教科書や教師の頭に整理されている知識事項(公式や年号など)や読み書き技能を、教師が口頭の説明や板書を通じて提示し、生徒はそれを覚える、という形式の授業に対する批判は学校制度がはじまったのとほぼ同じ頃から存在します。このような批判の初期のものはジョン・デューイ (John Dewey) の名とともに記憶されている進歩主義教育 (progressive education) でしょう。進歩主義的立場によると、学校では、知識や技能が児童生徒の生活上の必要や興味に結びつかない形で提示されるために、授業は効果が上がらずかつ面白みのない苦役のような時間に成り下がっています。そこで、児童生徒が興味や実感を持てるように、彼らの生活経験の文脈に出来るだけ沿うか、または児童の自発的な興味から出発する教授法が提唱されます。例えば計算を教えるのにはお店屋さんごっこを通じて教える、などの方法がとられるようになります。

進歩主義教育は20世紀前半にはやり、我が国でも第二次大戦後にはやりましたが、児童の興味や生活経験の文脈を重視するあまり学習内容が系統性を欠き、ごく初歩的な知識や技能の域を出ない教育がまかりとおるようになってしまったという批判が出されるようになります。つまり、学校で教わる教科は学問分野の知識内容を反映したものであるはずなのに、児童生徒が楽しみながら実際の活動を通じて学んでいれば良いとする進歩主義的風潮によって、知的内容や知的レベルに問題が生じたとする指摘です。おりしも進歩主義教育発祥の地であるアメリカでは1957年のいわゆるスプートニク・ショックにより、数学や科学の分野での遅れが問題とされ、学校教育の改善が叫ばれるようになりました。アメリカのみならず日本でも学力の低下が問題視されるようになります。

このような社会的背景で出て来たのが心理学者ジェローム・ブルーナー (Jerome Bruner) による「教科の構造」や「発見学習」という考え方です。これは児童生徒の興味を刺激しなければ効率的な学習は期待できないと考える点ではデューイと共通しますが、興味の喚起は知的内容を損なうことなくしなければならず、また、そうすることは可能であるとする立場をとります。よって、児童の生活経験の文脈に沿って教科を教授しなくてはならないとは考えません。各教科の根本または背後にある学問領域は科学者や学者といういわばプロが従事するものの、その根本は人間の世界に対する興味であるとし、専門家の興味も児童生徒の興味も根は同じだと考えます。よって、彼は専門家がやるような「発見」の作業を児童生徒も行い、レベルの差こそあれ、子どもも自ら「発見」するかたちで知識を習得して行かなくてはならないとします。そして、生活の文脈に沿って学ぶ、いきあたりばったりのような学習では知識の習得の系統性に欠けるので、結局は学習の効率や学習が到達できる範囲に問題が生じるとし、それぞれの学問分野や教科が持っている知識の「構造」に従って学ぶことが知識習得の効率を上げることにつながると唱えます。

ブルーナーの教授理論は60年代から70年代頃にかけて日本でも大変影響を持ちましたが、その後影響は低下します。この間の事情はまだはっきりつきとめられてはいませんが、ひとつにはゆとり教育など、知育重視を改めるという風潮や、もう一つにはブルーナー理論そのものの限界があったのかもしれません。私自身は「発見」など魅力的なことばが使われているものの、ブルーナーの当時の理論は、結局は既存の知識を効率的に教え込む論理をもっており、そこへの関心が高いか低いかという歴史的社会的事情によって影響力の違いが出たのだと思います。さらに、ブルーナーは知的内容ということで、カリキュラム開発に第一線の学者や科学者がかかわることを唱えており、これが日常の教室で授業を行う教師の必要からはかなり距離を生じることになってしまったのではないかと考えます。

ハワード・ガードナー (Howard Gardner) は「多重知能 (multiple intelligences)」 の理論で有名なハーバード大学の研究者です。彼は従来の学校教育が人間の精神の働きのごく一部だけに注目しているところを問題視しています。すなわち、彼曰く、学校教育でいわゆる知能 (intelligence) とされ尊重され育成されるのは(叙述的な)言語と論理による思考や表現の能力にほぼ限られているのですが(ガードナーはこれを law-professor mind と言っています)、音楽や対人関係など他にも様々な能力が人間にはあります。それらは第一に論理的な能力と同様に価値があるのに評価されず、第二に、それらの諸能力(彼はそれら全てを「知能」の名で呼び、よって「多重知能」という理論になります)は各々違った構造や特性を持つのに、一様な教育方法しか学校ではなされていないと指摘します。このような状況により、論理的能力以外の能力を持つ子どもたちが評価されず、さらには一部の特殊な「知能」にもとづいた教授法が支配的になっていることで学校教育が非効率的になっていると批判します。

ガードナーはこれらの諸「知能」が天性のもので、このような生まれつきの性向または才能を無視して教育を行うことの無意味さや非効率性を問題とします。しかし、本当に能力は生まれつきのものでしょうか。また、児童生徒の興味や関心はそのような能力によって規定されてしまうものでしょうか。例えば教育が成功する条件や教育の意義は、子どもが生来持っている能力や性向に沿うことにあるのでしょうか。教育の意義とは、子どもの目を新たな世界に向けてひらくことにもあるのではないでしょうか。

イーガン自身によればブルーナーもガードナーも基本的にはデューイ主義者であり、そのような立場とイーガンの立場とは根本的に違うということです。イーガンの学説はソヴィエトの心理学者ヴィゴツキー (L. S. Vygotsky) の論を取り入れていますが(例えば「認知的道具 (cognitive tools) 」と言う時の「道具」概念など)、これまでの教育に対する伝統的な見方や進歩主義的な見方とは異なる新しい論だと主張しています。