シマダノシマニッキ
その「詰め込む、揺さぶる、空っぽにする」というプロセスには随分と懐かしい想い出があります。 今から38年前、私が煩悩塗れで超絶元気・怖れ知らず・生意気盛りの26歳の時に、著名な建築家の彦坂裕先生に言われた言葉を想い出すのです。
今回の番組で先生がお話されたテーマは、「考える」というもの。 その内容を私なりに超々約すると、「考える」とは、「詰め込む、揺さぶる、空っぽにする」というプロセスを経る行為である。 そして空っぽになった器に、いいアイデアが「降りてくる」ことを「待つことが大切。すなわち、最善の準備をした上での知的持久力が必要」というお話でした。
そのNHK「ラジオ深夜便」は、その日の夕方からの千葉県の豪雨報道の関係で、14日0:10からの放送開始となりました(通常は23時からの放送開始)。 よって野矢先生のお話も通常の半分となりましたが(次回10月に残り半分が開陳されるのかな?)、豪雨被害者の方々への冒頭の先生のお言葉には人柄が滲み出ていましたね。さすがです。
Amazonで購入しようとしていたら、野矢茂樹先生からご新著をいただきました 。先作に引続きご高著を頂戴し、本当に光栄で嬉しい限りです。これで野矢先生からいただいたご高著は通算4冊目になるのかな?有難いことです。 8月13日放送のNHK「ラジオ深夜便」内で野矢先生ご自身がおっしゃっていた「哲学者のリミッターを外して書いた本」をもう少しで読了します。いやあ実に読みごたえがありますよ。お薦めです。
さあ次は、ヒンドゥー教で言うところの人生の最終期である「遊行期」に到達できるかどうか? しかしそこに到達することを目指し脂ぎって奮闘することだけは避けたいと思っています。 あくまでもこの「第二ステージ」を大切に愛おしみながら、さりげなく、淡々と、静かに、さわやかに、軽やかに、清らかに、澄みやかに、麗しく生きることだけに徹したいと思います。
煩悩塗れの酷過ぎた「第一ステージ」を心底悔やみ、悲しみ、根源から反省したからこそようやくそこから反転して「第二ステージ」に足を踏み入れたんだと感謝しながら思ったのです。 なるほど、ヒンドゥー教で言うところの「学生期」「家財期」を経て「林住期」に入ったんだと確信したんです。
それらの言葉が、「いま、ここ」、「あるがまま」、「無我」、平安、平和、清澄、冷静、静謐、慈悲、愛、調和、質、一元論(自他不二、無差別)などへと変化し、結果として「幸せ」の概念が大きく変わり、慈悲の世界の一部になりつつあることを体感しつつ、例えば困難な状況下にある方々への祈りの深さや行為が大きく変化したと実感したのです(例えば熊本や安曇野や能登やパレスティナの方々に対して)。
私にとっての「第一ステージ」は、例えばこんな言葉に象徴されるステージでした。 輝く未来のために、大きな夢のために、高学歴(成績)、高い職業実績、高報酬、高い地位・名誉、最大限の奮闘、他者からの高評価、高存在価値、高い目標設定(ゴール)と強い達成充実感、お客様、高速対応、ゲーム、スポーツ、競争、勝利、興奮、熱狂、政治闘争、ローテ・ゲバルト、自己優位性の保持、溢れんばかりの情熱、躍動感、USA、量(財産、所有物)、二元論(私とあなた=他者)など。
私にとっての「第二ステージ」とは何か? その前段階の「第一ステージ」とは何か?
