シマダノシマニッキ
下山時は登りの疲労蓄積もあり、やはり慎重に下る必要がありますね。 前日の登り時は初体験の激しい雷雨にも合い、またいつものごとく山小屋の窮屈な相部屋で心身がリラックスせず、疲労で軽い頭痛までするというbadな状態でした。 下山後に知ったのですが、私達の登頂直前には、燕岳頂上付近で地元在住の男性登山者が踵に落雷し、その後、燕山荘で待機したものの単独下山が不能となり、翌朝救急ヘリで搬送された(搬送に向かうヘリコプターのプロペラ音は下山時に聞こえました)。また2人の女性が下山時に歩行不能となり、背負われて下山したようです。
転倒の原因は油断とオーバーワークですね。 下山時こそ慎重になる必要があるにもかかわらず、登りがそんなにハードには思えなったので、いい気になってガイド役のモンベル社員の方とペラペラと愉しく会話し、ポールも使用せず調子に乗ってバンバン下り、その結果、転倒5分前頃から未経験の膝下の無力感に襲われ、これはマズいなと思っていた矢先の出来事でした。
そして下山時、スタートした登山口まで残り10分の地点で派手に転倒し、1mほど滑落しました。 しかし幸いなことに滑り方が上手くいったのか、ほぼ無傷で下山できました。 しかししかし非常に恥ずかしかった。なぜならツアーに参加した私よりも高齢の方々は誰も転倒などしていなかったようなので。 さすが北アルプス「三大急登」のひとつ、私にとっては、高低差1,300mの少しハードな山行(さんこう)でした。
先日、モンベルさんのバスツアーに参加し、3日間かけて(※)長野県安曇野市にある「燕岳」(つばくろだけ。標高2,763m)に登りました。※1泊目は登山口がある「中房温泉」(なかふさおんせん。標高1,462m)。「日本秘湯を守る会」会員で、14の多種多様なお風呂がありました。 2泊目は山小屋「燕山荘」。展望カフェでいただいたモンブランは美味しかったです。
今回のワールドカップほど、チケット購入における「格差」、サポーター間での「分断と対立」による激しい暴力事件(ネット世界も含む)、政治介入(イラン問題、トランプによる電話介入)などが顕著になった大会はないでしょう。 そういう意味では私にとっては極めて不快でネガティブな大会でしかありませんでしたが(既にこの世界から本籍は抜いていますが)、各年代別チームを辛抱強く指導し、苦労しながら指導者としての階段を一歩づつ上がってきた監督が優勝監督になったことは唯一明るい、これこそがナショナルチームの理想的な在り方、ナショナルチームの監督の健全な在り方を示した大会となりました。
そしてそして、「2026 FIFA World Cup」で優勝したスペインの監督、デ・ラ・フエンテさんはバスク地方の出身。選手にもオサスナ出身のメリーノさん他、バスク地方出身者が多数いたこと。 また「アーセナル」の監督、アルテタさんもバスク地方の出身者だし、これはもう世界のサッカー界において、「バスク、バスク、バスク・クレッシェンド」以外のナニモノでもないでしょう。
そして岡崎さんから伝えられた次の話は、我々の共通の親友であるkibuさんが(バスク地方 サンセバスチャン出身)、ポーランド代表チームのヘッドコーチに就任したという話。ポーランド代表チームの監督は、私と同じ歳の友人、Urbanさん(元ポーランド代表選手。オサスナでも活躍)。 また我々の親友であるInigoさんは、あの「アスレティック・ビルバオ」のユースチームの監督として大活躍中であること。 サンセバスチャンでは、あのグアルディオラさんやシャビ・アロンソさんも尊敬している、優秀な指導者育成者であるミケル・エチャリさんの名前が指導者養成学校の名前になったことなどなど。
その岡崎さんが、日本のJ2、J3と同レベルのスペイン5部リーグのクラブのGM兼監督として大活躍されるとは何と夢のある話でしょう。 以前の私なら、「Santurce」を、これからスペイン4部、3部、2部、1部と段階的に昇格させる「岡崎・クレッシェンド」支援のために、クラブの新規株主や新規スポンサーを集めるべく動いたでしょうが、私は既にその世界の住人ではないので、その業務は、このブログを読んでいるあなたにすべてお任せします。 その業務は、非常に夢のある大きなプロジェクトで、極限の興奮と熱狂をあなたにもたらすと思います。
あなたもよくご存じのように、今年の「UEFA Champions League」(※)の優勝クラブである「パリ・サンジェルマン」や準優勝クラブ「アーセナル」(ロンドン)などヨーロッパのトップサッカークラブでは、「UEFA Pro License」という資格習得者しか監督ができません。 岡崎さんは、その「UEFA Pro License」をビルバオで苦労しながら習得した極めて少数の資格習得者です(日本人では唯一かも?)。(※)UEFA=Union of European Football Associations。ヨーロッパ サッカー連盟。
