日本の大学院に在籍していた頃のことですが、その大学院は必修の授業がない緩いところだったので、指導教官と話して、自分一人では手に負えないような本を、その先生を交えた数名で読むということをしました。

 

そのときに読んだ1冊に、リチャード・ローティ(Richard Rorty, 1931-2007)の『哲学と自然の鏡』(野家啓一監訳, 産業図書, 1993:Richard Rorty, Philosophy and the Mirror of Nature, Princeton University Press, 1977)がありました。

 

*読書会のときに使った Philosophy and the Mirror or Nature のテキスト。

 

ローティは現代哲学を代表するアメリカの哲学者で、ネオ・プラグマティストと呼ばれます。19世紀末から20世紀前半にかけてアメリカで流行したパース、ジェームズ、デューイといった人たちのプラグマティズムの哲学、特にデューイの哲学をヨーロッパ系の哲学と対話させて発展させたといえば良いでしょうか。

 

*画像は CBC News のページから拝借しました。

 

『哲学と自然の鏡』の内容には立ち入りませんが、その読書会で一緒に読んでいた先生が、自分も以前この本を読んだのだけれど、今改めて読んでみると、当時はこの本の内容を何もわかっていなかったんだな、と感想を述べられていたのを思い出します(「感想を述べた」というより、苦笑していました。)

 

私は今、ローティの別の本を読んでいます。『アメリカ 未完のプロジェクト:20世紀アメリカにおける左翼思想』(小澤照彦訳, 晃洋書房, 2006)です。原著は1998年出版で(*)、その先生がアメリカ出張の際に買って読んだと言っていたので、院生だった私も早速読んでみました。わかったつもりでいたのですが、今読んでみると、やはり全くわかっていなかったんですね。

 

*Richard Rorty, Achieving Our Country: Leftist Thought in Twentieth-Century America, Harvard Uiversity Press, 1998.

 

       

 

面白かったので、1箇所だけ引用します:

 

 グローバル化と二〇世紀末のアメリカとの関係は、工業化と十九世紀末のアメリカとの関係に等しい。【中略】

 グローバル化は、労働者を貧困化しないようにする一国の試みが、ただ自国の労働者から雇用機会を奪うだけの結果になるような世界経済を生み出している。この世界経済は、一九〇〇年のアメリカの大資本家たちがその事業に就業している移民とともに共同体を作ることなど考えなかったように、どこの国の労働者とも共同体を作ることなど考えていない国際的上流階級によって、まもなく所有・支配されるだろう。アメリカの大学が海外からの寄付に依存する割合も、アメリカの政党が海外からの賄賂に依存する割合も、アメリカの経済が〈財務省長期債券〉の海外売買に依存する割合も増大している、そのことが現在の趨勢を示す実例である。

 この驚くべき経済世界主義(economic cosmopolitanism)は、副産物として、好ましい文化世界主義(cultural cosmopolitanism)をもたらしている。精力的な若い企業家の一団が大洋横断のジェット機のファーストクラスを満たしている一方で、その後部座席は、気持ちの良い場所で開かれる学際的研究会議に急ぐ、わたしのように腹の出た教授でふさがれている。だが、この新たに得られた文化世界主義を享受しているものは、もっとも豊かな二五%のアメリカ人に限定されている。この新しい経済世界主義からは、残りの七五%のアメリカ人が自分たちの生活水準はどんどん下がっていくだろうと思うような未来が予感される。私たちアメリカ人は世襲的な社会カーストに区分されたアメリカを創り上げることになりそうである。このアメリカは、マイケル・リンド(Michael Lind)が(『次世代のアメリカ国民』(The Next American Nation)の中で)「上流階級(overclass)」と呼んでいるものによって、つまり高等教育を受け費用をかけて身なりを整えた二五%の上流階級によって支配されるだろう。もっとも恐ろしい社会動向の一つは、一九七九年には社会経済的に上流階級の住む地区のアメリカ人家庭出身の子どもは、貧民街の家庭出身の子どもよりも四倍も大学を卒業する見込みであったという事実である。現在ではその差は一〇倍にもなっている。(pp.90-92)

 

「精力的な若い企業家の一団」と「私のように腹の出た教授」が、飛行機のビジネスクラスとエコノミークラスに分かれて乗っているのは、いろいろと言い得ていて妙ですね。

 

本書は、ローティの講演録をおさめたもので、アメリカの左翼思想と活動の変容と衰退を描いています。ローティ自身の子ども時代から今に至るまでと重ね合わせて書かれているのところがあって面白いのですが(親が共産党員で、デューイを含め左翼的な知識人たちとも個人的に交流があったそうです)、20世紀初頭、デューイのような知識人が労働者や移民に語りかけ、彼らとの連帯を通じてアメリカ社会をより平等で、誰にとっても住み良い社会にしようとしていた頃と比べて、20世紀後半には左翼も変わってしまったということです。端的に言うと、左翼は行動するのではなく、単なる理論家、傍観者になってしまったと(行動しない左翼は左翼ではないのではないか、と疑問を呈しています)。ただ傍観するのではなく、現実社会の問題に再び彼らが取り組まないことには、アメリカの理想は廃れ去るしかないと彼は言います。

 

左翼は大きく分けて社会・経済的な左翼(経済的格差などの解消を目指す)と、文化的左翼(ジェンダーなどの問題で不当に虐められたり抑圧されたりすること同い社会を目指す)に分けられますが、20世紀後半には左翼は後者(文化的左翼)に偏ってしまい、その分野ではそれなりの成功を収めているものの、左翼知識人と庶民との対話と共同により社会・経済的平等を目指すという方向性は置き去りにされてしまいました。その帰結の1つが、上に引用した部分に書かれている、グローバル化における格差の拡大です。

 

ローティは現代の哲学を語る上では避けられないビッグネームです。本書はアメリカの歴史や思想についてある程度知らないとやや難しいところもありますが、読んでおいて損はない本です。『哲学と自然の鏡』などは哲学の専門家でなくては読めないですが、この本は教養書として読めない本ではないと思います。

 

ローティについては、またいつか別の機会に書きます。