きめられない政治……ABくんは、民主党から政権を奪還して、「決められる政治になったぞ!」といばってる。でも、「決められない」って、ホントにそんなに「悪いこと」なんだろうか……

「決められる政治」の究極は独裁。ABくんが、なんでも勝手に思いどおりに「決める」。ほかの人は、それにしたがうだけ。北朝鮮みたい……「決められる」は、決める側にとっては常に「善」だけど、決められる側は迷惑。お前にとってはこれがいいのだ!と、他の人に決められて従うしかない。地獄です。

昨今、なんでも「決められる」が「いいこと」だという風潮が、あまりに安易にいきわたりすぎてるんじゃなかろうか……政治でも、会社の仕事でも、いろんなサークル活動でも……トップの力量を「決められる」で測る。まあ、そりゃ、団体だったらそれもアリかもしれませんが、万事そうなりつつあるような気がしてコワい。

哲学の本なんか、読んでてわからんという声をよくききます。私もワカラン。私の頭がアホなのか、それとも…… 絵描き仲間と、昔、カントの『判断力批判』を読んだことがありました。数ページ分をプリントして、みんなで少しずつ読む。『判断力批判』は、美学について書いてあるので、みんな興味をもったワケです……しかし、ワカラン。

数行、いや、一行だって、コレ、なにが書いてあるの? というくらいワカラン。むろん日本語訳(岩波文庫)で、日本語の文章なんだけれど、やっぱりわからない……で、ある人が、「これって、ボクの頭が悪いからワカランの? それとも、実は、無意味なことが勝手に書いてあるだけだからワカランの?」と……

なるほど……言われてみればそのとおりです。これだけワカランと、そうも思いたくなる。哲学書って難しいから、やっぱ、こっちの頭がついていかない……と、最初はみなそう思うのですが、なんべん読んでもワカラン。ふつうだったら、くりかえし読めば、なんとなくわかる……あるいは、わかりそうな気分になってくるもんなんですが、カントさんは鉄壁のごとく立ちはだかって、「わかるかも……」という気がぜんぜんしてきません。

うーん……やっぱり、われわれの頭が悪いのか……それとも、実はまったく意味のないことが書かれているのか……専門家って、どうなんだろう……と思ったら、やっぱり専門家もそうみたいです。つまり、哲学書って、ふつうの本とちがって、「なにかを伝達する」ようには書かれていないんだと。

ふつうの本って、なんらかの知識なり情報なり……あるいは気分みたいなものでも、伝えようとして書かれています。著者は、これこれはこうなんだと読者に伝えたい、言いたい、ということで本を書く。きちんとした文章で書いてあれば、ふつうの能力の読者には、ちゃんとそれが伝わる。

しかし……哲学書にかぎっては、そういう書き方じゃないそうです。つまり、人生とはなにか……とか、生とはなにか、死とはなにか、人の生きる意味って、なんだろう……そういうものを「教えてくれる」書物として、みんな哲学書のことをイメージするんだけれど、実はぜんぜん違う。だから、いくら哲学書を読んでも、そういうものについての知識も、教訓も、なにも伝わらない。そもそも、著者自身が、そういうものの知識や教訓を伝えようとして書いていない。

じゃあ……なんのために書いてるの? 哲学書を読んで、伝わるもの、受け取れるものってなんなの? ということですが、それは、結局「自分で考える」ということに尽きるようです。

つまり……哲学書が取り扱うような問題については、「正解」というのがないのですね。読者は、生とか死とか、生きる意味とか……そういう「深遠な」ものについて、「それはこうだよ!」という明解な答を、やっぱり期待してしまう。ところが……うにゃうにゃ、なんたらかんたら……と、いくら読んでもまったくわからない。いや、読む前よりももっとわからなくなる……

でも、それが、ある意味、正解なんだそうです。読む前は、なんとなくわかったつもりになっていて、たぶん今、自分が漠然と思ってることが、「哲学書」にはきちんとした言葉で明確に書かれているんだろう……と思って読み始めるのですが、すぐに薮にぶちあたる。薮はジャングルとなり、沼に足をとられ……かと思うと蚊や蛭や……で、もう立ち往生……

