来月下旬に62歳になるのですが、恥ずかしながら62年間生きて、最近ようやく分かったことがあります。

 それは国会、地方議会の現職議員、都道府県の知事や市長など地方自体の現職首長、あるいはそれらに立候補する人間達は、実は他者(国民、都道府県民、市民)にまったく興味がない(他者に興味があるのは選挙の時と、自分のSNSにいいね!とお褒めのコメントを書く人だけ)、単なる「私ファースト」の、エゴの、煩悩の塊なんだ。だから彼らは「私」に注目し、1票を入れ、その後もSNSを見てもらうために実現不能な過激な公約を掲げる。そういう彼らに無私公平や利他の精神を期待したり、国家や地方自体の経営を任せるのは非常に危険だということがようやく分かりました(世界中の政治家達にもね)。

 議員や首長に当選したならば何の実績を残していなくても、何期も連続してその職に固執する、あるいはパワハラ、セクハラ、収賄、横領など数多くの問題を起こしても、「私は選挙民から負託されたから」と開き直る、あるいは他の立候補者を政治屋と口汚く罵ることしかできないような人間達は(そういう攻撃が政治屋の手法そのもの)、まさに「エゴ」に侵された煩悩の塊、煩悩の象徴なんだということが、最近、骨の髄まで理解できました。

 「私」への注目・関心だけが高まり、自身の自己承認欲求が満たされ、当選したならば「私の人生すべて」が信任されたと黒く確信し、支配ー隷属関係の構築にしか関心のない権力欲を極限まで増大させ、やがては「私」と「私のファミリー」にすべての利得が集中するように他者を排除することだけを業務とする、そういう貪欲さ、他者への怒りと嫉妬などの煩悩が純度100%以上で固まっている存在、それが政治家達だとよく理解できました。

 そういう煩悩マックスの人間達のくだらない言動に接することを避け(もしトラ、ほぼトラ、かくトラなど自分が何の影響力も発揮できない他国の選挙結果、それも当たらない単なる自慢予測なども含めて)、世界初となる中村元先生が訳された初期仏教、ブッダ(釈迦、釈尊)の教えが色濃く残っている「スッタニパータ」や「ダンマパダ」の一節でも読んだ方が、よほど心の穢れがとれ、美しい人生を送れる、とボクは思います。

 そこには、「利他」を中核の教えとする大乗仏教と名乗るにも関わらず、「私の」寺院経営だけに執着した現在の日本の葬式仏教(ただ上手にお経を読んでいるだけ、つまりビジネス)、観光仏教(深い経典読解も只管打座《坐禅》も一切せず、禅思想と表し、ただ毎日、庭の掃除をして拝観料を稼ぎ、その上、各種お守りを売り、御朱印帳に終日何かの文字をもっともらしく書くだけ、つまりビジネス。それを分からず御朱印集めに励む人もいるんだよなぁ)、またあろうことか「出家」(家族との離別=家を出る)したはずなのに妻帯し子供までつくり、肉食と酒を好み、僧堂内でパワハラ、セクハラを繰り返し、袈裟を着たまま京都 祇園、宮川町、上七軒などのクラブやスナックに入り浸り、お気に入りの女性に信者からのお布施をお布施し、呆れることに賭けゴルフなどをしている日本仏教の多くの「出家者」の言動とはまったく異なる教えが書かれています。

 特に「スッタニパータ」(中村先生のご高著名は『ブッダのことば』)からは、ブッダの教えの中核部分(初期仏教の中核)を読み取ることができます。

 ブッダの教えの中核は、生きるとは、生老病死、愛憎離別など、何かの対象に執着する心の作用、つまり煩悩から起こる「苦」の連続である。それらの苦の因果関係を明確に意識・分析し(四諦)、どうしたらそれらの苦から解放されるのか?解放されるためには八正道などの実践を行うしかない(犀の角のごとくひとりで歩め)。その修行を怠けずに真摯に続ければ、やがて苦から解放され、一切の苦がない世界、つまり涅槃、解脱、すなわち何も対象化しない(私、自我《主体》がないのだから対象《客体》もない、私も他者《対象》の区別もない)、それゆえ対象に対する何の欲望も起こらない状態、つまり「苦」から完全に解放された、いま、ここに生きている「私」(雲、泡、波)が生まれ、やがて消え、そこに帰っていく慈悲の世界(青空、大河、海)に到達できる、つまり彼岸に渡れる、というブッダの教えを読み取ることができます。

 残念ですが、他者に対する怒りや嫉妬、将来への不安などの煩悩に侵され日々生きていると十二分に分かっていても、たった数時間を惜しんで「スッタニパータ」を読まない、それでも一向に構わないのですが、せめて「私は何のために生まれてきたのか?」という問いを立て、その解は求めて欲しい、哲学して欲しい。それさえしないのは、「ほぼアニ」(ほぼアニマル)です。「ほぼアニ」のまま、この世を去ることは、とても惜しいし、もったいない、もっと厳しく言えば、悲しいし、哀れだと、ボクは思います。

 また政治家や現在の日本の仏教関係者だけではなく、各種ニュース番組に出演し、ウクライナにもガザにもUSAの選挙戦にも何の影響も与えることない解説を得意になって垂れ流している研究者達は、中村元先生の経典に真摯に謙虚に粘り強く姿勢に学んだ方がいいと、ボクは思います。

 そういう訳で、これからの議員や首長選挙時のボクの投票基準は、これまで以上に候補者のHPなどを精読精査し、なるべく「私ファースト」が弱そうで(人相が良さそうで)、国や地方自体の経営センスと能力がなるべく高そうな候補者を「消去法」で選ぶしかないな、つまりは「私ファースト」の候補者を積極的に支持するのではなく、消極的に支持し、自分が投票した候補者が議員や首長になった場合は、その人間が選挙時の公約違反をしないか、傲慢な言動をしないか、それらを冷静に観察するしかないし、もし自分が投票した候補者が当選後に何らかの犯罪行為をすれば、辞任することを願いつつ(当然、強く要請もして)、でもつくづくボクは人を見る目がない、もっと修行しなければいけないと考えよう、そう覚悟しました。

 明日は表現者に関して書きます。hasta mañana.