北アメリカ大陸は、ヨーロッパ人の到達と定住に関して言えば、基本的にはヨーロッパに近い東海岸地域(大西洋側)にまずはやってきて定着し、その後少しずつ西の方(太平洋岸)に向けて活動と居住の範囲を広げていきました。広大な土地にすでに住んでいた先住民との接触、交易、そして征服、さらにはアパラチア山脈やロッキー山脈、そして厳しい気候(北部の極寒、中部の酷暑)などを克服して、ヨーロッパ系の人々は北米全土に広がるようになりました。(アメリカとカナダで大陸横断鉄道が開通したのが1860〜80年代、そしてよく知られているように、アメリカ合衆国で「フロンティアの消滅」が宣言されたのは1890年代です。)

 

ヨーロッパ人がロッキー山脈のさらに向こうの西岸地域を探検して、地理的な知識を得るのは18世紀末から19世紀前半にかけてです。もちろん彼らは太平洋岸にすでに船で到達していて、例えばアメリカのワシントン州とカナダのブリティッシュ・コロンビア州にある2つのバンクーバーに名前が残っているキャプテン・バンクーバー(George Vancouver, 1757-1798)や、南太平洋の探検で有名なクック船長(James Cook, 1728-79)などが、この地域・海域を探検しています。オレゴン州ポートランドで太平洋に注ぐコロンビア川などを遡ることもしていたようですが、川の源がどこかまでは知りませんでした。

 

現在のカナダにあたる土地にはイギリスのハドソン湾会社(*)があり、あとでカナダ人が設立したノースウェスト会社(**)も同様のことをしていて、両者はビジネスを拡大しようと鎬を削っていました。どちらも大陸の東の方に拠点を持っていますが、あちこちにある交易所(trading posts)で先住民と交易していました。先住民族がビーバーなどの毛皮を持ってきて、それをヨーロッパ人が持ってきた金属の道具や武器、または酒やタバコと交換する形で買いつけるという取り引です。

 

* Hudson's Bay Company:1670年設立。東インド会社みたいな会社で、主として先住民から毛皮を買いつけていましたが、この土地の統治機関のような役割も果たしていました。カナダ東岸の極北地方にあたるハドソン湾に北米の拠点がありました。会社そのものは現在も残っています。

 

** North West Company:1779年設立。モントリオールに拠点がありました。

 

どちらの会社もやっていたことではありますが、どちらかというとおそらくノースウェスト会社の方が意欲的だったのは、西方、太平洋岸へと至るルートの発見と開拓です。トラックや鉄道がなかった当時としては、大きな川を船で下るルートが発見できれば物資の輸送にたいへん都合が良かったので、そのようなルートをなんとか探しあてようとしていました。一つの可能性が、ロッキー山脈を水源とする川が、先に書いたコロンビア川につながっているのではないかという希望でした。

 

さて、そのような探検は18世紀末から19世紀前半に盛んに行われました。アメリカでは「ルイス&クラーク探検隊」といわれるものが有名です。これはメリウェザー・ルイス(Meriwether Lewis, 1774-1809)とウィリアム・クラーク(William Clark, 1770-1838)を長とする探検隊で、トーマス・ジェファーソン大統領の命令で派遣されました。(このウィリアム・クラークは、「少年よ大志を抱け」のクラーク博士とは別人です。)

 

探検の行程(Wikipedia「ルイス・クラーク探検隊」より)。

 

同時期に、カナダではノースウェスト会社がサイモン・フレーザー(Simon Fraser, 1776-1862)とデイヴィッド・トンプソン(David Thompson, 1770-1857)に命じて、西部の探検、地図制作、そしてアメリカとの国境となった北緯49度線がどこにあるかの確定などを行わせていました。ルイスとクラークも含めて、彼らはほぼ同年齢ですね。

 