ということで、読者の期待は大きく裏切られる。読んでもまったくわからない。この人、いったいなにがいいたいんだろう……そして、いつしか昼寝の枕に……

でも、哲学書の読み方としては、それが「正解」だそうです。もし、「人生とはコレコレである。」と明解に書いてある哲学書があったら、ソレはニセモノ。まあ、「10分でわかるニーチェ」とか、それに類する本はいくらも出てますから、「わからなくちゃヤダ」という人はそれらを読めばいいんですが、そういうたぐいの本は、結局「哲学書」とはいえない……

ニーチェなら、やっぱ、本人の書いたものを読むべき。ドイツ語のわかる人は原書で。そうすると、まったくわからない……鉄壁にブチ当たる。カントもヘーゲルもそう。ハイデガーもメルロ=ポンティも同じく。古いのならいいのかな?と思っても、プラトンもアリストテレスもやっぱり薮の中に……

それは、そういう書物は、結局「しっかり自分で考えなさい」というメッセージなんだと。なるほど……そう思って読むと、そんな気がしてきます。

ということで「決められない」に戻るんですが、最近の短絡的な「決められるのはいいことだ」的風潮からすれば、読めば読むだけ思考の迷路に迷いこんで出てこられなくなるような「哲学書」はまったくのムダということになります。まあ、ニーチェが知りたければ、専門家が解説してくれる「10分でわかる……」を読めばいいと。そこでは、チャート式に哲学者の「考え」がくっきり、はっきり書いてあります。ふーむ、なるほど……ということでニーチェがわかった気になって、いろんな人に「ニーチェはこう考えてたんだよね」なんてしゃべりはじめる。

うーん……「決めるのはいいことだ」式の考えからすれば、これは立派に「いいこと」なんでしょうね。なんせ、自分で考える必要がない。あたかも「自分で考えたかのように」ちゃんと書いてあるんだから、それを違和感なく「自分の考え」とすればいい。そして、すぐ行動せよ!

そうなんですね。すべて「行動」を前提としている。「決められる」は「行動」に直結する。迷わず、自信をもって、さあ行動だ!

ぐずぐず、うにゃうにゃと迷ってる人は、おいてかれます。そしてヒノメを見ない。それがイヤならさっさと決めて、即行動せよ!

こういう価値観も、わからないではないです。しかし、みんながソレでいいんですか? いや、アナタはソレで、いいのかな?

迷うことの価値……それは、短絡的に結論を出さずに、持続的に、根気よく考えていく……そのことにつながると思う。脆弱で、頼りなさげに見えるけれど、自分でとことん考える……それはたいせつだと思う。

結論が出ない……ということは、やっぱり、そういうことなんですよ。ばっさり、はっきりと、ダレでも軍人のようになれるワケではない。迷うことの価値……それは、自分で、気のすむまで考えて、考えぬくということに通じる。その結果として、いっさい行動できないように見えても、そこには、実は、短絡的行動がやすやすと破壊してかえりみないものを、ホントに大切に思って育てていこうという意志があるのかもしれません。

わたしは、どっちかというと「決められない」派です。バシバシ決める人は、カッコいいとは思うけど、自分はそうはなれないなあ……

今年のお正月は、京都ですごしました。何年ぶりかなあ……年末年始を京都で迎えるのは……泊まったのは、高野からちょっと北の方だったんですが、懐かしい……という気持ちが自然に湧いてきた。私は、京都生まれで、下鴨神社の近くの家でこども時代をすごした。

今回泊まった場所は、そこからは1km 弱離れているんですが、まあ下鴨神社の領域内といっていいでしょう。近くには、下鴨神社の摂社である「赤宮」という神社もありますし……なにより、仰ぎ見る比叡山のかたちが、こどもの頃に毎日みていたのといっしょ……


こどもの頃、夕方になると母親が、すぐ近くを流れる鴨川に散歩に連れてってくれた。川向こうの林のかなたに陽が落ちて、あたりが金色に染まり、水面がきらきら輝いている……で、振り返ると、そこには夕暮れ色に染まった比叡の山が……こどもの頃、毎日見た景色というのは、やっぱり忘れないもんですね。

場所……というのはふしぎなもんです。今回泊まった家の前の道は、いわゆる観光地の京都じゃなくて、全国どこにでもあるごくフツーの街並……あんまり広くない道の両側に、お店があったり会社があったりマンションやアパートがあったり……ちょっと曲がるとコンビニが……


