先日ご紹介した『現代現象学』を拝読しました。素敵な本でした。
一番の驚きは、ボクが大学時代に学んだエトムント・フッサール先生の現象学を、
現在最先端の現象学研究者たちは、「古典的」、「初期現象学」と形容していることでした。
確かにね。釈迦の仏教を「初期仏教」と呼び、その後の上座部仏教、大乗仏教、密教などと区別するもんね。
でもね、そんなに「現象学」という言葉=概念にこだわる必要はないんじゃないかなぁ。
せっかく、現象学は経験の探求と適確に定義したんだから、経験の哲学、心の哲学という名称でもいいし、名称そのものが不要なんじゃないかな。
ボクは、現代日本哲学の最高の名著、野矢茂樹先生の『心という難問 空間・身体・意味』(講談社、2016年)を拝読した時に(マルティン・ハイデガー先生の『存在と時間』同様に強く強くお薦めします)、これこそが現代の現象学だと思ったけどなぁ。野矢先生ご本人は現象学はあまりお好きではないようだけど。
「哲学者」と「哲学研究者」は違うんだよね。そのふたつには、生口島と高根島の間の距離よりも遥かに長い、超えることができない大きな差異(違い)があるんだよね。
その違いは、なにか。それは、哲学という学問の目的、あらたな概念を創造し、世界の見方を変えること。そのことを強く自覚し、それを自らの使命とし、誰からも見向きもされなくても、ただひたすらその目的完遂のために、自分を信じてストイックに生き、自分の頭から血を流しなが、自分の言葉=あらたな概念を創造するために生きる人間、それが哲学者だと私は思うんですよね。
だから本当は、ボクの肩書「スポーツ哲学研究者」は違うんだよね。ボクは研究はあくまでも、自分の言葉=あらたな概念を創造するための手段にしか過ぎず、研究活動を基に教育活動をしたり、メディアに出演したりなどして報酬や地位、名声を得ることを目的とはしていないので、研究という漢字2文字は不要なんだけど、なんだか傲慢に思われるのも嫌なので、そういう名称にしているだけなんですよね。
今から愉しいBBQに参加します。誘っていただいて本当に嬉しいな。ここ半年間、とても嫌な思いをしてきた近隣問題も解決に向かいそうだしね。
偉そうなことを書いたので、BBQの間も、そして寝ている間も「スポーツとはなにか」をしっかりと考え抜かないと、単なる「ウソツキの、ゴーマン野郎」になってしまうー。
