現実 | デペイズマンの蜃気楼

デペイズマンの蜃気楼

日々の想った事、出会い、出来事などなどをエッセイのように綴りたいなと。
時折偏見を乱心のように無心に語ります。

たかだか44年生きたところで人生経験は途上であるし到達などない。
いくらえらぶって若さに説教しても明日知った新たな知識で昨日の自分の浅はかさを知る。
そうして重ねて積み上げて、また根元から崩されての繰り返しだけど、それでも得た知恵で語れる経験の中に必ずひとつは「絶対」はある。
刃物で皮膚を深く傷つければ血が出るのが絶対のように、揺るぎない絶対は必ずある。
持つ絶対は人それぞれだ。
僕にも僕の経験してきた事、生きてきた事、人と歩んだ事から学んだ、揺るがない絶対がある。
その「絶対」が何処かの誰かを救えるのならば今まで歩んだ道は価値を花咲かせるし、大きな事ではなくむしろ誰かの些細な一瞬を救えれば良い。

「鼻毛に錯覚はない」

これは僕が得た「絶対」である。
「もしかしたら鼻毛が出てるかも?」
鏡を見ると出ていない。
「よかった。気のせいか」

気のせいではない。
出ているのである。
鼻毛には意志がある。
こそばゆさと痒みを感じて鼻をムニムニとして鏡や硝子に向かうまでの間にヒュッと姿をひそめる。
しかし鼻毛はなにも本体に意地悪をしているのではない。
鼻毛は根こそぎ抜かれるわけにはいかないからだ。
人が鼻毛の大切さに無知すぎるのだ。
鼻毛シェーバーなるものを手に入れて、あまりの使い勝手の良さに人区画を綺麗にすると、ならばいっそ身だしなみに邪魔な鼻毛は根こそぎ剃り抜いてスッキリしちゃえと、鼻歌まじりにジェノサイドする。
そして時既に遅しで鼻水が止まらなくなる。
いわばキーパーのいないPKのごとくアレルギーがどんどこ点数を入れてくるのだ。
「孝行したい時に親はなし。クシャミが止まらない時に鼻毛なし」
と、先人達が名言のひとつも残さなかった報いを知るのである。

しかし人はなぜ鼻毛を嫌うのか。
それはきっとその名に大きな負の歴史があるのだ。

「おくれ毛」「枝毛」
この言葉は朝の鏡の前で寝坊と遅刻に膨れっツラで急ぐ思春期の女の子の可愛い仕草が連想される。
しかし。
「毛」はまつ毛より数ミリ下の部位を足すとどうにもやるせない単語と成り果てる。
「耳毛(みみげ)」「鼻毛(はなげ)」「首毛(くびげ)」「胸毛(むなげ)」「ワキ毛(わきげ)」「腹毛(はらげ)」「すね毛(すねげ)」
可愛い思春期はどこにもいない。
連想されるのはおっさんの加齢臭だけである。
もし「髭」が「アゴ毛(あごげ)」ならばジョニー・デップはこの日本で人気者になれていないだろう。
髪の毛が「頭毛(あたまげ)」ならばヘアースタイルの歴史は発展しなかっただろう。
「はなげ」も「はなもう」であったり、もしくは「びもう」と呼んでいればもう少し人と共存できたかも知れない。
なんならば「隠れんぼする天使」とでも命名されていたのならば、こんなに負の神経質になる事もなかったろう。
国籍、民族に関係なく、日本語圏に生きる全ての人には「鼻毛」との摩擦に連帯責任がある。
ケンシロウが一人一人の秘孔をついて「鼻毛」という名の記憶を抜いて明日生まれる世代からは、鼻に咲く毛を可愛く命名すれば希望もあるかも知れないが、そんな事ができるわけもない。
今を背負って次に繋げるしかないのだ。

錯覚などと楽観を教えず、現実を伝え続ける。

鼻腔の入り口がムズムズした時、鼻毛は間違いなく出ている。

出ているのだ。



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