そういう、「フツーの路地」が、そのものさえ、なぜか懐かしい。これはふしぎでした。「場の力」というのでしょうか……あるいは、下鴨神社の神様の力が、やはりその土地を覆っているのだろうか……私は、こどもの頃に京都を離れて名古屋に移りました。そのあと、学生時代に、京都に一時下宿をしていたこともあるけれど……

もう何十年も、京都から離れて暮らしている。でも、京都を訪れて、こどもの頃に暮らしていた場所のそばにくると、やっぱり「自分の土地」はここだなあ……と思います。人の一生……東照大権現神君家康公のように重い荷を負って遠くまで歩む人もいれば、私のように軽い荷さえいやがって……

できるだけ近道したい……という一生を送った人もいる(まだ過去形じゃないけれど)。人の一生って、いったいなんでしょう。いったい何をやったら、「その人の一生を生きた」ということになるのか……これは、いまだにわかりません。人生あとわずかで? いや百まで生きるのかしらんけど、どっちにしても、それがわからなくいいの?ということなんですが……

たぶんほとんどの人がそうだと思う。ただいえることは、人と土地との結びつきって、意外に強かったなあ……ということです。若い頃は、なんでもできるしどこでも行けると思っていました。でも、もしかしたら、人は、自分でも知らないくらい「土地」に結ばれているんじゃなかろうか……

私がおもしろいなあと思うのは、三河の生まれの神君家康公は、生涯その目を東に向けていたのに対して、尾張生まれの信長公と秀吉さんは、一生西に向かう傾向性を持ち続けていたということ。尾張と三河って、今は同じ愛知県で、その境に大山脈とか大河があるわけでもありません。

境川という小さな川(二級河川)があるんですが、上流はもうほとんど認識できないくらいの小川になっていて、車なんかだと、まったく気がつかないうちに尾張から三河に入ってしまいます。でも、やっぱり尾張と三河は、画然と違う……言葉も、尾張の言葉はすぐ北の美濃(岐阜県)の言葉とよく似ているけれど、三河の言葉は、その東の遠州(静岡県)の言葉とほぼ同じ。


こういうことは、いろんな土地にあって、その感覚は、そこで生まれ育った人しか、実は正確にはわからないものなのかもしれません。なにが、それを決めるのだろうか……

今は、その土地のものだけじゃなくて、スーパーに行けば「世界の食材」がカンタンに手に入ります。「土地の食べ物」が<その感覚>を養うんだとすれば、今の人は、もうすでに昔の人が持っていた「そういう感覚」をかなり失っているのかもしれない……あるいは、目に見えない「土地の気」のようなものなのでしょうか。

たとえば火山の噴火とかの大災害で、住民全員がその島を離れなければならない……三宅島とかそうでしたが、避難先で暮らしている人のインタビューで、少しでも早く島に戻りたいという人がけっこう多い。一旦おさまっても、いつまた噴火するかわからないのに、なんでそこまで……と思いますが、やっぱりそれは、その土地に生まれ育った人にしかわからない。

だから、難民の方々って、たいへんだなあ……と思います。自分の生まれて、育った土地から、自分の意志じゃなくて強制的に排除され、見知らぬ地域をさまようハメになる……これが「自分の意志」だったら、まだある程度は納得できるかもしれません。いや、人によっては、見知らぬ土地で暮らすことに憧れを抱くということもあるでしょう。

しかし、自分は、この生まれて育った土地で一生を終えたいと思っているにもかかわらず、外側からの圧力で追いだされてしまう……これはもう、そのものが根源的な悲劇だと思います。あるいは、自分が生まれて育った土地に、外国の軍隊がやってきて基地をつくってしまう……これも悲劇だ。

そしてラスボスのゲンパツ……金のために故郷を売る。これほど悔しく、悲しいことはない。おまえらの住んでるところは、街から遠いから、放射能まみれになってもいいんじゃない? その分、金と仕事をやるからさ……これって、ものすごい侮辱だと思う。しかし、いくら悔しくても、生きていくために受け入れてしまった……

世の中、こういう悲劇に満ちています。昔、岐阜県の徳山村というところを、野外活動研究会のみんなと訪れました。岐阜県といっても、もう山一つ越えれば福井県……というところだったんですが、もう今は、この村はありません。


