備前焼 7
そういう意味では、「関わる」とは、まずは何かを契機として、AとBがお互いの志向で引き寄せられる。またAとBはお互いの存在をまったく知らず、永遠に関わることがないことも含みます(ただしこの場合は関わるという関係が一切生じないため無視します)。 次にAとBが相互に干渉や影響し合った結果、差異を持った二元論的関係が溶解してひとつになる、あるいは離反する(もう関わらない)、もしくはそのいづれでもない(緩く関わる)。 そして最終的には、融合と離反という両端に置かれた2つのポールの間で、様々なグラデーションが生じてきたことに気づく。そのグラデーション(変化と変容)を、こ れが「関わり」だった認知として初めて「関わり」が生じる。 そのような「関わる」という概念を読み替えていくと、存在の根拠性が明らかになるのではないか? また、判断や選択基準、そして自由と規範の関係性、そして概念そのものの根拠性も明らかになるのではないか?私はそう直感・直観しています。 何かと何かが関わる、例えば私と備前焼作品(物)、私と備前焼の陶芸家(他者)、私と雨(現象)、私と明後日(時間)、私とブタペスト(場所、空間)、私とスポーツ(概念)、それらが二元論的に、ガチンコに正面衝突すると、激しい摩擦によって大きな音と熱が生じますが、それらが時間を掛けて融合、あるいは離反していくと、そこからは音と熱が消え、ただ静寂だけが生まれる。その静寂こそが幸福感(苦が消える)を生み出すのだと思います。