先日、ヨーガの先生とご一緒に山口県萩市を観光しました。
JR新山口駅からバス「スーパーはぎ号」に乗車し、約1時間で明倫館に到着。
明倫館内をなるほど、なるほどと見学し、山口の有名うどんチェーン「どんどん」さんで肉うどん+ごぼう天をいただいた後、32℃の炎天下、帽子も被らず日傘もささず(ボクだけ)、ほぼ誰も歩いていない(観光客も地元民も車で移動)萩市の中を3時間超、13㎞も延々と歩き続け、17時前に松陰神社近くの温泉宿にようやく到着。疲れ過ぎて指月山には登れなかったものの「おもしろきこともなき世をおもしろく」できたと勝手に満足し、その後、温泉で日焼けした肌をいたわり、豪華なディナーをいただきました。
しかし松下村塾関係者は若くして亡くなった方々が本当に多い。
まず塾長の吉田松陰さんは東京 日本橋小伝馬町で死刑(29歳)、塾生の久坂玄瑞さんは「禁門の変」で自害(24歳)、高杉晋作さんは下関で病死(27歳)、吉田稔麿さんは池田屋事件の際に討ち死(23歳)、入江九一さんは「禁門の変」で討ち死(28歳)などなど、もし彼らがその後も生き続けていたら・・・・。
そしてそういう彼らがどうしてこの地で生まれたのかが、菊が浜ビーチ近くの女台場から、目の前に4つの島が浮かぶ日本海を眺めていて、なんとなく理解できたような気がしました。
薩摩藩もそうですが、長州、薩摩の両藩とも海に面し、海商によって情報と知識と財を蓄積し、毎日海を見ながら、海の向こうの地に関心を持ち続けたこと、そして関ヶ原の戦いが倒幕の出発点になったんだろうな、そんなことを考えたんです。
関ヶ原の戦まで、萩市の基礎を創った毛利輝元は広島城を本拠地とする大大名であったものの、戦後、家康によって石高を1/4に削減され、周防・防長に押し込まれ(このことにより長州藩が誕生)、薩摩藩の島津義弘は関ヶ原の戦で、家康本陣を正面突破し、何とか逃げ、それから両藩とも徳川幕府に対して様々な感情を抱きながら、様々な藩内闘争を経て、関ヶ原の戦から約270年後に倒幕のために共闘したんだよね。
生は死の始まりであり、死は生の終わりであるように、何事も始まりは終わりを、終わりは始まりを内包するもんだと、女台場からの「萩循環まぁーるバス 東回りコース 松陰先生号」に揺られながら思ったのです。そして吉田松陰さんが提唱した「至誠」の意味を深く考えたのです。
そしてそしてボクも大好きで、日本で、世界で今も大人気の高杉晋作さんとエルネスト・ゲバラさんの共通点は、短い人生、不屈の革命的闘志と実践、ゲリラ戦での無類の強さ、知性と古典的な男性的魅力、なにより透明性、transparency、つまりは潔さこそが彼らの人気の秘密なんだよなぁと考えたのです。
さあさあ、明治維新から約150年が経過し、山口県と鹿児島県の方々はこれからどんな政治的な選択をされるのでしょうか?