徳山ダム……これですね。このスゴイダム(ロックフィルという構造では日本一の規模)を造るために、この村の人が住んでいる集落はみな、水の底に……1970年代終わり頃に行ったときはまだ、村は生きてましたが、もうお年寄りばっかりで、みんな静かに「村の死」を待っている状態だった。

いろんな人に話を聞きました。みんな、この村がいいという。それはまあ、何十年も暮らしてきたお年寄りばっかりなので、当然そうなんですが、若い人は、やっぱりほとんどいなかった。もうとっくに保証金をもらって、村の外で「次の暮らし」をはじめていた。

反対運動はなかったんですか?と聞いたんですが、あんまり明確な回答が得られない。もうみんな、「水没」が前提で、今さら……という感じ。のちに、偶然ですが、徳山村出身の青年に名古屋で会いました。反対運動について聞くと、彼自身がその運動に加わっていたそうです。でも、潰してくる側との圧倒的な力の差があって、みんな結局あきらめ、彼自身もインドに行く道を選んだ……

ああ、やっぱり反対運動はあったんだ……そう、思いました。村の中では、ハッキリ聞くことはできませんでしたが……しかし、ダム、こさえたるでー!という勢力にくらべてあまりに微弱……昔から住み暮らしてきた「先祖の地」を追われるんだから、もっと抵抗してもいいのでは……というのはよそ者の考えで、実際の「現場に働く力関係」は、これはもう、なんともならない圧倒的なものだったらしいです。

徳山村は、どこからアプローチするにしても、険しい峠を越えなきゃならない。この峠が、冬は雪で通行止めになる。人の往来も、物流も滞る中での、雪に埋もれた数ヶ月……若い人には絶対にガマンできないから、みんな、ダムの話の前に街へ街へと……仕事、家族、学校のことを考えれば、当然そうなるのでしょう。ということで、「現代文明」を前にして、村の実質はかなり死に近づいていた……ということもいえるわけです。

今、私が住み暮らしているところも、愛知県の「奥三河」と呼ばれる山間地域の入口で、人口がゆるやかに減少しつつある、いわゆる「限界集落」です。 といっても、まだ名古屋とか豊田に近いので(一応豊田市域)ほとんどの人は勤めを村の外に持ち、毎日通ってる。でも、まだまだ、自分の生まれたこの土地に愛着を持ってる人は多い。しかし、こどもたち世代はどうなのかな……

要するに、自分の根っこをどこに感じるか……ということなのかもしれません。私みたいに、こどもの頃に生まれ育った土地を離れてしまったものは、根っこがない。この状態がいいのかわるいのかときかれれば、やっぱりよくないと思います。価値観が、なんというか否定的になる。どっちみち……ということで、神君家康公みたいに「人の一生は……」ということにはなりません。まあ、ぜんぶがそのせいじゃないにしても。

家康の鎖国政策は、いろいろ言われますが、結局はこの問題だったような気がします。つまり、人と土地の結びつきを重視した。そこがちゃんとなってないと、人はホントの力を出せない。この「ホントの力」というのは微妙な考え方で、たとえば海外遊飛(ナント古い言葉)で世界中駆け回って大活躍している人でも、それが「ホントの力」なのかというと、これは考えどころかな……と思います。

今の世界、経済優先で、企業はできるだけ安い人材を求めて世界中に工場をつくる。家康公の考え方からすれば、これはもうムチャクチャです。どれだけ発展しているようにみえても、それは見せかけにすぎず、実は、本質的なところは「破壊」だ。世界一の企業が、今、私の暮らしている街にありますが、この企業のやり方を見ていると、家康公の考えをかなり厳格に守っているところと、まったく反対の考えの二つを持ってるような気がします。

それが、一つの会社としてまとまってるんだからふしぎだなあ……と思うのですが、案外、「生産」にかかわる仕事って、そうなのかもしれません。とすると、ホントに危ないのはいわゆる「虚業」なんでしょうか……歴史には詳しくないですが、家康公は実業タイプ、信長さんと秀吉さんはどっちかというと虚業タイプだったみたいな気がします。海外遊飛に夢を馳せた信長と、朝鮮半島を手がかりに大陸をのっとろうとした秀吉……

