そして、ある人が真剣に哲学した後に、どのような解を持とうとも、それはその人の自由なのだ。哲学はその人に(他者に)、「これが唯一の正解だから、疑うことなくただ認証せよ!!」などとバカことは決して言わない。そんなパワハラ的な学問ではない。なぜなら哲学は疑うこと、懐疑することから始まる学問なのだから。
そして哲学はその根源において、他者性(差異)、自由、多様性、寛容さを認め、それらを十全に担保する学問でもある。
そのような哲学が求めているのは、真偽、正誤、善悪、美醜、実在・非実在などを自分の頭で徹底的に省察すること、ただそれだけだ。
だからその省察すらしない、私こそが正しい、私の想いや態度は常に正しく、善く、美しいと一度も疑わず信じ切っている、そのような態度を非哲学的だと思うだけだ。
哲学者は、そのような傲慢な態度を取る人間を、それはそれでいいじゃないか、その人の人生の主人公はその人なのだから、どうしようとも、その人の勝手だと思っている。すべてはその人次第だし、その態度を認める。そもそも、そういう人間には何を言っても無駄だ。だからそういう人間には哲学は力を貸すことはできない。
だが哲学者は、そういう無知性で下品な人間達が、自身の思考の射程に入ってこないように、常に鋭く速く強烈なジャブを撃てる距離を密かに保っている。
