曹洞宗(本山は福井の永平寺さんと横浜の總持寺さん)の開祖、道元禅師がお書きになった「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)。その中に「生死」という巻があります。

 その巻の一部に、現在の高僧と多くの方々が認める藤田一照老師がよく引用される文言があります。ボクも坐禅を始める時にいつもその文言を思い浮かべ、そしてその文言を忘れ、只座るようにしています。

 その文言とは、「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」という文言です。

 現代語訳すると、「仏の家に我が身心を投げ入れ、仏におまかせし、仏さまに導びかれてゆくならば、己は力をも入れず、心をも働かさなくて、それでいて生死を離れることができ、仏となるのであります」。

 仏とは真理という意味でもあります。この文言に無我、他力、坐禅をすることの意味(~のためにではなく、ただ坐る。ただ仏が坐る)などを感じ取ることもできるでしょう。

 モノゴトに欲望、執着するチッポケな自分(私)を捨てて(忘れて)、一度すべてをあるがままに任せ、任せた結果(『いま』)を覚悟を持って受け止め、「いまあること」を有難しと心から思い、だから「いま」をどこまでも大切に、でも力むこともなく淡々と静かに笑顔で生きていく。ボクはそういう生き方はとても素敵だと思います。