まずは「2026 FIFA World Cup」ファイナルの前日19日午前中に、一時帰国されていたスペイン バスク州ビルバオ在住のプロサッカー監督 岡崎篤さんから嬉しい知らせが届きました どういう内容かというと、岡崎さんが、来月8月から始まる2026-2027シーズンにおいて、スペイン5部リーグに所属する「Santurce」(サントゥルチ。バスク語ではSanturtzi。ビルバオ市内、ビルバオ港の近くの地区)というクラブのGM兼監督にご就任されたというおめでたい話。
今月20日の朝(日本時間)に終了した「2026 FIFA World Cup」は、私にとってはまさに「ロッシーニ・クレッシェンド」によってクライマックスを迎えたような大会でした。
この音楽用語は、19世紀前半に「セビリアの理髪師」、「ウィリアム・テル」などのオペラを作曲したイタリアの作曲家ジョアキーノ・ロッシーニ(作曲家を引退後は美食家としても大活躍)、彼が確立したオーケストラの劇的な演奏技法(様式)を意味する用語です。 短いメロディーやフレーズを何度も何度も繰返し(フィガロ、フィガロ、フィガロ、フィガロ!!。バスタ、バスタ、バスタ、バスタ!!)、楽器を次々に追加しながら、その音量を段階的に強く大きくし、テンポをますます加速させることにより聴衆の注意と集中力と高揚感を徐々に高め、クライマックスで聴衆が大興奮、大熱狂、エクスタシーに達するように計算された技法です。
あなたは、「ロッシーニ・クレッシェンド」(Rossini crescendo)という音楽用語をご存知ですか?
しかし何だか過剰な任務を背負わされているように感じて、いつも参拝中に可哀想になるんですよね。 どう考えてもこの暑さの中で働かされ過ぎですよね。熱中症が大いに心配です。
そして先日、山岳信仰の本を読んでいたら、「大山祇」(オオヤマツミあるいはオオヤマヅミ)は、「日本の山神の総元締め」という言葉を見つけ、今後の山歩き(トレッキング)のトレーニングとして、そして今年初のサイクリングとして、拙宅から往復2.5時間、40kmの地点にある愛媛県今治市大三島にある「大山祇神社」に参拝して来ました。 「大山祇神社」は日本の約1万の山祇神社や三島神社の総本社であり、山の神としてだけではなく、海と航海の神、お酒の神、軍事・武運の神として非常に古くから多くの人々に信仰され続けている由緒ある神社です。
著名な登山ガイドさん、地質学の研究者さん、そして山伏さんと数日間ご一緒に山を歩く予定なので、先月は地質学を、そして今月は修験道を始めとする日本の山岳信仰の研究をしております。
だから、自分だけではなく他者の幸せを求める矢印の成長も促し、多様な矢印が多様なスピードで多様な方向に飛び交う、その自由で解放的な空間を保持しようとする力、矢印の成長を自他相互で担保保障し合うセーフティーネット力、つまりは、あくまで洗練されたスタイルで他者と積極的に関わり、他者の幸せを知り、その幸せを願う矢印が飛び交うことを自他相互で許し赦す力こそが「国力」を向上させると私は考えたのです。
目標に向かっての努力こそが、国民ひとりひとりに「幸せ」をもたらす。 そのためには、AIを始めとしたIT技術を上手に活用しながら、決して傲慢かつ保守的にならず常に学び続けること。そして何よりも「死」を明確に意識しなければ、その努力は長続きしない。 人は「死」を強く意識すれば、生きたいという想いがより一層強くなる。死を意識した時に感じる、私はまだまだやり残していることがたくさんある、まだ幸せになっていない、だから死にたくない。懸命に生きて最大の幸せを味わいたい。その切実な想いこそが幸せを願う矢印をより太く強くする。その切実な想いには自他の区別はない。自分自身と同様に他者も幸せを求める存在である。
だから、低下した「国力」を上昇させるためには、ひとりひとりの想像力(他者を想い遣る力)や哲学する力(考える力)が総合した幅広い他者と「関わる力」を向上させるしか方法はないと思ったのです。 それは今回のワールドカップの日本代表の最終的な総括でもある「個々人の力の向上」と同様なことです。 当たり前のことですが、「個々人の力の向上」、すなわち、国民ひとりひとりが、何かを変えようとしてそれぞれの目標を設定し、その目標に向かって、ひたすら努力しない限り、「国力」は向上しない。
そして、その時に思ったのです。 実は、「国力」とは、国民ひとりひとりがひとりでも多くの他の同国民や他国の国民達と何かを共有しようとする意志と態度によって決定されるのではないのか?と。 関心の矢印が自分自身とバーチャルで限定的な他者だけに向かう時、革新的な何かの商品やサービスを開発し利益を得て、かつ多くの他者に役立ち、世の中を変える、世の中をよりよくしたいというエネルギーは起こらないのではないか?と思ったのです。