分断。
最近の各種メディアやSNSにおいて最も多様される言葉、それは「分断」という言葉ではないだろうか? 「分断」という言葉がキャッチコピーやリード、本文に使用されている記事や文章を読むと、そのほとんどは「対立」、「相違」という言葉の使用の方がより適確だと思われることが非常に多い。 この分断という言葉の多用現象は10年前の「絆」、「ひとりじゃないよ」などという言葉の多用現象の反動か?と思えるほどだ。 そもそも「私」と「あなた」は差異を前提とした関係的存在であり、たくさんの私達とたくさんのあなた達の間には多様な差異があり、その差異をもって共同で生きていかざるをえないため、それぞれの世界観や幸福感の「共有」=共通事項と差異の理解が必要とされ、それが共同体内で生きるためのルールや道徳となって明文化されている。 そのそもそも当然ある差異を、わざわざ対立、あるいは相互理解が不可能、共有も多様性も寛容さもまったく喪失された絶望的な関係である「分断」という言葉に昇華させ、その言葉で読み手の興味を引き、事実を歪曲し煽りまくった記事で、生きていく力を奪うような絶望的な状況を読み手に与える書き手、無知な分断の扇動者、分断の固定化者、つまりは闘争を煽る破壊的嗜好者と、彼らに煽られている哲学しない人々が、いま、この時間にも世界中に無数に生まれている。この状況は本当に悲劇的だ。 この悲劇的状況を終わらせるのは、まずは「分断」という言葉にジャブで適確な距離を置き、頭とボディを上下左右によく降り、分断というパンチが当たらないようにし、破壊的嗜好者に対して自分の頭で冷静に状況を判断し理解した、哲学したパンチ=認識を撃てる姿勢を静かに維持すること。 そして差異を差異として冷静に認知し、お互いの幸福感の共通事項を粘り強く探し続け、他者の幸福感を少しでも理解し寛容になろうと努力し続ける以外に道はない、とボクは思う。