「ああ今、私は『人生の第二ステージ』にいるんだ」、「『第二の人生』を歩んでいるんだ」と心身の最内奥部分、あるいはヨーガで言うところの「シシュムナ」(※)の中心部で感じ、とても嬉しくなったのです。 そして「幸せ」の概念と、その概念を構築する様々な価値基準が大きく変容したんだと明確に認識したのです。(※)スシュムナー、サンスクリット語:सुषुम्ना suṣumṇā。体の中央、背骨に沿って通っている最も重要なエネルギーの通り道《中心軸・中脈/ナーディ》)
先日、濃紺のスエード生地でできた心地よいソファに座り、植木屋の岡山光章さんからいただいた大変貴重な東ドイツ製のスピーカーから流れるショルティ指揮のワーグナー「さまよえるオランダ人」を聴き恍惚となり、イェール大学教授 シェリー・ケーガンの「『死』とは何か」(日本縮約版 柴田裕之訳、文響社、2018年)を膝上に置いた瞬間に強烈に確信したんです。
しかし初級のトレッキング愛好者が、そんな偉そうなことを力んで言ってもしようがないので、まずは転倒しない、下山後に大腿筋の前部が痛まないトレーニングを毎日地道にするしかないですね。 でもこの暑さの中、屋外でのハードな階段トレーニングは、正直ちょっと躊躇うんですよね。
見えますか?写真上部の真中と左側に計2羽の雷鳥(おそらくツガイ)がいます!! つまり私にとってのハイキングとは、毎日の瞑想や坐禅の延長上にある行為であり、通常よりも少し強負荷と強ストレスを心身に与えることにより、例えば「下りが弱い」「油断しやすい」自分などを新たに発見し(自分の限界を知り)、それを反転エネルギーとして、より強烈なバンガー状態に至ろうとする。その結果バンカーを体感できても、その状態に決して渇愛的に固執せず、すばやくさらりとその状態から脱し、さらにただただしなやか、のびやかな光の一部だけになろうとする行為なのです。 だからハイキングは、矮小で自利的な(まったく利他的ではない、ただただ自分のためだけの)目的達成満足・充実体験や、他者と競争し勝利することで自己優位性、評価・名声、あるいは地位向上や収入などの快感と実利を獲得したい、あるいは勝利による興奮、高揚感や熱狂を体感したいなど、煩悩塗れの スポーツとはまったく次元の異なる静謐で清らか、私にとっては美しいと思える行為なのです。
ピンクの花は、「高山植物の女王」とも称されるコマクサです。 「私」の心身がすべて溶け「無我」となり、その結果、怒り、憎しみ、妬み、恨み、不安、貪欲さ、無知、他者からひたすら高評価を求める、美味しい食事を愉しみたいなどすべての煩悩が徐々に消滅していき、あらゆる二元論を超え(死と生、善と悪、美と醜などの区別を超え、すべてを肯定する)、完全なる自他不二、宇宙と合一した状態、そう、ただただ慈悲の光に満ちた世界の一部となり、その一部となった意識さえバンガーするためです。究極の平和、平安、平穏、調和のとれた状態、清く美しい涅槃寂静の世界の一部になることを求めてトレッキングに励んでいます。 そしてバンガー状態になることを穢れた欲望で求めないピュアな態度こそが最も重要である、そのことをトレッキングのたびに確認し続けています。
私がトレッキングに求める理由はただひとつ。 それは「幸せになるため」です。 そして私にとっての「幸せ」へのパスキーは「溶解」「消失」、すなわちパーリ語のBhanga / ภงฺค(バンガー)状態になることです。 様々な煩悩で汚れ穢れた、ちっぽけな「私」が山々や空、湖や川などの自然、つまり宇宙の中ですっかり浄化され、そこにサラリと溶け込み、やがて自我が消滅していけばいいなと思いトレッキングしています。
では転倒してまで、「なぜ私はトレッキングをするのか《山に登るのか》?」 それは、 1. 長生きし、人生を愉しむため。そのための健康維持運動として。 2. ツアー参加者達と一緒に高山植物や植生などを愉 しむため。 3. 自然と一体となり様々なストレスから解放され、非日常的な体験をするため。 4. 「己の拳ひとつで」自分の限界に果敢に挑戦し、登頂達成感を得るため。「まだ見たことのない景色」を観るため。 などでは決してありません。
下山時は登りの疲労蓄積もあり、やはり慎重に下る必要がありますね。 前日の登り時は初体験の激しい雷雨にも合い、またいつものごとく山小屋の窮屈な相部屋で心身がリラックスせず、疲労で軽い頭痛までするというbadな状態でした。 下山後に知ったのですが 、私達の登頂直前には、燕岳頂上付近で地元在住の男性登山者が踵に落雷し、その後、燕山荘で待機したものの単独下山が不能となり、翌朝救急ヘリで搬送された(搬送に向かうヘリコプターのプロペラ音は下山時に聞こえました)。また2人の女性が下山時に歩行不能となり、背負われて下山したようです。
転倒の原因は油断とオーバーワークですね。 下山時こそ慎重になる必要があるにもかかわらず、登りがそんなにハードには思えなったので、いい気になってガイド役のモンベル社員の方とペラペラと愉し く会話し、ポールも使用せず調子に乗ってバンバン下り、その結果、転倒5分前頃から未経験の膝下の無力感に襲われ、これはマズいなと思っていた矢先の出来事でした。
そして下山時、スタートした登山口まで残り10分の地点で派手に転倒し、1mほど滑落しました。 しかし幸いなことに滑り方が上手くいったのか、ほぼ無傷で下山できました。 しかししかし非常に恥ずかしかった。なぜならツアーに参加した私よりも高齢の方々は誰も転倒などしていなかったようなので。 さすが北アルプス「三大急登」のひ とつ、私にとっては、高低差1,300mの少しハードな山行(さんこう)でした。
先日、モンベルさんのバスツアーに参加し、3日間かけて(※)長野県安曇野市にある「燕岳」(つばくろだけ。標高2,763m)に登りました。※1泊目は登山口がある「中房温泉」(なかふさおんせん。標高1,462m)。「日本秘湯を守る会」会員で、14の多種多様なお風呂がありました。 2泊目は山小屋「燕山荘」。展望カフェでいただいたモンブランは美味しかったです。