これに対して、家康は、「アホなこと言っとらんで、国内をちゃんと固めようよ」という考えだったみたいに見える。幕末から明治期にかけて、アジア諸国が次々と欧米の植民地にされていく中で、日本という島国がナントカ独立を保てたのも、元はといえば家康さんが、「土地に結びつく」政策の基礎を地道に、しかしラジカルにつくったから……これを元にして、日本はちゃんと自前の「19世紀」をやって、「近代」に歩調を合わせていくことができた……

歴史の専門の方からみると、こういう見方はきわめて大雑把で、まちがいだらけなのかもしれませんが……なんか、そう思ってしまいます。人と土地……これは、最大限に広げていくと、この地球という「場所」と、そこに住み暮らすわれわれ人類の「限界」という考え方になる。人類は、地球から出られない。これが、私が最終的に到達した思いなのですが、いかがでしょうか?

昔、「Ich bin Es」という絵を見ました。「私が、ソレである」という訳になるのでしょうか……ネットでさがしてみると……見つかりました。コレ → リンク です(いちばん上の絵)。

ルドルフ・ハウズナー(Rudolf Hausner)という絵描きさんが、1948年に描かれた絵のようです。

ハウズナー(1914 - 1995)は、オーストリアの画家で、いわゆる「ウィーン幻想(写実)派」( Wiener Schule des Phantastischen Realismus )の一人とされています。40年くらい前?に、日本でこの一派の大々的な展覧会があって、私は名古屋で見ましたが、昔の愛知県美術館の壁面いっぱいに、巨大な作品がいくつも、かかっていたのを思い出します。とにかく、デカくて細かい。よう描いたなあ……というのがそのときの印象……

ウィーン幻想派全体については、松田俊哉さんという方(国士舘大学文学部教育学科教授)の論文↓がわかりやすく解説してくれてます。ちなみに、この方自身、絵描きさんで、絵もとてもおもしろい。
リンク(ウィーン幻想派 その背景と5人の画家)
リンク(松田俊哉さんの作品ページ)


Ich bin Es …… 英語では、I am it ということになるのかな? ドイツ語ー英語の翻訳サイトで見ると、It's me というふうになっていましたが、この言葉は、元々、聖書に出てくるもののようです。しかも、特別な意味を持って。

たとえば……

マルコ福音書の14章62節。ユダの裏切りによって捕えられたイエスが、大祭司の前で裁かれるシーン。大祭司の、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」という問いに対して、イエスは、「わたしがそれである。」と答えます。

この部分、ギリシア語原文では、「egoo eimi.」(長母音ωをダブルオーで表現)、ラテン語訳は「Ego sum.」、英語訳は「I am.」、フランス語訳は「Je le suis.」そしてドイツ語訳では「Ich bin's.」(Ich bin Es)となっています。

ギリシア語原文、ラテン語訳、そして英語訳には「es (it)」に相当する単語がなく、人称代名詞の一人称単数主格形とbe動詞の組み合わせ。これに対して、フランス語とドイツ語には、それぞれ suis と es が入ってます。

この言い回しがなぜ「特別」なのかというと……これは、どうやら「神が、自分自身を表わす」という特別の時に用いられる表現であるということのようです。「私が、それである。」つまり、わたしがキリストである……ということをみずから述べる、その決定的なシーンであると。

神は、「在りて在るもの」ともいわれますが、「存在」ということが、神のもっとも基本的な性質になってるみたいです。suis や es に相当する語を入れていないギリシア語、ラテン語、英語だと、一人称の人称代名詞 + be動詞 という構成は、そのまま「私はある」と訳せますが、この感覚だと思います。

私が、私として「在る」のは、なぜだろうか……カントの『純粋理性批判』を読んでいると「統覚」(Apperzeption)という言葉が出てきますが、この言葉を最初に用いたのは、どうもライプニッツのようで、手もとの哲学事典(平凡社)には、次のように書いてありました。

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明瞭なる知覚表象および経験を総合統一する作用の意味。この言葉を最初に用いたライプニッツによれば、知覚は世界を映すモナドの内的状態であり、統覚はモナドの内的状態の意識的な反映である。
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もうだいぶ以前に、作家の安部公房さんの講演会を聞いたことがあります。『箱男』という作品の書き下ろしのときだったので、40年くらい前かと思いますが……そのときの彼の話で印象に残ってるのが、「一人の人間の表現力」について話されたこと……