以前少し書いたのですが(「David Thompson」)、トンプソンはカナダ版伊能忠敬(1745-1818)のような人で、しかも伊能が歩いた距離のほぼ倍にあたる距離を徒歩、馬、カヌーで移動してたいへんな地図を作りました。もっとも、イギリス本国は彼の業績をあまり評価しなかったので、晩年は不遇だったようです。

 

以前の書き込みにも引用させてもらいました。オンタリオ州アーカイブの資料です。トンプソンの足跡が記録されています。

 

ルイス&クラークの探検隊は有名で、彼らのガイドをしたサカガウィアというショーショーニーの女性もまたよく知られています。ちなみに、ルイス&クラーク・カレッジという大学がポートランドにあります。

 

サイモン・フレーザーも、彼の名を冠した大学がカナダにありますし、バンクーバー(BC州)で太平洋に注ぐフレーザー川などにも名前が残っています。

 

サイモン・フレーザー(The Canadian Encyclopedia より)       

 

サイモン・フレーザー大学(卒業式の様子)

 

デイヴィッド・トンプソンは、そういう意味ではやや過小評価されているのか、大学名などにはなっていません。ここに書いた探検家の中で彼がいちばん広範囲、しかも長い距離を探索して、コロンビア川の水源から河口まで初めてたどったのですけど、ね。(小学校などにはいくつか名前のついているものがあるようです。)

 

David Thompson (Wikipedia "David Thompson (explorer)" より)

 

ただ、彼の生涯と業績については以前の書き込みでご紹介したドキュメンタリーであるとか、本でも読むことができます。例えば、以下に表紙の写真をコピーする D'Arcy Jenish, The Epic Wanderer: David Thompson and the Mapping of the Canadian West (Bison Books, 2009) など。

 

 

この本には、トンプソン(やその他の人々)がどれほどの苦労をして未知の土地の知識を得、地図を作ったりしたのかが書かれていて面白いです。トンプソンは先住民族の女性と結婚し、彼女との間に生まれた子どもが幼いうちから探検の旅や交易所での先住民との取り引きなどに同伴していました(他のヨーロッパ人もそうしていた人が多かったようです)。彼はまた、測量をするのに星の位置を確認するので一人星空を見ながら作業をしていたことから、北米北西岸地域の先住民族セイリッシュ(Salish)の言葉で「クー・クー・シント」(Koo Koo Sint:星を見る人)という名前で呼ばれていました。

 

David Thompson taking an observation (Library and Archives of Canada, 

Box Number: A630-01, Item Number: 2900259)

 

雪に埋もれながら道なき道を進むとか、怪我や病気とか、カヌーで進めないところはカヌーも荷物も担いで移動したとか、虫に刺されまくったとか、食料が尽きてどうしようもなかったので死後数日経っている動物の死骸を食べてお腹をこわしたとか、先住民に馬や荷物を盗まれたとか、戦闘的な先住民族に脅されたとか、先住民の言語をいくつ覚えたとか。未知の土地を知りたいというトンプソンたちの熱意に感心するやら半ばあきれるやら、とにかくこの未知の世界をなんとかして理解可能で人の通える場所にしようと尽力した、稀有な人物です。

 

再現したものですが、交易所とはこんな感じのものだったようです(Legends of America というサイトから拝借したイメージです)。もっと粗末なものもあったことでしょう。外敵に備えて柵があります。東京ですら断熱材入りの壁のある家で暮らしている私には、信じがたい暮らしです。

 

カナダの公文書館から取得したイメージです。Fort Matagama, Hudson's Bay Company. (Library and Archives of Canada, Box Number: A005-01, Item Number: 2838774)

 

1901年の写真です。イヌイットの女性と子どもが映った写真ですが、背景に写っている建物は、ハドソン湾会社の鯨油精製施設らしいです。今回の話とは若干違いますが... こんなところでも活動していたのかという雰囲気のようなものを少しくらい感じられるかと(Library and Archives of Canada, Box Number: 3593, Item Number: 3603155)。