以前何度かこんな質問をされた事がある。
「演劇をされてるなら、やはり扇町ミュージアムスクエア(OMS)はひとつの目標でしたか?」
93年に旗揚げしたMayは確かにたくさんの劇場とたくさんの劇団が群雄割拠している時代を歩いてたけど、関西小劇場という土壌で引きこもり劇団だったMayは毎日岩の下を歩いてたので、頭上を争う群雄割拠はいつだってどこ吹く風だった。
年齢だけを重ねて中堅と呼ばれても、たくさんの劇団が飛んでいくステップアップを一緒に踏む事はなかった。
もちろん観劇としてOMSに足は運んだ。
劇団員がほとんど去っていよいよもって公演を打てなくなった時に、今の知識と今の消極ではダメだとガチ袋を担いで仕込み、バラし、大道具を知らない現場に学びに出歩いた。
鬱病最悪期でまともに働けなかった時期なのでお金にならない時間と出歩きを学べた。
その時期に色んな現場のお手伝いとしてOMSには何度も行ったし、劇場の外を歩いていく中島らもさんを見つけて、作業中なのにガチ袋を放り投げて全速力で走って握手を求めたり、7尺のパネルを作業場に忘れた舞監さんの頼みで地下鉄で7尺×2尺のパネルを一人で取りに行ったりとか、いくつもの思い出がある。
でも自分の劇団が此処に立つ事は絶対にないという感覚はあった。
劇場に対してではない。自分が今いる土台として。
OMSに立つ人たちを純粋に「凄いなぁ」とも感じていたし、若い劇団が立つと「おー、ここまで来たのかぁ」と感心もした。
でも何故だろう。他人の飛躍と成功に悔しさも妬みも、やはり人間だから持つ事はあってもOMSに立つようになった劇団に悔しさを感じる事はなかった。
なんとなく他の劇団の人達が対岸の蜃気楼だったのかも知れない。
そんな中でOMSまで上がった注目劇団の出演者が本番中でも小道具に苦しんでいる姿を見て「小道具手伝いましょうか?」と声をかけると本気でお願いされた。
その劇団は当時毎日大きくなっていって、作演の方も注目されて、同時に勢いをつけてきた色んな劇団と共にひとつの新しい劇場を生む事になった。
みんな二十代で元気もありすぎる分、劇団同士が作る畑があって、他の畑と強烈に歪み合う事もあったし、その歪み合いが競争心となる事もやはりあったし、寂しい出来事もあった。
そんな事もMayには対岸の火事で飛び火すらもなかったけど。
短い命だったその劇場にはどれだけ足を運んだかわからないくらい通った。
携わった劇団では地獄のような小道具現場だった。
数年を本当に休みなくGボンドと合皮とサンペルカに塗れて脳細胞も相当に死んだ。
本番に間に合わない小道具を阪急百貨店から劇場までの道を走りながら作った事もあった。
たくさんの愚痴も聴いたし、たくさんの揉め事も見たし、たくさんの怒号も聴いた。(もちろんたくさん笑った)
でも僕は当時も今も記憶に美化はなくてその劇場での数年間の地獄の業火も血の池も針の山も苦しみも本気で楽しかった。
今でも思い出話しで当時の関係者に「ただの一度も腹が立った事ないです」と言うと「え!??」と意外がられる。
現場を楽しませてくれた劇場の懐が大きかったのだと思う。
人間関係も筋力もその劇場で行われる作品に大きく飛躍させてもらった。
仲良くなった人も多く、演出で学んだ事も相当に相当に多く、もっと話したかったけど退いた人も多く、話したくても一言も話す事ができなかった人もたくさんいる。
それも含めてやっぱり美化やで。と言われると何も返せない。
でも人間関係に臆病な僕があの楽屋も袖口も舞台も光も音も楽しみに通い続けた数年は美化ではない事実だ。
「OMSっ子ではなかったです。僕はどちらかと言うとrise-1っ子でした」と答えるとキョトンとされる(笑)
あの時に小道具を作ってもたくさんの言葉を交わす事はなかった奈須崇さんと、くじら企画にて不思議なご縁で共演します。
奈須崇さんは短かったrise-1シアターをもっと激しく駆け抜けました。
御自身の経験や劇場への想いを作品として出版されました。
「上方スピリッツ」
もちろん劇場を知らなくても充分に楽しく読めます。
僕は最初の数ページからあの細い楽屋と袖口とモニターと管理の人達と、たくさんの事が思い出されます。
皆さま、どうかどうか書店で見かけたらお手に取ってご覧ください。