぜんぜんしてきません。
うーん……やっぱり、われわれの頭が悪いのか……それとも、実はまったく意味のないことが書かれているのか……専門家って、どうなんだろう……と思ったら、やっぱり専門家もそうみたいです。つまり、哲学書って、ふつうの本とちがって、「なにかを伝達する」ようには書かれていないんだと。
ふつうの本って、なんらかの知識なり情報なり……あるいは気分みたいなものでも、伝えようとして書かれています。著者は、これこれはこうなんだと読者に伝えたい、言いたい、ということで本を書く。きちんとした文章で書いてあれば、ふつうの能力の読者には、ちゃんとそれが伝わる。
しかし……哲学書にかぎっては、そういう書き方じゃないそうです。つまり、人生とはなにか……とか、生とはなにか、死とはなにか、人の生きる意味って、なんだろう……そういうものを「教えてくれる」書物として、みんな哲学書のことをイメージするんだけれど、実はぜんぜん違う。だから、いくら哲学書を読んでも、そういうものについての知識も、教訓も、なにも伝わらない。そもそも、著者自身が、そういうものの知識や教訓を伝えようとして書いていない。
じゃあ……なんのために書いてるの? 哲学書を読んで、伝わるもの、受け取れるものってなんなの? ということですが、それは、結局「自分で考える」ということに尽きるようです。
つまり……哲学書が取り扱うような問題については、「正解」というのがないのですね。読者は、生とか死とか、生きる意味とか……そういう「深遠な」ものについて、「それはこうだよ!」という明解な答を、やっぱり期待してしまう。ところが……うにゃうにゃ、なんたらかんたら……と、いくら読んでもまったくわからない。いや、読む前よりももっとわからなくなる……
でも、それが、ある意味、正解なんだそうです。読む前は、なんとなくわかったつもりになっていて、たぶん今、自分が漠然と思ってることが、「哲学書」にはきちんとした言葉で明確に書かれているんだろう……と思って読み始めるのですが、すぐに薮にぶちあたる。薮はジャングルとなり、沼に足をとられ……かと思うと蚊や蛭や……で、もう立ち往生……
ということで、読者の期待は大きく裏切られる。読んでもまったくわからない。この人、いったいなにがいいたいんだろう……そして、いつしか昼寝の枕に……
でも、哲学書の読み方としては、それが「正解」だそうです。もし、「人生とはコレコレである。」と明解に書いてある哲学書があったら、ソレはニセモノ。まあ、「10分でわかるニーチェ」とか、それに類する本はいくらも出てますから、「わからなくちゃヤダ」という人はそれらを読めばいいんですが、そういうたぐいの本は、結局「哲学書」とはいえない……
ニーチェなら、やっぱ、本人の書いたものを読むべき。ドイツ語のわかる人は原書で。そうすると、まったくわからない……鉄壁にブチ当たる。カントもヘーゲルもそう。ハイデガーもメルロ=ポンティも同じく。古いのならいいのかな?と思っても、プラトンもアリストテレスもやっぱり薮の中に……
それは、そういう書物は、結局「しっかり自分で考えなさい」というメッセージなんだと。なるほど……そう思って読むと、そんな気がしてきます。
ということで「決められない」に戻るんですが、最近の短絡的な「決められるのはいいことだ」的風潮からすれば、読めば読むだけ思考の迷路に迷いこんで出てこられなくなるような「哲学書」はまったくのムダということになります。まあ、ニーチェが知りたければ、専門家が解説してくれる「10分でわかる……」を読めばいいと。そこでは、チャート式に哲学者の「考え」がくっきり、はっきり書いてあります。ふーむ、なるほど……ということでニーチェがわかった気になって、いろんな人に「ニーチェはこう考えてたんだよね」なんてしゃべりはじめる。
うーん……「決めるのはいいことだ」式の考えからすれば、これは立派に「いいこと」なんでしょうね。なんせ、自分で考える必要がない。あたかも「自分で考えたかのように」ちゃんと書いてあるんだから、それを違和感なく「自分の考え」とすればいい。そして、すぐ行動せよ!
そうなんですね。すべて「行動」を前提としている。「決められる」は「行動」に直結する。迷わず、自信をもって、さあ行動だ!
ぐずぐず、うにゃうにゃと迷ってる人は、おいてかれます。そしてヒノメを見ない。それがイヤならさっさと決めて、即行動せよ!
こういう価値観も、わからないではないです。しかし、みんながソレでいいんですか? いや、アナタはソレで、いいのかな?
迷うことの価値……それは、短絡的に結論を出さずに、持続的に、根気よく考えていく……そのことにつながると思う。脆弱で、頼りなさげに見えるけれど、自分でとことん考える……それはたいせつだと思う。
結論が出ない……ということは、やっぱり、そういうことなんですよ。ばっさり、はっきりと、ダレでも軍人のようになれるワケではない。迷うことの価値……それは、自分で、気のすむまで考えて、考えぬくということに通じる。その結果として、いっさい行動できないように見えても、そこには、実は、短絡的行動がやすやすと破壊してかえりみないものを、ホントに大切に思って育てていこうという意志があるのかもしれません。
わたしは、どっちかというと「決められない」派です。バシバシ決める人は、カッコいいとは思うけど、自分はそうはなれないなあ……