彼は、「一人の人間の表現力というのは、それはすさまじいものがある」というようなことを語った。言葉がこのとおりだったかどうかは自信ないのですが、たとえば、街で、だれかが絶叫したり暴れはじめたりする。それが、抑制のきかないものになれば、たった一人でも、ものすごいことになる……なんか、こんな内容だったと思います。

ふつうの暮らしでは、だれでもちゃんと抑制を効かせているので、社会の中の一メンバーとして嵌っているけれど、そういう人でも、ちゃんと「一人の人間としてのすさまじい表現力」というものを持っているんだ……なんか、こんなようなことを語られた。

その後……たとえば、秋葉原で人を車で轢きまくってナイフで刺しまくった事件とか、小学校でこどもを何人も殺した事件とか……そういう、「野蛮な」ニュースに出会うたびに、安部公房さんのあのときの語りを思いだします。おれが、オレが……この「鬼」が目覚めると、人は、「本当の鬼」になる……


『箱男』は、ダンボールの大きな箱を頭からかぶって、箱の中に生活用品いっさいを吊るして、家もなく街をさまよう男の物語でしたが、今思うと、この「箱の中の世界」は、奇妙にモナドの様態と似ている気がします。「箱」が「内部」と「外部」を完全遮断していて、男の自我は、「箱の中の世界」そのもの……もっとも、この箱には、外界を覗くための「窓」が開けられていた。ここは、「窓を持たない」モナドと違う?

しかし、私は、この「窓」も含んで、なぜかモナドとの類似を感じてしまいます。箱の窓に映る「外界」は、本当に「外の世界」といえるのだろうか……

最近、TVで、「未来の車はこうなる」というのをやってました。それによると、自動運転はむろんのこと、未来の車には「窓」がなく、外の景色は、モニターを介して車内に映しだされる。乗ってる人は、あたかも車の窓から外の景色を見ているかのごとくなのだけれど……実は、それは、モニターに映った「外の景色の映像」なんだと……

見たとき、「アホらしい話……」と思いました。なんでわざわざ、外界そのものではなくモニターにせにゃならんのだ……なに考えとんじゃー最近の車の開発者は……と思ったのですが、ムム、待てよ……と。もしかしたら、これって、モナドのすばらしいアナロジーになってんじゃないのかなあ……

この車には、内部と外部があり、しかも、内部と外部を疎通させる「窓」がありません。車中の人は、車の内壁に映しだされた景色を、「あたかも外の景色そのもの」であるように眺める。で、車が動くと、景色も動く。そのさまは、車と外界が、「あたかも連動しているかのように」動く……

なるほど……もしかしたら、モナドってこんなふうなのか……これはたぶん、どっかオカシイとは思いますが、ちょっと超えてしまえばこういう発想にもなるかもしれない。でも、箱男は微妙です。

箱男のダンボールに開けられた「窓」は、彼自身がダンボールを切り取って開けた「物理的な窓」にほかならない。つまり、窓の部分だけ、ダンボールという物質が欠けていて、そこが内部と外部をつなぐ通路になっている……のですが、さて、はたして本当はどうなのか……

われわれの「目」も、そうだと思います。目は、皮膚の一部が長年の「進化」で変化してできたものだと言われていますが、水晶体というレンズで光を取り入れる段階で、すでに「外界の光景」そのものではなくなっている。しかもその上、眼球に入った光は網膜で電気信号に変換されて脳に送られる。ああ……もうこの時点で、実は、「外界の光」とはまったく縁が切れた、単なる「情報」になってしまっている。

この目の構造は、さきほどの「未来の車」ととてもよく似ています。どちらも、レンズという光に焦点を結ばせるものを用い、さらに光を電気信号に変換して演算処理装置に送る。人間では脳であり、車だとCPUになるのでしょうが、そこで演算処理された結果が、車であればモニターに映しだされ、人間では、脳内で「外界の映像」として認識される……

じゃあ、これをもっと進化させれば、車のCPUと人間の脳を直結して、映像信号が直接脳に送られるようにすればいいわけです。車内の壁をモニターにする必要もなくなり、真っ暗でいい。その方が、モナドのイメージにも近そう……

そういう意味では、われわれの肉体そのものも、一種のモナド的な機構で働いているのかもしれません。肉体の外側を覆う皮膚層でいろんな情報処理を行い、その結果が神経により脳に伝達される。脳は、自分は直接外界に触れていると思っているかもしれないけれど、実はそれは、「処理された外界の投影」にすぎない……

