先日、所要のために初めてバスに乗って隣の島に行くと(いつもはロードバイクと徒歩)、上の写真に遭遇しました。隣の島は、彼ら、ポルノグラフィティさんとのコラボイベントで満ち溢れていました。

 

 閑話休題。

 スポーツに関わると、他の人間の営為と同様に、ポジティブ、ネガティブな二面を体験します。

 まずポジティブな面は、日常から解放され、生きるエネルギーが新たに補充される、一歩前に進む勇気と希望が強化される、また興奮と熱狂による祝祭の中で、他者との一体感、連帯感が強化されることなどです。

 それに対してネガティブな面は、特にプロスポーツビジネスで顕著に現れる「私ファースト」、エゴが全面に展開される知性と品性のなさで不快感を味わう、差別やパワハラ、セクハラ、贈収賄などの犯罪、SNS上の見るに堪えない誹謗中傷などに直面し、ウンザリさせられることです。
 スポーツに関心を持つことは、そのネガティブな面を十分認識した上で、常に「スポーツとは何か?」と考え、それでもスポーツが発するエネルギーを浴びたいと思うことです。

 スポーツとは、他者と競争し勝利を得ようとする営為である。スポーツは他者が存在して初めて成立する、だからまずは他者の存在に感謝、尊重することからスポーツは始まる。そのことを十分に認識した上で、スポーツに関心を向けないと、スポーツの適確な定義はできない。

 ただ現在のボクにとってスポーツに関わるということは、他者への怒り、嫉妬、憎悪、不安、そして勝敗や数字、金銭欲、権力欲、名誉欲、物欲、性欲などに執着する人間の「煩悩」そのものを見せつけられることであり、「スポーツとは何か?」と考えることは、「人間の煩悩とは何か?」という研究と同義になりつつあります(スポーツに関心を向ける自分もまた煩悩塗れという自省を含め、自身を厳しく研究対象化しながら)。

 残念ですが、ボクにとって、ひたすら「私ファースト」という思考と態度でスポーツに積極的に関わることと関わる人々は、自我がなくなり、それゆえナニモノをも対象化できず(思う主体も、思う対象もない、すべてがノッペリとした状態。この状態を青空として考える瞑想もある)、究極の自由、つまり解脱、涅槃に達しようなどという想いとは対極にある煩悩塗れの汚れた、穢れた、哀れな人々、哀れな営為だとしか思えません(かつてプロスポーツビジネスに深く関わっていたボク自身もそうでした)。

 そういう想いでスポーツを考えているので、先日、パリでの「野獣達の狂宴」で、ある柔道選手が起こした事象は、これまで何度も書いてきたように、「私ファースト」で傲慢なスポーツ選手が起こした象徴的な事象にしか思えません。同時にその選手は、競争対手の他者(次のゲームの待機者を含めて)を尊重しない反スポーツ的選手であったとしか思えません。

 またその選手自身とメディアの煽りで、その選手に過剰に期待を抱き過ぎた、スポーツとは何かを考えることなく、柔道という競技と、それに関わる選手などの競技関係者を美化し過ぎた視聴者達が、その選手の行為に対して誤った認識を抱いていることで事態が過剰に沸騰し、「事件」となったことは、とても残念でした。

 その誤った認識とは、その選手は、自分と家族の利得のためだけに奮闘するスポーツ選手であって、柔道家でも、ましてや武道家などではないということです。

 なぜか?ボクは以下のように武道を定義するからです。もし武道家ならば、利得のために(金メダル獲得とその後の経済活動の保証)、人前で武術をひけらかすことは決してしないでしょう。

 

 「武道」とは、まずは他者を制圧、殺傷する「武術」を身に付け、その武術を磨き、高度化しようと懸命に努力することから始まる。やがて鍛錬したお互いの武術の優位性を競うために他者と勝負し続けると、究極的にはお互いの命のやりとりをしてしまう地点まで進んでいく。

 しかし、自分の武術により他者を何人屈服させても、最終的にはただ自分と他者の心技体を傷つけるだけで、誰も幸せにならないことに気づく。自分も他者も共に幸せに、平穏に平安になるためには、まずは他者の存在を尊重し寛容となり、慈悲の心によって、他者に対して武術を用いることを止めてみる。そして武術を用いることなく他者を調伏し、他者と共存できる「道」を探し、その道が見つかれば、「逃亡者!」、「卑怯者!」などの他者からの批判に一切耳を貸さず、ひとり静かにその道を厳しく歩み続ける態度と営為を意味する。

 

 とにかく選手や、選手OG/OBなどからなる競技協会・連盟などの競技関係者だけではなく、「利潤を上げることを目的とする」すべてのスポーツビジネス関係者(メディア関係者も含む)、他者に対する自己優位性を確認するために諸々のSNSなどに誹謗中傷をばかりを投稿する人間達、SNSなどで殺害予告をする犯罪者達、つまり野獣達の狂宴は、とりあえずは終息しようとしているものの、相変わらずオリンピックの必要性は一切問われることもなく(結果として国別メダル獲得数だけを競い、ナショナリズムを煽っただけ)、ハリス/トランプのどちらが任期を終えようとしているUSA ロサンゼルスで、4年後の7月にまたオリンピックが開催される。その時、4か月後に控えた大統領選のためにオリンピックは政治的に利用され、今回以上の狂宴になることは間違いないでしょう。

 では知性と品性溢れる大人はそういう狂宴のオリンピックに、スポーツにどう関わるべきか?それを自分で考える、哲学することが大人でしょ、とボクは言いたい。