祖母の四十九日法要 | しあわせのいと

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膠原病、難病である強皮症であり、主症状は慢性偽性腸閉塞。
療養生活でも、闘病しない、難病を持っていても工夫次第で生き方は選べる。
病気の状況を記録 兼
心のことも書いていこうと思います。
よろしくお願いします

今日自宅で行いました。


納骨も行いましたが

法要のみの参列の方もいらっしゃるので

自宅にいました。


お茶を出すだけですが

ちょっとしんどかったですね。


涼しくなってきて

お腹も下痢しがちになってきて

お葬式のときのような体調の良さはなくタラー




祖母の実家の祖母の義妹にあたる大叔母が

早めに来てくれていて

二人で時間を過ごしていました。

いろいろ世間話のような話はしたのですが

少し後悔。


そのとき

祖母は大叔母とはどんな話をしてたのかとか

ちょっと聞いてみたら良かったなぁって

今になって思いましたアセアセ




四十九日というのは

7日を区切りに

お浄土(天国)へ行く準備をされるとのことで

早い人はすぐ行けるし

7日だったり14日だったり

だいたいみんな

7回目の七日四十九日までに

お浄土に行くという考えが

仏教にはあるとのことでした。


その振り分けを閻魔さんがするそうなんですけどね。




流行り病のこともあり

会食はナシでお重を持って帰ってもらったのですが

法要が終わっても

話好きな祖父は

「みんなお茶を飲んで、話そうや」と

座談会が始まりました😅


それなら

ここで会食でも良かったような気もしつつタラー




女性の方には

そぼが持っていた服のなかで

良いものを

少しずつ持って帰ってもらいました。


持って帰ってくれるもんなのかな?

と思ってたけど

わりと持って帰ってくださって

クリーニングに出した甲斐があったなと

ほっとしました。


一番仲良しだった

上に書いた大叔母は

サイズが合わず一枚ももらってもらえなかったのが

残念でした。




そのあとは

祖父の弟の大叔父夫妻と

祖父と母と私でお重を会食。




いろいろ話しましたが

終始笑ってました。


何がおかしいって

祖父ももう94歳なので

頭はまだしっかりしてるのですが

耳が聞こえにくくて

会話がなかなか成立しないこと。


大叔父が祖父の6歳下で

そろそろ耳が聞こえなくなっていて

苦労している大叔母が

一番ウケていました笑い泣き




曽祖父の話になり

曽祖父は市役所職員でしたが

遊び人でもあり

外はいいが内は、、、な人だったようで。

子どもたちにはあまり学校に行かせたがらず

5人?兄弟で

祖父も中卒なのですが

大叔父だけは高校も大学も行っていて。

それには祖父がお金を工面したり

横浜の大学に行っているときも

当時のお金で毎月一万円仕送りしていたそうで。


それを大叔父が

「それだけしてもらっても恩返しをしてない」

と言っているのに対し

祖父が

「恩返しは元気でいればいい」と

スルッと自然に言っていたのが

印象的でした。


祖父は実際苦労してたと思うんですけどね。

若い頃から家族や弟を支えるために働いていたから

まさに働き者で

だからこそ

今でも毎日何かしらの仕事をしている

そんな生き方をしてるんだと思います。


だからこそ

それについていく祖母は大変だったろうと

大叔父は祖母をねぎらっていました。

祖父もよくついてきてくれたと言っていました。




そんな大叔父や大叔母が

祖父も含めですが

あと何年という話をしているのを聞いて


私の家は

私が本当に小さい頃に

曽祖父や祖母がなくなったあと

30代半ばになるまで

ほとんど

親戚の集まりがあったわけではないので


次兄が7年前に亡くなってから

こうして会食をする時間を持つ機会ができて

やっと身内感を感じられるようになり

なのに

それもそんなに長くない現実を

流石に受け止めなければならない時期になった今


加えて

母に兄弟が残念ながらおらず

父方のいとこは私と歳が離れてるぶん

そんなに親しい関係ではない環境で


私は

この祖父や祖母のこんな温かい親戚と

そんなに付き合ってこなかったことを

残念に思いました。


祖父母を訪ねて来られてるのは知っていても

そんなに話すこともなくて

社会人からは家を出てましたしね。




これからどう大事にしていけばいいのか

なかなかそれも

よくわからないし。

なかなか会えるわけでもないですし。


今更だけど

何か大切にできることがあったら

したいなぁって思います。