Jonathan Rauch, The Outnation: A Search for the Soul of Japan (Little, Brown and Company, 1992)  

 

以前 Kindly Inquisitors という本をご紹介した(「Jonathan Rauch, The Kindly Inquisitors」)ジョナサン・ラウシュによる、日本社会についての本です。

 

出版年を見ていただけるとわかるように、結構前の本です。(私には近年な気がするのですが、ずいぶん前なんですよね...)

 

日本の文化や社会についての外国人による著書の中で古典的名著とは言いませんが、興味深い、そしてバランスの取れた観察をしている良い本だと思います。読むと、80〜90年代の日本が感じられます(日本の経済がまだまだ強くなりそうと言っているところであるとか、ノーベル賞受賞者がまだ5人であったとか、サラリーマンや公務員の様子とか)。なので、2020年代の日本は、ここからずいぶんと変わったなという印象も受けます。

 

 

ちょっとした研究上の理由で読んでいるのですが、私の手元には1992年の初版と、最近別の出版社から出た版(Acorn Abbey Books, 2021)の Kindle バージョンとがあります。 2021年版の残念なところは、著者自身も書いているのですが、元の版にあった写真が入っていないことです(上をご覧ください)。なかなか味のある写真が何枚も入っているので、興味のある方は古本で購入すると良いと思います。

 

さて、内容について少々。

 

日本は敗戦後に驚異の復興を遂げ、アメリカを脅かす経済大国になった、ミステリアスな国でした。色々な人がいろいろなことを言うのだけれども、よくわからない。そこでラウシュは自分で出かけて直接日本を見てみることにしました。半年ほど滞在して、さまざまな場所を訪れ、多くの人に話を聞き、その結果考察したことをこの本にまとめています。

 

たまたま入った居酒屋で2人連れのサラリーマン(文中では salaryman という和製英語をそのまま使っていたりします)と同席して仲良くなり、帰り際に名刺を渡されて何月何日の何時にもう一度この店で呑もうと誘われたのですが、行ってみたら店が閉まっていて結局会えなかったので、名刺に書かれた会社に直接行って、彼らや同僚と再び呑みに行ったりもしました。こういう体験を通じて日本の平均的な労働者の仕事ぶりや暮らしを直に観察しています。

 

日本はミステリアスでエキゾチックな国だとアメリカをはじめ西洋の国々で思われていますし、日本人自身も特異な国だと思っています。けれど、ラウシュは、そういう特別さはどこの国にでもあるし、だから、ある意味、日本もアメリカも同じだと言っています。

 

日本に独特な点を1つ挙げると、衝突(conflict)を避けようとするところです。どこの国の人も多かれ少なかれ衝突を避けようとしますが、日本は衝突を避けようとする傾向が特に強いと書いています(Section 50:1992年版と2021年版とでページが異なるのですが、上の写真に見られるようにセクション番号がふってあるので、そちらを書きます)。

 

彼が体験した1990年頃の日本は、経済活動の面では100年前のアメリカに、社会は1950年代のアメリカに似ていると書いています(Section 61)。例えば社会生活の面で、夫が働いて金を稼ぎ、妻は主婦として家のことを切り盛りする、そして自分に与えられた役割を献身的に務めて周りと合わせようとする、などなど。(この辺はバブル崩壊頃までの雰囲気を感じるところの1つです。)

 

西洋から輸入された資本主義、民主主義、自由主義の層が明治以来積もってきて、アメリカとそう違うものではないという中で、その下層にアメリカをはじめ西洋の国々とは違うものも著者は見つけています。ただ、それは、西洋の国々が初めて目にするものではなく、かえって、かつて経験したものでした。それはプラトンが『国家』や『法律』といった書物で勧めていた社会体制や価値観です(Section 62)。

 

一方にはアメリカなどと同様に資本主義やら民主主義やらがあって、他方では全体としての社会に対する各々の能力に応じた貢献と献身が重視される。ラウシュが見た日本は、かつてルース・ベネディクトが見た(『菊と刀』)、花を愛でる繊細な感受性と刀に代表される暴力的な側面という矛盾を包含した日本とイメージが重なります(実際、本書でもベネディクトが言及されています)。

 

あと1つだけ書いておきます。私がこの本に行きあたったのは、レトリック(修辞、弁論、雄弁)と作文(書き言葉のレトリック)が日本の教育に欠けているというテーマについて調べている中でです。 自由闊達な議論の重要性はラウシュがずっと取り組んでいるテーマで、Kindly Inquisitor はアメリカでこの議論の文化が危機に瀕しているということがテーマになっています。他方、The Outnation では、彼の観点からして日本社会にやや問題を感じるのは、まさに議論の欠如、特に他人に対して公に不賛成を表明することを避ける傾向が強いことです(Section 153)。または、アイデアとそのアイデアを表明した個人とを区別して、議論への賛否や批判はとはアイデアに対するもので、個人に対する敵対とは違うという学問の原則が、日本ではあまり根づいていないということを、丸山真男なども引きながら述べています(Section 154)。この辺、ただ6か月の間に見たり聞いたりしたことだけでなく、かなり文献にもあたっていて、そういう意味でもバランスの取れた、よく書けている日本研究です(ちなみに丸山真男とは個人的に会って話したそうです)。

 

これに関連して、よく日本人は創造性(creativity)に欠ける、日本の問題は創造性だと言われるが、それは違うと言っています。日本の電気製品など、いくらでも創造性はあるではないかと。そうではなくて、問題は好奇心(curiosity)と検証(checking)だと言っています。好奇心を持ったり発揮することは、自分のアイデアについても他人のアイデアについても間違いを探すことです。不賛成の表明を避け、率直に批判しあうことを避ける日本人は、ここにおいて弱いと指摘しています(Section 159)。

 

あまりネタバレしてもよくないので、この辺にしておきます。先に書いたように、1980〜90年代の日本を強く思い出させる内容で、この本を読むと日本もずいぶん変わったという印象を私は抱きますが、2021年に新たに出版するにあたって、著者は根本的なところでは日本は当時と変わっていないので、特に変更は加えずにそのまま出すことにしたと言っています。さて、どう思うか、面白い本ですので、読んでみてください。

 

邦訳もでているようです。ジョナサン・ラウチ『The Outnation:日本は外圧文化の国なのか』(近藤純夫訳, 経済界, 1992)。以前も書いたのですが、著者の苗字は「ラウシュ」と発音すると思います。ちなみに、邦訳はタイトルが英語そのままで『The Outnation』となっています。これはそもそも outnation などという英語がないからで、彼が日本で「ガイジン」「ガイコク」という言葉が使われているのを聞いて、「ガイコク」を英語に直訳した造語を作ってみたようです(Section 57)。

 

In the literature and popular imagination of the Japanese, Japan itself is the outsider of the world. It is the outnation, the gaikoku. Just as the Japanese have tended to tell themselves old wive's tales about their sameness, so they have told themselves old wive's tales about their singularity, and I suspect for the same reason: to wish away the reality of conflict and unruly diversity. 

*old wive's tales というのは「迷信」、「言い伝え」です。

 

邦訳版のサブタイトルになっている「外圧」ですが、これはおそらく出版当時の社会・国際情勢の中で読者の興味をひきそうな言葉を入れたのだと思います。確かに外圧についてもそれなりに書かれていますが、本書の基調をなすほどの扱いではないように思います。