人間の肉体とか、未来の車みたいな高度な情報処理をまたなくても、この次第は、ダンボール一枚でも結局同じことなのかもしれない……安部公房の小説は、そんなことも考えさせてくれます。

ダンボールと、最新の科学技術による車内モニター装置、あるいは人間の目という高度な生物学的造形……それって、くらべものにならないじゃん!……と思ってしまうのは、われわれの思考自体が「高度病」というか「高級病」に冒されて、ものごとの本質が見えなくなっているからであって……「基底から」考えれば、もしかしたら、それはどっちも同じことかもしれません。

たった一枚のダンボールが、ものごとの本質から見れば高度な科学技術の成果や何億年の進化の結果と同じ……安部公房さんの「小説技術」は、ペンと紙だけでそういう「離れワザ」を実現してしまいます。うーん……やっぱり、小説家のスゴさって、こういうところにあるのかなあ……


やがてじぶんになるまどろみ……なんですが、われわれは、自分で思ってる以上に、「自分になりきっている」のかもしれない。これは寝ているときもそうで、やはり「統覚」は失っていないのではないかと思います。ただ、起きているときとは違うかたちで働いているだけで……

人の脳は、いろんなものが湧き、通り過ぎ、交錯し、わけのわからないものがいっぱい生みだされる、一種の混沌なのかもしれません。ふだん、われわれは、制御棒をいっぱいさしこんでその働きを抑え、コントロールして「常識ある社会人」にふさわしい思考や行動様式となるように、いわば脳を飼いならし、ぎゅうぎゅうに抑制している。しかし、なにかのきっかけで、この制御棒が外れていったりすると……

それが、秋葉原やどこかの小学校みたいな悲惨な事件を起こすのかもしれない……統覚。これはふしぎな言葉だと思います。欧米語だとちょっと語感が違っていて、「a+perception」になる。perceptionの部分は「感覚」とか「知覚」で、「a」は接頭辞だと思いますが、この「a」の意味は、どっちだろう……

接頭辞「a」には2系統あって、ギリシア語からきている「a」は「not」の意味。これに対して、古代英語の「an」(現代英語の「on」に相当)からきている「a」は、「on」、「to」、「in」になるといいます。これで考えれば、「perception」を否定しているわけではないだろうから、やっぱり古代英語の「an」からきているのか……

この考え方からすると、「aperception」は、「知覚にのっかって」とか「知覚へとむかう」みたいな意味になるのでしょうか……先に挙げた哲学事典の、統覚とモナドの関連の記述では、『知覚は世界を映すモナドの内的状態であり、統覚はモナドの内的状態の意識的な反映』とありましたから、統覚、つまり「aperception」は、「世界を映すモナドの内的状態(perception)にのっかって、この内的状態を意識的に反映する」ということになるのでしょうか。

先の「未来の車」の例でいうなら、車内に映しだされたモニターの映像にのっかって、これを意識的に反映する……つまり、オレは、今、こういう「世界」のなかにおるのだ!ということを意識するということ……箱男の例でいえば、ダンボールに開けられた覗き窓に映る「外界」にのっかって、オレのまわりは今、こうなってて、その中に自分はおる!と思う、そのことなのか……

あるいはまた、目や皮膚といった情報伝達器官から送られた情報によって再構成された脳内イメージ(知覚)にのっかって、「オレは今、こういう世界に生きておる!」ということを意識するということなのか……

こういう感覚は、もしかしたらハイデガーのいう「世界内存在」(In-der-Welt-Sein)に近いのかもしれません。彼の表現だと、世界内存在は、タンスの中にモノがある……みたいなものとは根本的に違うんだと。世界に、シームレスに縫いあわされていて、世界そのもののシステムを構成する一部みたいになって、それでも「世界の中に」在る……そういうイメージなのでしょうか?


やがて、自分になるまどろみ……世界は、もしかしたら、じぶんがじぶんになっていく、それにあわせて世界が世界になっていく……そういうことかもしれない。世界中、こういう「まどろみ」に満ちていて、その中で、「統覚」がムクリと起きあがり、「オレだ……」とポッと萌えて、また無明のまどろみのなかに落ちていく……これだと、あまりに安上がりな妄想になってしまうのかもしれませんが、本当のところはどうなんでしょうか……